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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||

2021-03-11 16:04:42 | 映画(さ)
評価点:∞点/2021年/日本/235分

総監督・脚本・原案:庵野秀明
主題歌:宇多田ヒカル

変わるものと、変わらないもの。

前作から直後、エヴァ2号機と8号機の装備を整えるためヴィレの葛城ミサト(声:三石琴乃)らは、パリにあるネルフ基地を訪れた。
すでにコア化されてしまっており、そのコア化を解除しようとしたところ、ネルフの所有するエヴァに襲われる。
なんとかマリ(声:坂本真綾)の乗る8号機で斥けたヴィレは、ファイナルインパクトに備えて装備を拡充させる。
一方、フォース・インパクトの際の渚カヲルの死を受け入れられない碇シンジ(声:緒方恵美)は、鈴原トウジらと再会する。

8年の時を経て、完成した最後のエヴァンゲリオン。
テレビシリーズから数えると、実に四半世紀が経った。
そのとき学生だった人は、もういいおっさん、おばさんになった。
そのとき生まれてもない人たちは、このムーブメントに追随し、大きなうねりとなった。

しかし、リブートされたこのシリーズも、いよいよ最後の劇場公開となった。
これだけ多くの人を、多くの世代を巻き込んだアニメは、短い戦後史の中でも当然稀有だ。
今後も現れるとは限らない。

しかも、新型コロナウィルス蔓延の影響で(ほんまに?)、二度公開日が延期された。
緊急事態宣言が解除された(都心部は除くが)このタイミングで、公開となった。
異例の月曜が初日という、美容師業界に配慮したようなタイミングだ。
私は大急ぎで退社して、映画館に向かった。
これまで閑散としていた映画館とは打って変わって、人の群れができていた。

例によってシリーズを知らない人にはお断り、映画単体としての自律性は皆無だ。
心して235分を楽しむしかない。


▼以下はネタバレあり▼

【日常を描くというシリーズの一貫性】

この公開に合わせて、私は手許にあるBDの「」「」「」を見直しておいた。
公開当時から気づいていたことを、改めて再確認していた。
それは、このシリーズは限られた上映時間の中でも、「ヱヴァ」にある〈日常〉を描こうとしているという点だ。
すべてのシリーズで、食事をしたり、通勤したりする姿が描かれていた。
ヱヴァは、「巨大ロボット」で戦闘をする物語ではなく、〈日常〉がどのように変化していくのかを描いた作品だった。
特に「」と「」でその役割を担っていたのが、鈴原と相田の二人だった。

だから、序盤に二人が生きていることが明かされ、その日常が描かれることに違和感はなかった。
やはりこの映画は〈日常〉を描くところが、出発点なのだろう、という感じがした。
と、同時に、主眼が「アナザーインパクト」にあるのではなく、やはり人の心の持ちようにあるのだということがはっきりした。
物語がどこへ向かうのかはその時点では全く読めなかったが、上映時間を長くしてまでも、この描写にこだわるのは、やはり「ヱヴァ」の主眼がそこにあるからだ、という印象を受けた。

この映画は、このシリーズは、確かにそうだったはずだ。
ロボットがバンバンするような、単なる戦闘アニメではなかった。
碇シンジという少年がどのように自分と周りを受け入れていくか、という物語だった。
その象徴的な表現として、汎用人型決戦兵器による敵(使徒)との戦闘が描かれていた。

よって終幕へと向かっていくこの映画には、〈日常〉を序盤で描いておく必要があったのだ。
そして、物語はその〈日常〉と対比的に、熾烈な戦闘へと展開していく。

私よりも聖書に詳しい人が恐らく記号の解読は行ってくれるだろうから詳しくはそういう人たちに譲る。
人類補完計画とは、個人では乗り切ることができない不安や怒り、喪失、悲哀を人類が一つのコアとなることによって浄化し、克服しようとするものだった。
ゲンドウは、その中で願ったことは、もう一度自分を孤独から救い、そして孤独に追いやった妻ユイと再会するということだった。
四本の槍がどのように作用するのかといった仕組みについては言及を避ける。
とにかく、ゼーレたちが願った人類補完計画をより自分の願いに引き寄せた計画を持っていた。

