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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

〈装置〉としての実話 その1

2010-02-23 22:43:40 | 表現を考える

「この話は真実に基づいて作られています」
「この映画、実話だから感動できた」

……よく、映画や本、マンガなどのメディアで、このような言葉をよく聞く。
彼らの話を聞くと、「真実」や「実話」であることが、最上のことであるかのように思っているように、感じる。
おそらく、日本人(だけかどうかはわからないが)にとって、「実話」であることは、感動を呼んだり、涙を誘ったりする代名詞とも言えるのではないか。

だが、僕はここに大きな疑問を持つ。
違和感、といってもいいかもしれない。
彼らの公式には、「実話=最上」のような無自覚的な思想が働いているのだろう。
本当にそうなのだろうか。
そこには「実話」と名乗ることによる巧みで計算された、〈装置〉が隠されているような気がしてならない。

この文章は、「シリーズ・「表現」を考える」として銘打った。
今後どれだけ「表現」について迫れるか、自分でもわからないところだが、いくつかのコラムを通して、「表現」そのものについて考えていこうと思う。
ちなみに、ここでいう「表現」とは、映画のみならず、小説、マンガ、アニメ、など、メディアを通して行われる全てについて言及しようと考えている。
場合によっては、人間としての行動すべてを指す場合もあるかもしれない。
おそらくこのサイトの性質上、中心や具体例は映画を念頭に置くことになるだろうが、すべてのものを「表現」と呼んでおきたい。

さて、その第一回として、「真実」や「事実」「実話」という言葉に隠されたレトリック(修辞的機能)を、問題にしたいと思う。

その問題を扱う前に、すこし、「表現」それ自体について考えないといけないだろう。
「表現」とは?
「表現」を考えるためには、この問いは欠かすことができない。
「表現」とは? この問いを精確に答えることができるなら、そもそも、このようなシリーズ化して文章にする必要もないのだが、一応、次のように決めておこう。
「誰か」が「誰か」に向かって、自分の「伝えたいこと」を、何らかの「形」によって、発信すること。
「誰か」とは「表現」の発信者であり、その受け手は「受信者」となる。
そして、「伝えたいこと」とは、映画で言えば「主題」だろうし、場合によっては「要求」や「願い」、ひろく言えば、「意図」ということになる。
「形」とは、どのような媒体(メディア)でそれを伝えるか、そしてそれをどのように「表現」するかという問題である。

だから、「表現」とは、かならず「相手」がいることは押さえておきたい。
相手がいない「表現」はない、と考えたい。
独り言でも、自分自身に「伝える」ことには変わりはない。

また、今回の「実話」に関連することでいえば、「表現」は、「伝えたいこと」そのものではない、ということだ。
たとえば、いま自分は空腹だとする。
「ご飯が食べたい」と思う。
そこで、飲食店に行き、「牛丼一つ」と頼むとする。
これは非常に直接的な要求で、「伝えたいこと」そのものに近い「表現」だと言える。
だが、「空腹である」ということ「そのもの」ではない。
どのくらいお腹がすいたか、どのくらい牛丼が食べたいのか、すっかり相手に伝えることは不可能だ。
ひとりひとり感覚が違うし、なにより、そのときなぜそれを食べたいのか、自分でも納得いく説明はできないだろう。
答えは、往々にして、「なんとなく」となるだろうから。

すなわち、自分にしか、空腹の程度や質、気分などを知り得ない。
直接的に「表現」しているようにみえても、実は「伝えたい内容」そのものではないのだ。

だから人は「表現」する。
ことばという「形」であったり、映画という「形」であったり。
それを直接的に形にするか、間接的に、意図的に隠すか、それはその発信者次第だ。
しかし、すくなくともすっかり相手に伝えることは現実的に不可能だ。
もちろん、ほとんどのばあい、その「意図」と「形」との誤差は、問題にならないものだろうけれど。

そのように、「形」と「意図」との間には、ある程度の隔たりがあることは仕方がない。
僕はこう思って言ったのに、相手には全然それが伝わらなかった、という経験は誰しもあるはずだ。
両者のどちらが悪いのか、それはわからないが、必ず「形」と「意図」は離れてしまう。

すなわちそれは、「表現」は「何か」を「何か別のもの」で表すものだから、その元の「何か」を完全に「表現」できないことを意味する。
根本的に「現実」を、何か別のもので「表現」できないということだ。
厳密に言えば、「現実」を正確に、精確に「表現」することができないということだ。
数学的に表すなら、

「現実」≠「表現」

ということだ。
もちろん

「現実」≒「表現」

になることはある。
けれど、完全にイコールになることはありえない。

例えば、僕の一日の経験を映画(映像)にしようと思ったとする。
それをすっかり映画にしてしまうには、24時間が必要になる。
それを2時間にしてしまうということは、それだけで、「現実に経験したこと」を22時間分は省いた、ということなのである。
それをどんな風に感じたか、を映画に加えるなら、さらに僕が生まれて、生きてきた時間が必要になる。
なぜなら、一日の出来事に対して、どんな風に感じたかを「現実」どおりに、再現するには、それまでの僕の経験をすっかり観る側に伝えなければならないのだから。
映画でなく、小説などの文字にすれば、おそらく際限なく続くだろう。

つまり、「現実」に起こったことを、そのまま「表現」として「形」にすることは、
理論上、不可能なのだ。
知りたいなら、同じ事を経験するしかない。

「お前には俺の気持ちなんてわからねえよ」

当たり前なのである。

以上のように考えれば、このコラムで問題にしたいことが判って頂けたと思う。
すなわち、映画や小説における「事実」や「実話」ということばは、「事実」ではないということだ。
では、今まで僕たちが見聞きしてきた「実話」と言われている物語は、ウソだったのだろうか。
答えは当然「NO」だ。
実話に基づく話は、やはり「実話に基づく話」であることに変わりはない。
問題は、「実話」そのものではないということだ。
そこに完全な「事実」はないのだ。

(次回に続く)
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