評価点:86点/2024年/日本/58分
監督:押山清高
作り手による、二つの矜恃。
田舎に住む小学生の藤野歩(声)は毎週4コマ漫画を学年通信に連載していた。
周りからちやほやされて、漫画家になれる、と褒められるのに喜びを感じていた。
そんなある日、先生から4コマ漫画の枠を、不登校の京本にわけてあげてくれ、と頼まれる。
どうせ描けっこない、とたかを括っていた藤野だったが、完成した学年通信を見て衝撃をうける。
緻密な描写は藤野にはなかった筆致だった。
それまで曖昧に描いていたことに気づいて、真剣に漫画に向き合うことに決める。
藤本タツキの同名短編が原作の映画である。
私が紹介するよりもはるかに有名な作品なので、紹介は蛇足になるだろう。
この作品も映画として短い小品になっている。
私は原作を周囲の人に勧められて読んで、それから映画館に行った。
短い作品だし、何も知らなくても十分理解できる話ではある。
「チェーンソーマン」が売れているのでそちらの作風が苦手な人は敬遠するかもしれないが、作風もテーマも全く違う。
藤本タツキがさまざまなところで、天才だと称される、その所以になった作品でもある。
▼以下はネタバレあり▼
ほぼ原作に忠実な筋で、変に長編にしなかったところがよかったのだろう。
私は原作を知っていること、私自身も少し絵を描いていたこと、たまたま最近読んでいた本が芸術に関するものが多かったことなどもあり、オープニングから感極まっていた。
だから冷静に映画を鑑賞したとは言えないかもしれない。
小品なのだが、絵を描くこと、作品制作に向き合うこと、ということについて真摯に描かれている。
説明的な描写は少なく、それでもみずみずしい彼女たちの挑戦が、その思いが手に取るように描かれているのは、徹底したディティールによるものだろう。
自分より絵が上手いやつがいることを知った絶望、ひたすらに描く練習をしても上手くなったように思えない焦り、自分の苦痛を理解してくれる人に出会ったときの喜び、何のためにという原点を見失いそうになる日常。
そういったディティールは、絵を描いたことがない人でも感じたことのある思いだろう。
スポーツでも勉強でも音楽でも、どんなことでも一生懸命に打ち込んだことがある人なら感じたことがある、普遍的な感情だ。
私はこの映画を見ながら、私がなぜ仕事をしているのか、ということを思い出させてくれたように思う。
抽象化した意味づけを行うことが正しい鑑賞態度なのかはすこし置いておくとして、シンプルに言えばこの作品はなぜこれほどまでに自分はがんばるのか、ということを問い直す物語だ。
なぜ藤野はマンガを描くのか。
マンガを描いたり、京本を外に連れ出したりしなければ、私は京本を失うことはなかったのに。
けれども、そうではないのだ。
藤野がマンガを描き続けられたのは、たった一人の読者、たった一人のファンを喜ばせるためだった。
それはどんな仕事をしていても、同じように感じるものだろう。
働いていれば、その原点を見失うことが多くなる。
やりたくないこと、すべきではないことをやらされたり、やるべきことを見失ったりする。
けれども、その情熱の原点は、「お金になるから」といった短絡的なことではないはずだ。
この作品が、いわゆるマンガが好きな人、アニメオタクだけが喜ぶような作品を越えて、昇華されているのは徹底的なディティールが、普遍的なところまで昇華されているからだ。
私はこの作品を見ながら、押山監督の二つの矜恃を感じた。
(監督以外ももちろん制作には関わっているが、制作状況を知る限り彼のパトスがその根幹だろう)
一つは、アニメやマンガがもつ、自分たちの仕事に対する矜恃だ。
京本という少女を部屋の中から出したり、藤野という少女の生きる道を見いださせたり、マンガやアニメは生きる糧になりうるのだ、そういう仕事をしているのだ、という矜恃がある。
私は命を削りながら描いている。
一つの線に、並々ならぬ思いを込めている。
その矜恃が伝わるアニメーションだったし、作画だった。
もう一つは、やはり京都アニメーションの事件とどうしても重ねてしまう部分だ。
この作品があの事件を彷彿とさせてしまうのは致し方ない。
それは、原作者の意向云々というよりは、社会的な状況がそれを許さないからだ。
私はそうは思いつつ、その社会的な視座を括弧にくくりながらみていた。
もう一つの矜恃とは、映画という表現媒体はどこまでもフィクションを創りあげながら、それでも真実に迫ろうという強い信念である、というものだ。
物語の終盤、原作と同様、「藤野と漫画家にならずに京本が殺されない世界」を夢想する。
それは夢想でありながら、現実であり、書き換えられようもないフィクションである。
私たちは現実に生きている。
けれども、その傍らはには常にこうだっかもしれないという想像と、こうあってほしいという願いがある。
その思いもともに、私たちは生きている。
アニメも同様に、いってみればどこまでもフィクションにすぎない。
けれども、そこには「そうかもしれない」「そうだったかもしれない」というあり得たリアルな感情を思い出させる。
そのあり得たかもしれない、というフィクションを追求すること、それが私たちの仕事なのだ、という矜恃がある。
その思いまで受け入れて、「もう描けるわけがない」という絶望の中でも、描くことで前に進む。
その逡巡さえも私たちは作品作りに込めているのだ、という強い思いがこの作品にはある。
下手な監督なら、京都アニメーションの事件を受けて、内容を差し替えたかもしれない。
事件を、アニメで再現するような、二重の苦しみを一定の観客に強いることになるから。
それでも敢えて描いたのは、私たちが勝負する場は、ここなのだ、という宣言にも似ているだろう。
ディティールの積み重ね、それが作品として成立することの面白さを改めて知らされた。
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