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涼風やさしく

伝説のみぃーちゃんシリーズとメイプルストーリー          
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社会の中で暮らすこと

2016年04月14日 | 日記

 

人は生まれてから自分の暮らしている日常のありふれた環境に対し、多くの疑問を持たない。


それが田畑が広がる風景、山々が見渡せる風景、水平線から昇る朝日、水平線に落ちる夕日、高層ビルが立ち並ぶ風景、電車やバス、多くの人々が行きかう風景であれ、目の前に広がる、それらの風景に違和感を抱くことは少ない。


 


その土地、地域で環境は様々であり、これに四季が重なり日本という国となっています。


国民は減少傾向にあり、1億2千人程度の集まりです。


都会で育った人は年老いたら田舎で暮らしたいと言い、田舎で育った若者は都会で住みたいと願う。


静かな場所は退屈で変化がないと思い、賑やかな場所では落ち着かないと思う。



家畜の臭いに慣れた人、騒音に慣れた人、湿度の高い夏の生活に慣れた人、凍えるような寒さの生活に慣れた人。


慣れても皆そう願うのことは、今の環境とは逆の生活環境です。


しかしながら生活環境が変わったとしても、時に一番落ち着くのは生まれ育った環境です。

ですが、その環境を振り返ることがあっても、その継続までは望もうとはしない。


まるで生まれ育った環境に対して、今の現実を確認して満足感を得ているように。

 

人が生まれ、老いてこの世を去る日まで、一人の人間としてどのようにすべきなのでしょうか。



最近話題になっている保育施設の問題。


昔から待機児童の問題はあったものの、施設の建て替え時に移転を強いられたり、施設の建築自体取りやめになることは皆無でした。


今の生活環境が「悪化」するという、懸念材料としての意見。

 


保育施設があることによって、送り迎いの個人車両が狭い道路を我が物顔で使用する。


確かに心当たりはあります。


雨が降ると1mmでも門の近くまで幅寄せる保護者、人の家の玄関先でも当たり前のごとく車を停める人。


時間を気にせず大声で笑う連中。


それに加えて、大勢の園児が朝から「怪鳥の如く」喚き散らす声。


それは聞こえるエレクトーンとともに音程のかなり外れた、元気過ぎる叫び声に近い歌声・・。


運動会をはじめ、催し物の時は特にひどい。


園児を写真で見たり、ご飯を夢中で食べている姿を見ていると、犬を飼ったことがない人が、犬を飼いたい、犬は可愛い、という気持ちと変わらないというのが本当の所です。



だから反対をする側の気持ちもよく理解できます。


まるでそこに施設が建築できないのが、周辺住民の嫌がらせだと言わんばかりで。


初めに出てくる言葉、周辺のことは無視して、「これじゃあ、私、働けない!!」。


働くことは良いこと。


でも、子供を預けるという選択肢を当然だと思わないでほしい。


本来どうするかについては、自分にも責任があるんですから。



矛先を向けやすいのはわかりますが、向け過ぎるのは良くありません。



先ず、自分の家の前に保育施設じゃなく、清掃事業センターや騒音、異臭の出る施設があったとした認められますか?



先ずは、そういうことなんです(立ち位置によって考え方が違うこと)。



しかし、これって住民と保護者の対決なんでしょうか?



私は国、行政側の動き方に疑問を感じます。


人口が減らない地域、著しく減少している地域、それによる財源確保も異なります。


道路は生活に密接に関係して、人や車が生活のためにもっぱら利用されるものです。


人が減ったら誰のための道路であり、地域となるのでしょうか。



最近、「社会環境育成に対する妥協」が欠如しているように思えます。


涼風は、個人の権利は尊重しても、主張するのは家の中だけにして、互いに歩み寄るべきであると考えます。


故意に自分に向けられているものは別として、社会環境の理由であれば、それを社会人として寛容に受け入れる手段もあるのです。

 

まるで、ここは駄目だけど、あっちは他人のところだから私には関係ない、向こうだったら良いよ、そう言うのと同じに思えます。


我々が幼い時、はたしてどれだけの人に迷惑を掛けたのでしょうか?


理由もなく大声で公共の場で泣き散らし、迷惑を顧みず走り回り・・・。


それをみんな都合よく忘れ、自分が優等生のように思い込んでいます。


この先のことを少し考えましょう。


老いて自分の子供たが介護が出来なくなったり、子供がいない場合は介護施設に行くことになります。


これは人間だから誰もが通る道です。


その施設が「この街」にあったら困る、そんな身勝手なことを誰かが言ったら移るのでしょうか?


老いたママやパパの生活環境が大きく変わるんです。


精神的に動揺するでしょう。


その施設に家族は、毎日行きたくても遠すぎて易々と通えません。


生活することに対しては、誰からも苦情は来ないでしょう。


ただ、介護職員が、陰で「あの人、うんちばっかりでうんざり・・」そう思いますよね。


だって、痴呆症出ない限り、認識は明確です。


迷惑ということに過剰反応した人は、きっと介護職員がそう感じている、感謝すべきところ、逆に敵対心のような誤った感情が芽生える人もいるかもしれません。


また、介護されている人とのコミュニケーションに支障が出るでしょう。


我々は人間として、誰かに老いても迷惑をかけ、それを誰かが理解して支えるのです。

 

これに対し、お金を払っているんだから当たり前と言いますか?

 

そこに人がいなくなったら、身勝手な人に対して誰も介護をしてくれません。

 

各々の人間が自己主張しすぎたら、生活環境のバランスは崩壊します。

 

 

しかし、面白いものですね。


子供たちは子供の大声が聞こえれば、自分もその輪に加わりたくて、わくわく感が止まらなくなるのに・・。

それを感じなくなると、不要なものとして遠ざけようとするんですからね。


人が増えれば学校が増え、車の往来も増え、地域環境も一変します。


誰が為に鐘がなり響き、誰が為に太陽が昇り、誰が為に雨は降るのでしょうか。



 

 

 

この先、子供たちに「社会」ってどういうことなのか、「社会貢献」って何なのかを聞かれたら、私たち大人は何と答えれば良いのでしょうか。


私は思いやる気持ちの集合体であり、それに対して一人ひとりが陰で支えることだって、そう話したいと思いますね。

人に意見する前に、己に意見して何かを考えてみようね。

           役所の地下に保育施設作って、屋上で遊ばせても罰は当たらないんだぜ。

           役所にあるいくつかの部署は、施設の空きがあったら移転させればいいんだからね。

           役所が全部まとまってたって、市民等には恩恵ないんだからね。 

 

 



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