それを止めるためにシンジは再びエヴァ初号機に乗り込み、父親と初めて対話する。
そのとき、父親はその目的を告白する。
そこで父親はそれまで避けてきたシンジにこそ、母親の存在を感じられる唯一のよりどころであることに気づく。
避けてきた存在が、むしろ向き合うべき相手だったことを知る。

それまで人類補完計画のために運営されてきた、仕組まれた子ども達レイ、アスカ、カヲルとも対話することで、エヴァのパイロットとしての自分を赦し、彼らは解き放たれる。
究極の自己肯定を得ることで、物語は終幕する。
それは人類補完計画で目指された自己の安定とも通底する到達点であったようにも思う。

元に戻った世界で、シンジはマリとともに新しい世界に駆け出していく。

さて、ラストで碇ゲンドウとのやりとりまで見れば、この映画はどこまでが現実で、どこまでが虚構(あるいは精神世界)のなのかが判断が付かない。
ヴンダーが果たして槍になるとはどういうことか。
ミサトさんはやはり犠牲になったのか。
エンドロール間際、シンジとマリのいる世界は、果たして現実なのか。

セカンドインパクトの爆心地に到達したゲンドウは虚構と現実の入り交じる場所であるというような言い方をしていた。
どこまでも謎は残る。

だが、TVシリーズから庵野に付き合ってきた観客であれば、その問いそのものが無意味であるということはよく分かっていることだろう。
リブートであろうと、リビルドであろうと、この映画はエヴァなのだ。
どこまでが現実で、どこまでが虚構であろうと、仕組まれた子ども達は、おそらくそれぞれのやり方で、新しい出発を迎えた、ということは確信できる、そういうラストだった。

【双方向の物語】

私は見ながら、この映画もまた賛否両論が起こりうる映画だな、と思っていた。
描いて欲しかった部分、描いて欲しくなかった部分、説明しすぎた部分もあったように感じた。
庵野はそうした可能性を全部引き受けた上で、この映画を完成させた。
私はこの映画が賛否両論が起こりうる、そのことがエヴァらしさそのものなのだろうと哀別の思いを持っている。

だが、それは映画の出来不出来や、終幕へ向かう抽象性を指しているのではない。
この映画は、映画としての一人語りをやめて、双方向的な物語になっている点が、賛否両論を生むことになるのではないか。

劇場のパンフレットにある、シンジ役の緒方恵美のインタビューでは、シンジはゲンドウの狂言回しのような役割になる、とある。
確かに、ゲンドウとシンジは爆心地の中でエヴァに乗りながら対話する。
そこで、ゲンドウは自分の孤独とユイへの思いを語る。
この映画は、シンジの物語でありながら、ゲンドウの告白を促すような導き手となっているわけだ。
だが、忘れてはならないのは、ゲンドウはすでに人の姿を捨てた存在であるということだ。

だからリツコ博士に銃で撃たれても死ぬことはない。
彼は既に肉体の束縛から逃れた存在である。
故に、彼自身というよりはシンジとの対話によって生まれた存在ともいえる。
その意味で、あのゲンドウはシンジの中のゲンドウでもある。
ラストで自分の孤独に納得するのはゲンドウ自身でありながら、シンジの中のゲンドウでもあるわけだ。
こういった双方向性が、この映画(シリーズ)の、新しかった点だろう。

そして、このエヴァンゲリオンがどれだけ謎を解いても解ききれないという、作り手と観客との双方向性でもある。
故に、この映画を全く評価しない人は、この映画が理解できないのではなく、双方向的なやりとりができないということだ。
それはその評価しない人に問題があるのではない。
こういった種類の物語を求める必要がない人がいても仕方がない、そういうレベルでの不可能性だ。

シンジとゲンドウの対話を見せることで、答えは映画の中だけでは完結し得ないことを示した。
それは、映画と観客がどのような距離で鑑賞するかという、一人一人の観客の問題に帰着する。
故に、このエヴァンゲリオンが常に賛否両論起こりうるわけだ。

