わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

介護者が集う家=磯崎由美

2009-06-12 | Weblog




 ケアする人のケアに取り組むNPO法人「介護者サポートネットワークセンター・アラジン」理事長の牧野史子さん(54)には夢がある。「介護者ハウス」のような場所を作ることだ。

 介護離職を余儀なくされた娘が親を連れてハウスに立ち寄る。親はミニデイサービスを受け、子は再就職に役立つ技術を身につける。家族一緒の旅を企画したり、疲れがちな人に寄り添うボランティアの養成もする場所という。

 牧野さんの活動の原点には阪神大震災での経験がある。仮設住宅への訪問活動から、家族を介護する人たちが悩みを抱え込んでいると知った。大災害があらわにしたのは日常の深刻な問題だった。

 母親を在宅介護していた元タレントの清水由貴子さんが自殺し、以前牧野さんから「最近、母親を世話する娘たちが危うい」と聞いたことを思い出した。母娘の間に日ごろ生まれがちな愛憎を抱えたまま介護に突入した時、娘に大きな精神的負担が生じているのではないか、と。

 清水さんの死で、介護者の置かれた状況に注目が集まった。同じような人は今も大勢いる。「なのに確かな解決策は示されていない。清水さんにも誰か1人、同じ経験をした話し相手がいれば、悲劇は防げたはず」。支援を続けてきた経験から、牧野さんはそう確信する。

 自分から救いを求められない人は多い。でも例えば母と2人で街に出て、ボランティアが母をみてくれる間に買い物を楽しめる。そんな場が増え、サポートを受けることが自然になれば、介護者を取り巻く空気も変わるだろう。

 介護者ハウスが実現すれば、高齢社会にふさわしい文化をはぐくむ一歩になる。(生活報道センター)


 

毎日新聞 2009年5月13日 東京朝刊


漢字=玉木研二

2009-06-12 | Weblog




 井伏鱒二(いぶせますじ)の随筆「おふくろ」にこんな場面がある。

 故郷・広島の田舎に暮らす老母が問うた。「お前、東京で小説を書いとるそうなが、何を見て書いとるんか」

 景色や歴史の本、人の話など見たり聞いたりしたこと、「そんなの書いとるんですがな」と答える。母は諭すように言う。「字引も引かねばならんの。字を間違わんように書かんといけんが。字を間違ったら、さっぱりじゃの」

 仏文学者の河盛好蔵(かわもりよしぞう)は「黒い雨」(新潮文庫)の評論でこれを引き「母堂の庭訓(ていきん)がどのようなものであったか」推察できようと書いている。

 日本漢字能力検定協会の巨額収益問題で、これを思い出した。問題にあれほど批判や関心が集まった理由の一つは、利用されたのが漢字だからだと私は考えている。今ブームだから、入試に活用されるから、だけではなく、私たちの文化の底流にあるもの、漢字を尊ぶ思いのようなものを逆なでにしたのである。

 「庭訓」(家庭教育)とはいわないまでも、幼児に「何て読む」「どんな字」と問われ文字教育は始まる。誰しも、漢字を聞かれた親や大人が宙に指を動かし字体を確かめる姿を覚えているだろう。

 もっといえば、遠い昔、渡来人や留学僧らの多くが海にのまれながらもたらした漢字である。難解さを学問と装ったり、権威づけたりはご免被るが、連綿と先人から引き継いで共有し、のびのびと活用すべき文化遺産である。

 さて、既に文壇に声名高かった井伏はどんな神妙な顔で母の諭しを聞いていたか。こんなことも言われている。

 「ますじ。そうそう酒を飲むと毒じゃがな。人が見ても、みっともないし、酒飲みは酒で身を誤るというての」(論説室)




毎日新聞 2009年5月12日 東京朝刊