評価点:38点/2000年/アメリカ
監督:ウィリアム・フリードキン
その判決、強引です。
海兵隊で特殊任務のリーダーに任命された、チルダース大佐(サミュエル・L・ジャクソン)は、イエメンのアメリカ大使館に到着したとき、暴動がおき、混乱状態にあった。
無事に大使を救出した彼だったが、部下が射殺され、民間人に発砲命令を出す。
そしてその場にいたデモに参加した民間人83人を殺してしまう。
国際問題への発展を恐れた政府は、チルダースを戦犯として裁判を開き、有罪にさせようともくろむ。
対するチルダース大佐は、ベトナム時代、生死をともにしたホッジス(トミー・リー・ジョーンズ)を弁護人に立て、「民間人が武器を持って攻撃してきた」と主張する。
▼以下はネタバレあり▼
平たく言うと、戦争を題材にした裁判もの。
外交の問題や、戦争下における命の扱い方、理想主義的な考えではどうしようもない戦争の悲惨さなど、重たいテーマを持っているが、ドラマとしては法廷サスペンスなので、観客の楽しめる余地は、論理をいかにひっくり返し、不利な状況を打開し、「勝ち」を得るか、にある。
「真実の行方」でも言ったように、法廷サスペンスの肝は、論理性と最終弁論にあるのだ。
このどちらかを欠くと、どうしても台詞が多くなる裁判ものは、とてもつらいものになってしまう。
特に、裁判であるため、論理性を欠く事は映画を楽しめる云々以前に、映画としての成立が難しくなってしまう。
この物語は、大使館に詰め寄る暴動を銃撃し、民間人を殺してしまったことに始まる。
当然、政府は責任を問われ、間違えば大きな国際問題に発展する危険性を帯びている。
政府としては、国の決定の元の銃殺、ではなく、誰か一人の判断による殺人、もしくは、一人の判断ミス、として結論付けたいという思いは非常に合理的である。
一方、エリート軍人のチルダース大佐は、民間人が武器を持ち発砲し、部下を射殺したので、発砲命令を出したと主張する。
しかし、残された死体には武器はない。
向かいのビルからライフルで狙撃手がいたこともあり、誤って判断したのではないか。
また不幸にも、民間人が銃を手にしていた姿を部下も見ていない。
まさに絶体絶命の状況で裁判が開かれるのである。
この「事件」の、冒頭における焦点は、「ほんとうにチルダースは民間人が発砲しているのを確認したうえで殺したのか」ということと、
「もしほんとうにチルダースが言っていることが正しいのであれば、それをどうやって証明するのか」ということだ。
前者は、「虐殺」がおきたとき、民間人へカメラを回さなかったことにより、観客も、ほんとうに銃を持っていたのかがわからない。
ゆえにそれが明かされる中盤まで、チルダースを、弁護人ホッジスと同じように疑うことになる。
また、後者の謎は、そのまま物語のテーマであり、それがわかれば自動的に物語が終わることになる。
しかし、この映画では、この二つの焦点で、二つとも失敗している。
まず前者の疑問は、中盤まで引っ張られることにより、チルダースに観客が感情移入できない。
はっきり言って、映画的には、明らかにチルダースの主張は嘘ではない。
それは観客は誰もが知っていることである。
であるにもかかわらず、いたずらに中盤まで引っ張るという「じらし」を行なったため、
「え? 本当はどっちなの?」という疑問が頭をよぎり、
チルダースを疑うハメになる。これによって物語の流れがスムーズにいかない。
しかも、その明かされ方が、非常にあっさりしている。
中盤でいきなりビデオテープが登場し、観客は、展開に変化もなくその事実を知ってしまう。
これだけ引っ張ったのに、ほとんどその意味が理解できないほど、あっさり知らされてしまうのだ。
これでは、すでに物語が、「銃を持っていたか否か」であると思っている観客にとって、肩透かしを食らわす以外の効果はない。
さらに、「どうやってそれを証明するのか」という焦点も疑問が生まれるような展開になっている。
最大にして唯一の証拠である、ビデオテープがこれまたあっさり燃やされてしまうからである。
それまでの裁判の流れが、明らかに、ビデオテープ次第、であったのに、弁護人のホッジスが見る前に失われてしまうのである。
これでは、誰が見てもビデオがあったの、なかったのという水掛け論になってしまい、チルダースが勝てる見込みがなくなる。
しかし、裁判には勝ってしまうのである。
なぜ勝ったかの一向にわからない。明らかに不利だった。
ホッジスは、証拠がないために、事件の事実から離れ、チルダースという人物の性格にまで迫ろうとしてむなしい論を展開していたほど、打つ手がなかった。
また、証拠を隠滅した男に「絶対に証明してやるからな!」と根拠のない、証明しようがないことを言って脅すのである。
そもそも陪審員は、証拠のテープがあったかどうかも知らないのに、「無罪」と言い渡してしまうのは無理がある。
最終弁論がそれほど感動的なものであったとは思えないし、チルダースが勝てる見込みは、全くのゼロなのだ。
それなのに、無罪。これでは、映画を裁判ものにする必然性が全くない。
もともと、個対組織という対立構造は、アメリカ人がとても好む図式だ。
それはわかる。
その意識が、陪審員にもあったということも理解できる。
戦争の重さを充分理解してやれる弁論であり、ストーリーであったことは確かだ。
でもなんで無罪なの?