このような問いかけを行った映画やアニメはかつてなかった。
少なくとも、これほどのムーブメントを引き起こすまでに、人々の関心の目に耐えうるものはなかった。
その点が庵野秀明の新しさだったのだろう。

分からない人にはわからない。
どれだけ謎を解説されても、分からない人には分からない。
映画という表象空間は、映画そのものではなく、見る人の心の中に浮かぶものだ。
分かる人には(少なくとも分かったという気になった人)分かる。
そういう双方向性が、この完結編にも貫かれている。


【変わるものと変わらないもの】

公開日が延期され、3.8に公開されるということが直前に発表された。
多くの人は、恐らく「意外に早い!」と思っただろう。
それはマーケティングのこともあり、一度揺り動かした「完結編を見たい」というファンの心の火が消える前に、公開したかったのかもしれない。
けれども、見終わった私は、それ以上に、なんとしてでも3.11を迎える前後で公開したかったのだろうという気がしている。

テーマはテレビシリーズと変わらない。
人類補完計画の中身も、ゲンドウの願いも、シンジの答えも、おそらく大きく変わらない。
様々な用語が増えたり、ヴンダーが登場したり、それでも描きたかった本質はそれほど変わらないと思う。
25年も一つの物語を描き続けられる、庵野が少し羨ましくもある。

だが、25年を経て変わってしまったものもある。
その一つが3.11ではなかったか。

」が公開されたとき、世界が壊れた様子を見て、日本に住んでいる者なら誰しも3.11の日本を思い浮かべたことだろう。
シンジの慟哭が深く響いたのも、その壊れた世界がシンジによるものだったことを突きつけられたからだ。
私の思いが、誰かを傷つけるかもしれない。
そうした深い喪失を思わせた。
被災地の近くにいた人はその感覚はより研ぎ澄まされただろう。

だから、そのメッセージが持つ意味は、より強く感じられることだろう。
失ったものをどう取り戻すのか。
残されたものとどう向き合うのか。
それは3.11から10年を経た今年だからこそ、突き刺さることがある。
公開日が平日に設定されたのも、3.11より【前】でなければならなかったからではないか。

そのように考えると、碇ゲンドウや冬月たちのネルフの計画と、それを阻止しようとしたヴィレの考えは対比的でありながらともに喪失を共有していることが分かってくる。
大きな喪失を経験したとき、人はどちらに向かうのか。
その喪失を取り戻すべく虚構の世界でも一つになろうとするのか。
その喪失を受け止めて、それでも現実と向き合おうとするのか。
二つの物語、二つの考えがせめぎ合っている物語である。

日常と非日常、その対比もそこに落とし込むことができる。
人間が全くいなくなってしまったネルフ本部。
人間が懸命に生きようとしている第三村と、ヴンダーのクルーたち。
希望を捨て、ただ過去に戻ることを願ったゲンドウ。
愛する人を失っても世界の希望を願ったミサト。
リアルか虚構か。

一般論や大きな喪失を経験したことがない人なら、当然「現実に生きろ」と言うだろう。
けれども、それは当事者の言葉ではない。
ゲンドウもミサトも、どちらの考えが正しいとは、一概にいいきれない。
それほどゲンドウやミサトが失ってしまったものが大きい。
そう、3.11を経験した私たちにはそれが痛いほど分かる。

もう一つ変わってしまったものがある。
それは、私だ。
エヴァと出会ったとき、私はまだ若者と言っていい年齢だった。
今でも若いつもりだが、そうとは言えない年齢になった。
だから、私はこの映画を、以前ほどの衝撃をもって受けとめることができなかった。
はっきり言えば、それほどおもしろいとは思えなかった。
揺さぶられなかったのだ。

双方向的な映画だと先に述べたのは、そういう意味だ。
私はこの物語を必要とするところにいない。
少なくとも、今は。

「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」ということばを、私は一つの喪失として聞いていた。
だから評価点をつけたくない。
付けられない。

変わってしまったことを認めたくないから。
変わってしまったことに対して、私は誇りを持っているから。
この作品に育てられたのは、この映画の作り手だけではないから。

もう何度か見て、私はその双方向性を見極めたいと思う。

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