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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

コロナによる絶滅危惧種 〈共食〉

2021-12-07 20:32:12 | 不定期コラム
コロナの影響で、マスクをすることが前提となり、新しい生活様式が定着した。
電車でマスクをしていない人はほぼいなくなり、大声で話すという大阪の名物は影を潜めた。
商店でもマスクをしている人ばかりだし、食事もほとんど会話がない。

相手の素顔を見ることはほとんどなくなってしまった。

相手との心理的距離、社会的距離はどのようなもので測るのか。
コロナ前は、おそらく五感が重要な意味を持っていた。
視覚、聴覚で相手を捉える距離は、人間関係はごくごく浅い関係であり、個人がふれあう大半の人はこれにあたった。
触覚、嗅覚になるとかなり親密な関係であり、味覚は家族や恋人しか知覚することがない距離になる。

だが、コロナ禍によって、その距離感は大きく変化した。
最近、「顔パンツ」ということばを耳にした。
他人に素顔を見られるのは恥ずかしい、素顔はほとんどパンツを見られるのと同じくらいプライベートな領域である、という程度の意味のようだ。
過激な表現ではあるものの、理解はできる。
それくらい、マスクは人間関係のあり方を変えてしまった。

食事を共にする関係は、どの程度親しい人間だろう。
かつては職場で集まってお酒を飲むことは当たり前だったし、疑義を唱えることすら難しい風潮だった。
だが、今ではもう過去の話だ。
特定であっても多数で食事を共にするのは、むしろ忌むべきことだとされるだろう。

こうして、〈共食〉という人間の根源的なコミュニケーションの場は崩壊した。
〈共食〉できる相手は、ほとんど一蓮托生、運命共同体になってもかまわない、というくらいの人間である。
万が一、コロナになっても相手も自分も納得できる、そういう了解がなければ難しい。
もちろん、これまで通り誰かと食事をすることに抵抗を感じない人もいるだろうが、やはり圧倒的にその機会は減ったことは事実だ。

そして、〈共食〉という場がなければ、相手の素顔を見ることもまたなくなった。
相手の素顔を見ることができる、見せることがある機会が、唯一食事を共にするときだけになった。
もちろん、家族や同居している相手以外で、ということだが。

コミュニケーションのグラデーションともいえるスペクトラムが、完全に崩壊しつつある。
人間関係が、食事を共にできるくらい(素顔を見せることができるくらい)親密か、そうでないかという二種類しかいなくなってしまった。
これはどのような意味を持つのだろう。

私はこの新しい生活様式が、人間の人間たる部分に強く影響するのではないかと考えている。

コロナという病は、すべからく社会的な病であると考えている。
病気そのものがもつ毒性よりも、それを社会がどのようにして扱うかという点の方が遥かに重視されるからだ。
その意味で社会化された病という見方もできる。

だからといって、コロナより前に戻ることはもはやできない。
ノスタルジックに思い出すことはできても、それは眼前の課題を無視した単なるファンタジーでしかない。

だが、私たちがどのような文化を築いてきて、新しい生活様式がどのようにその文化に影響を与えているか、という点をしっかりと見据えなければ、経済や政治、主義主張のみの意思決定に従うことになる。
目の前のことにだけ、見えることだけを追う実学には、見えないことを見る。
そういう抽象化する力、言説、視座こそが、この状況の打破にはなくてはならないはずだ。

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