それを解決してくれないと、どうしようもない。カタルシスのかけらもない。
戦争の残酷さと、それをなんとも思わない政府、この対立は重たいテーマであり、面白いモティーフでもある。
なのに、ここまで観客を裏切り続けると、映画として非常につらいものがある。
最後に実話のようなテロップがあるが、これがほんとの意味で実話であるなら、アメリカは法治国家であるというのは、嘘だと言わないといけない。
そもそも、トミー・リー・ジョーンズで当たった映画が少ない。
「スペース・カウボーイ」にしても期待はずれに終わった感が否めない。
嫌いな俳優ではないんだけど、やっぱり誰かを追うイメージが強すぎるのかな。
(2003/12/7執筆)
よくよく考えると、民間人虐殺を題材にすることは、ある意味では思い切った設定だ。
十年ちかく経った今、アメリカの迷走の原因となる基底的な思想が、この映画のスタンスにあるのかもしれない、とも思えてしまう。
監督:ウィリアム・フリードキン
その判決、強引です。
海兵隊で特殊任務のリーダーに任命された、チルダース大佐(サミュエル・L・ジャクソン)は、イエメンのアメリカ大使館に到着したとき、暴動がおき、混乱状態にあった。
無事に大使を救出した彼だったが、部下が射殺され、民間人に発砲命令を出す。
そしてその場にいたデモに参加した民間人83人を殺してしまう。
国際問題への発展を恐れた政府は、チルダースを戦犯として裁判を開き、有罪にさせようともくろむ。
対するチルダース大佐は、ベトナム時代、生死をともにしたホッジス(トミー・リー・ジョーンズ)を弁護人に立て、「民間人が武器を持って攻撃してきた」と主張する。
▼以下はネタバレあり▼
平たく言うと、戦争を題材にした裁判もの。
外交の問題や、戦争下における命の扱い方、理想主義的な考えではどうしようもない戦争の悲惨さなど、重たいテーマを持っているが、ドラマとしては法廷サスペンスなので、観客の楽しめる余地は、論理をいかにひっくり返し、不利な状況を打開し、「勝ち」を得るか、にある。
「真実の行方」でも言ったように、法廷サスペンスの肝は、論理性と最終弁論にあるのだ。
このどちらかを欠くと、どうしても台詞が多くなる裁判ものは、とてもつらいものになってしまう。
特に、裁判であるため、論理性を欠く事は映画を楽しめる云々以前に、映画としての成立が難しくなってしまう。
この物語は、大使館に詰め寄る暴動を銃撃し、民間人を殺してしまったことに始まる。
当然、政府は責任を問われ、間違えば大きな国際問題に発展する危険性を帯びている。
政府としては、国の決定の元の銃殺、ではなく、誰か一人の判断による殺人、もしくは、一人の判断ミス、として結論付けたいという思いは非常に合理的である。
一方、エリート軍人のチルダース大佐は、民間人が武器を持ち発砲し、部下を射殺したので、発砲命令を出したと主張する。
しかし、残された死体には武器はない。
向かいのビルからライフルで狙撃手がいたこともあり、誤って判断したのではないか。
また不幸にも、民間人が銃を手にしていた姿を部下も見ていない。
まさに絶体絶命の状況で裁判が開かれるのである。
この「事件」の、冒頭における焦点は、「ほんとうにチルダースは民間人が発砲しているのを確認したうえで殺したのか」ということと、
「もしほんとうにチルダースが言っていることが正しいのであれば、それをどうやって証明するのか」ということだ。
前者は、「虐殺」がおきたとき、民間人へカメラを回さなかったことにより、観客も、ほんとうに銃を持っていたのかがわからない。
ゆえにそれが明かされる中盤まで、チルダースを、弁護人ホッジスと同じように疑うことになる。
また、後者の謎は、そのまま物語のテーマであり、それがわかれば自動的に物語が終わることになる。
しかし、この映画では、この二つの焦点で、二つとも失敗している。
まず前者の疑問は、中盤まで引っ張られることにより、チルダースに観客が感情移入できない。
