わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

東条の孤影=玉木研二

2008-08-27 | Weblog
 公になった東条英機の敗戦時の手記は、この期に及んでなお継戦を主張し「新爆弾に脅(おび)へソ連の参戦に腰をぬかし」「簡単に手を挙ぐるに至るが如(ごと)き国政指導者及国民の無気魂(きこん)」をなじる。東条の狭量を裏付ける資料というのが大方の見方のようだ。

 では、どうしてこの程度の人物が開戦直前から2年9カ月も首相を務め得たか。その硬直した無責任政治システムの狭量も当然批判・解明されなければならない。だが、それはなおざりにされてきた。

 1944年夏のサイパン失陥で退陣を余儀なくされた東条は重臣間でも浮き、敗戦前後には、後難を恐れ人が近寄らなくなった。そして政府・軍部が懸念したのは東条の自決である。裁判で責任を負ってもらわねば累が他に及ぶ。

 占領軍上陸直前の45年8月27日、陸軍省高級副官が東京郊外・用賀の家を訪ね、様子を探った。その会見記によると、大将は肩章を外した軍服で畑仕事をしていたが、来訪者に大変喜んで野菜ばかりの五目飯でもてなし、自説を論じた。自決の意思は固いと見た副官からの報告で、大臣が説得に乗り出したという。

 結局東条は米軍が引致に来た時、屋内で拳銃自殺を図ったものの米軍の手術と輸血で助かる。心臓の位置に墨で印をつけ、風呂で消えそうになって急ぎつけ直したという逸話もあるが、的が外れた。

 歴史に「もし」は禁句だ。しかし、東条の姿が東京裁判の被告席になかったら、責任追及はどのような展開になっていたか--。東条の自決が未遂に終わり、裁判になったことに副官は「日本のために幸であった」と記している。(論説室)





毎日新聞 2008年8月26日 東京朝刊