散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

遠望・富士山2020.03.13(川と薬)

2020年03月13日 | ☆撮!富士 #Fuji

朝の富士山(見出し写真)

お昼どきの富士山


夕焼けの富士山


西丸興一著「法医学教室の午後」を読んだことありますか?
本棚を探しても見つからないので、うろ覚えなのですが、

司法解剖の必要な変死体は、舟で運ばれて来る、
と書いてあった気がします。

西丸興一さんは、横浜市立大学医学部・法医学の教授でした。
司法解剖を行う法医学教室のある医学部棟は、
今の南区役所のところにありました。
その前身は、三吉国民学校です。

横浜市伝染病院、のちの万治病院は、
学校の隣り、今の市大医学部浦舟病院のところにありました。

配置図を見ると、中村川に面して、正門を含む3つの門があります。
これは、伝染病患者をなるべく人と接触させないために、
川を利用して運ぶようにしたのです。

次に磯子区滝頭へ移転した時にも、

川には直結していませんが、
入院門は掘割川に近い位置にあり、
川を使って患者を運び入れたと「横浜疫病史」に書かれています。
昭和4年の配置図を見る限り、かなりの広さだったことがわかります。

関東大震災にしても、横浜大空襲にしても、
混乱時には、当然のように伝染病が発生しました。

屋根に赤十字のマークを表示していたので、
看護婦宿舎を除き、空襲は免れました。

戦地の兵隊が復員してくると、
昭和21年に発疹チフスと天然痘が、
昭和25年にも発疹チフスが横浜で大流行します。
当時は、治療態勢に入ると、
医師も看護婦も患者と同様に隔離状態・缶詰めになったそうです。
発疹チフスはシラミを媒介して感染したため、
進駐軍の命令で、DDT散布や予防接種などに狩り出されました。
また、進駐軍からは様々な薬剤が提供されて、
飲ませるグループと飲ませないグループに分けて投与。
2時間おきに血中濃度などを記録させられて、
そのデータは、進駐軍将校が持ち去ったとあります。

ただ、与えられた薬剤はほとんどが抗生物質で、
日本では初めて使うものばかりでしたが、
劇的に症状が改善するので驚くばかりだったそうです。


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