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読書の作法

2021-03-13 18:51:24 | 不定期コラム
インターネットが一般的に利用されるようになり、読書の意義がむしろますます注目されるようになっている。
だが、電車の中を見渡してみると、9割がスマホをいじっている人ばかりで、本を読んでいる人は一昔前と比べても激減しているように感じる。
本だけではない。
マンガを紙で読んでいる人も、もはや絶滅危惧種といえる。
もちろん、週刊誌のマンガ雑誌を読んでいるような人も、随分と減った。
20年ほど前なら一般的だった、紙でマンガを読む人さえ、今はスマホに取って代わられている。

私は定期的に本を読んでいるようにしている。
それはスマホが日常に溶け込む前から当たり前に読んでいたことが影響しているだろう。
私がいま高校生くらいなら、これほど本を読む習慣を身につけていたとは思えない。

私は出版社に勤めているわけではないので、本を、しかも紙ベースで読んでもらうことで何の利潤も得ることはないのだが、私にとっての読書の作法を、紹介してみたいと思う。
誰も知りたくないのは承知の上だ。

私が本を読み始めたのは多くの読書家を自称する人とは違って、ずいぶんと大きくなってからだった。
高校生の頃、なんとなく映画化される前の原作本を読もうと思ったのが始まりだった。
その頃の私は、漫画を読むことはあっても活字を読むことに抵抗があり、一つの挑戦だった。
それでも読み始めて、高校生の小遣いにしては高価な文庫本を、読み切れるかどうか、おもしろいかどうかもわからない文庫本を読み始めた理由は一つだった。
「本を読んでいる人はかっこいい」と思っていたからだ。

当時憧れていた尾崎豊は、すでに他界していたが、十代のころから「罪と罰」を愛読書にしていた。
「罪と罰」が誰が書いたのか、どういう作品なのか、全く知らなかった私にとって、それは一つの目標であり、人生の課題とさえ思っていた。
「早い内に「罪と罰」を読まなければならない」と思い込んでいた。

そして、高校生から読書してみようと思い始めたのだ。
だから最初は「高校生で本(活字)を読んでいる人は珍しい、他の奴らとは違う」というそれだけのために読み始めた。
もちろん、同じクラブ、クラスメイトにそういう話題をしている人もほとんどいなかった。
だからこそ、読もうと思い始めたのだ。

私はだから、今でもかっこいいと思って読んでいる。
スマホを片手にゲームをしているじいちゃんばあちゃんを尻目に、私は本を開ける。
「え? そんな文化性の低い時間の使い方をしているの? ふふ~ん」という優越感を得るためだ。

私が本を買うとき、それはほとんど直感的に選ぶことが多い。
目的通りに買うことは3割くらいで、1冊買うと、必ず余計な予定外の本を2冊は買ってしまう。
そして積ん読が高く積まれていく。

図書館には行かない。
私はかっこつけるために本を読んでいる。
だから、家に本を並べるのが好きだ。
これだけ読んだのだ、ここにあるのは私が全部読んだ本だ、と誰に見せるわけでもなく並べることが快感だ。
だから、学生時代より以降、ほとんど図書館に本を借りたことはない。
良い本を図書館で見つけたら、必ず自分で同じ本を買う。
そもそも、めったに図書館には行かないが。

そして書店で本を買えば、必ずブックカバーを付けてもらう。
アマゾンで買うときは付けてくれないので、あらゆるサイズのブックカバーが家にある。
私は本を読んでいるとき、(大抵通勤途中の電車で読むが)他の人にどんな本を読んでいるのか知られたくない。
「そんな本を読んでるの? 笑っちゃうわ」と思われたくないからだ。

だから、電車の中で、最新の単行本を図書館から借りて、しかもブックカバーもせずに読んでいる人を見ると、「自分でこの人は本も買わないんだ。ふふ~ん」と私なりの(ちいさな)優越感を得るわけだ。
私は自分のことを知られたくないが、人の読んでいる本は酷く気になる。
以前ドストエフスキーの「悪霊」を読んでいると、同時期に若い女性が同じ「悪霊」を読んでいたのを見て、嬉しくなったものだ。
しかもそれはカバーを付けていて、中身の一節を読むとまさに数日前に私が読んでいた箇所だったので、余計に変な連帯感を覚えた。

私は人が読んでいる本を、そこまでチェックする。
え? 気持ち悪いって?
けれども、読書をする人にとって、人がどんな本を読んでいるのかは気になるものだ。
私だけかもしれないが。

本を読むのは、できれば3日以内に読み終わりたい。
その方が筋が分かるし、テンションを保ったまま読み終わることができるからだ。
とはいえ、そのときの体調や本業の忙しさによってはそれができないこともある。
酷いときは、読み終わることができないものもある。
私はそれでも気にしない。
大切なことは、本を常にカバンにいれて、何かしらを読み続けることだと考えている。

行きの電車で読み終わり、帰りの電車が手持ち無沙汰になるのが私はとても嫌だ。
何をすれば良いのか分からない、そういう電車や待ち時間が私はとても嫌いなのだ。
それは不安や恐怖と言ってさえ良いかもしれない。
だから、読み終わりそうになれば、もう一冊本を持ち歩く。
おかげでいつも通勤カバンはパンパンに膨らんで、オフに外出するときもA4以上のカバンしか持たない。
いきなり本屋に行って欲しい本が見つかったら、持って帰りにくいからだ。
子どもと公園に行くときでさえ、私は今読んでいる本を持って出かける。
大抵読む時間は与えてもらえないけれども。

私は速読はしない。
できない、ということもあるが、言葉は文字である前に、言語である。
だからこそ、音として楽しむことができる、という点も重要な読書の要素だと考えている。
また、基本的に私は端から端まで読み切る。
余程の事情がないかぎり、全て読み終わってからでないと次の本には行かない。
もちろん、同時進行で二、三冊読むこともあるが。
全て読むことが、著作者への礼儀だと考えるし、そうでなければ評価もなにもできないからだ。

そうして読み終わった本は、基本的にブックカバーを外し、本棚に並べる。
書店でつけてもらった、その紙のブックカバーを外してゴミ箱に捨てるときに、私は「読み終わった!」という実感を得る。
本棚に並べるときまでが、私の読書の作法なのだ。

時折、読み終わった本を眺めてみる。
ほとんど読み返すことはないだろうと思いながらも、何百冊も並んでいる本を見るのは壮観である。
結婚してからは、妻の本棚に私のそれ以降の読んだ本を追加する形になっているから、おそらく1000冊は超えている。
妻の方が読書家(小学生からの読書家)なので、私の本はごく僅かだ。
けれども、この本を眺めることが、また読書をしたくなる原動力でもある。

読書は決して楽な営みではないと思う。
ストレスもかかるし、時間とお金、場所を要する。
手っ取り早く読む、というようなことはなかなかできない。
それでも私は読むことを止めないと思う。

だって、本を読んでいる人の方が、「かっこいい」から。
動機は不純で良い。
子ども達にも、本のある生活を勧めたい。

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