はっきり言って、映画的には、明らかにチルダースの主張は嘘ではない。
それは観客は誰もが知っていることである。
であるにもかかわらず、いたずらに中盤まで引っ張るという「じらし」を行なったため、
「え? 本当はどっちなの?」という疑問が頭をよぎり、
チルダースを疑うハメになる。これによって物語の流れがスムーズにいかない。
しかも、その明かされ方が、非常にあっさりしている。
中盤でいきなりビデオテープが登場し、観客は、展開に変化もなくその事実を知ってしまう。
これだけ引っ張ったのに、ほとんどその意味が理解できないほど、あっさり知らされてしまうのだ。
これでは、すでに物語が、「銃を持っていたか否か」であると思っている観客にとって、肩透かしを食らわす以外の効果はない。
さらに、「どうやってそれを証明するのか」という焦点も疑問が生まれるような展開になっている。
最大にして唯一の証拠である、ビデオテープがこれまたあっさり燃やされてしまうからである。
それまでの裁判の流れが、明らかに、ビデオテープ次第、であったのに、弁護人のホッジスが見る前に失われてしまうのである。
これでは、誰が見てもビデオがあったの、なかったのという水掛け論になってしまい、チルダースが勝てる見込みがなくなる。
しかし、裁判には勝ってしまうのである。
なぜ勝ったかの一向にわからない。明らかに不利だった。
ホッジスは、証拠がないために、事件の事実から離れ、チルダースという人物の性格にまで迫ろうとしてむなしい論を展開していたほど、打つ手がなかった。
また、証拠を隠滅した男に「絶対に証明してやるからな!」と根拠のない、証明しようがないことを言って脅すのである。
そもそも陪審員は、証拠のテープがあったかどうかも知らないのに、「無罪」と言い渡してしまうのは無理がある。
最終弁論がそれほど感動的なものであったとは思えないし、チルダースが勝てる見込みは、全くのゼロなのだ。
それなのに、無罪。これでは、映画を裁判ものにする必然性が全くない。
もともと、個対組織という対立構造は、アメリカ人がとても好む図式だ。
それはわかる。
その意識が、陪審員にもあったということも理解できる。
戦争の重さを充分理解してやれる弁論であり、ストーリーであったことは確かだ。
でもなんで無罪なの?
それを解決してくれないと、どうしようもない。カタルシスのかけらもない。
戦争の残酷さと、それをなんとも思わない政府、この対立は重たいテーマであり、面白いモティーフでもある。
なのに、ここまで観客を裏切り続けると、映画として非常につらいものがある。
最後に実話のようなテロップがあるが、これがほんとの意味で実話であるなら、アメリカは法治国家であるというのは、嘘だと言わないといけない。
そもそも、トミー・リー・ジョーンズで当たった映画が少ない。
「スペース・カウボーイ」にしても期待はずれに終わった感が否めない。
嫌いな俳優ではないんだけど、やっぱり誰かを追うイメージが強すぎるのかな。
(2003/12/7執筆)
よくよく考えると、民間人虐殺を題材にすることは、ある意味では思い切った設定だ。
十年ちかく経った今、アメリカの迷走の原因となる基底的な思想が、この映画のスタンスにあるのかもしれない、とも思えてしまう。
大事な部分を見落とし過ぎ。
最近仕事が忙しくなり、またまた更新が滞りつつあります。
今日は久しぶりに予定のない休日になりましたが、疲れが出たのか一日中寝ていました。
そしてドライブがてらに今週の食材を買いに行こうとしたら、なんとエンジンがかからない!
どうやらバッテリーが上がってしまったようで。
そんな使い方をしていないと思うのだが……。
>きもいさん
貴重なご意見ありがとうございます。
できればもう少し具体的なご指摘をいただきたいと思います。
なにぶん十年前の記事ですので、私はほとんど覚えておりません。
また、映画の評論を辞めるつもりはありません。
個人で楽しんでいることですので、どうぞご容赦ください。
今後も貴重なご意見お待ちしております。