secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

縞模様のパジャマの少年(V)

2010-02-17 23:21:53 | 映画(さ)
評価点:84点/2008年/イギリス・アメリカ

原作:ジョン・ボイン
監督・脚本:マーク・ハーマン

あまりにも残酷すぎて、そして鋭すぎて、泣けない。

1940年代、ベルリンに住むナチスの軍人である父(デヴィッド・シューリス)は異動となり、一家で引っ越すことになった。
何もわからない8歳のブルーノ(エイサ・バターフィールド)は、友人と離れることに不安を感じるが、田舎町へ引っ越してしまう。
彼の部屋から見えたのは、遠くの農場で働く縞模様のパジャマを着た人々の不思議な光景だった。
好奇心に満ちた小さな冒険家は、家族から厳しくとがめられていても気になり、こっそり抜け出して裏の工場へ冒険に出かける。
そこでフェンス越しに同じ8歳のシュムールという少年と出会う。
友人のいなかったブルーノは、彼のために毎日のようにパンを届けるようになるが…。

2009年に日本で公開されたが、小規模上映だったこともあり、それほど話題にはならなかったようだ。
僕の例の映画仲間に勧められて、レンタルして観た。
戦争映画であることは疑いないので、全くナチスやホロコーストについての知識を持たない若い世代が観てもおもしろくないだろう。
だが、子供がいる世代や、戦争映画を見慣れた(と書いては語弊があるが)人ならば、おそらく心を打たれるだろう。
この映画のエンドクレジットで僕たちに迫るその胸の痛みが、どのような意味を持つのか、以下で〈読み解こ〉うとしている。

とにかく多くの人に観てもらいたい、そういう映画だ。
ナチスは古い時代の話だ、と思っている人がいるなら、そういう人が観るべき映画だ。

僕たちはどのような形であれ、あの出来事を語り直さなければならない。
そういう使命感に満ちた重い映画である。

▼以下はネタバレあり▼

この映画はネタバレされてしまうと本当に不幸だ。
もしまだ観ていないのに、先を読もうとしている人がいるなら、やめておいた方がいい。
ネタバレされてしまう前に、観ておこう。

この映画はラストで示される結末が重くのしかかってくる、そういうタイプの映画だ。
それは脳天をアンバーの鎚(元ネタわかる?)で一撃されたような衝撃だろう。
僕はむしろ泣くことさえできなかった。
感動のラスト、悲劇のラスト、衝撃のラスト。
いくらでも形容できるだろうが、僕は泣けなかった。
なぜだろう。
これまで幾度となくナチスドイツをモティーフにしたホロコーストの映画を観てきた。
だが、泣けなかった。
これは、その泣けなかった僕が、泣けなかった理由を〈読み解く〉批評である。

ブルームは境界線に立っている。
あるいはブルームが引っ越してきた絶滅収容所のすぐそばに立つ家族が住む新しい家は、境界にある。
その境界とは、ナチスドイツという侵略者と、ユダヤ人という被侵略者との境界である。
この境界は、あるときはパジャマとして、あるときは電流の流れるフェンスとして、あるときは言葉を発することを許されない場として示される。
だが、観るものはその境界がいかに分厚い壁なのか知っている。
その〈知っている〉ということを前提として描かれている。
だから現代的なテーマを描き出すことに成功している。

ブルームは、場所として境界に立っているだけではない。
年齢的に8歳という記号は、単純な年齢ではない。
それは、世界が自分の家族から少しずつ広がり、社会に興味を抱く年齢である。
彼がやたらと冒険者として振る舞おうとするのは、閉じられた世界では満足できなくなっているからであり、それは8歳という年齢であれば自然な振る舞いであった。
彼がいる世界が、みんな「仲が悪くなっている」ことを知るのは、同じ8歳の少年がフェンス越しにいることによる。
完全に8歳の少年に感情移入している僕たちは、それをどうしようもない隔たりであることを知りながら、体験することになる。

ブルームだけではない。
この映画の多くの人物は、戦争という生々しい現実と、自己の感覚的な〈倫理〉との戦いに明け暮れている。
たとえば、ブルーノの母親(ヴェラ・ファーミガ)は、この場所が絶滅収容所ではないかと疑いながら、それでも意識的にその思考を避けて新しい生活を始める。
常駐するコトラー中尉(ルパート・フレンド)に告げられることで、その現実から逃げられないと知り、夫に詰問する。
だが、この詰問は、自己への詰問でもある。
生々しい現実がどのようなものであるかを知りながら、それでも許すべきではないという自己の〈倫理〉との葛藤である。
もちろん、これが史実であるかどうかはわからない。
映像特典で見たが、かなり入念に調査したということだ。
だが、調査したと関係者が語ったとしても、それをそのように描こうとした制作者の意図は含まれている。
問題は事実かどうかではない。
そのように葛藤を見せようとした、というところにこの映画のテーマ、スタンスが見え隠れする。

姉のグレーテルも同じだ。
彼女はイケメンドイツ人の中尉へのあこがれという形で世界を知る。
彼女が世界へと導かれるのは、恋という完全な〈個人〉的欲求による。
だが、彼が前線へと異動になると、彼女の戦争は終わってしまう。
彼女は少女から女へと変わる転換期、境界に立っている。
どのような形であれ、彼女は世界の狂騒に巻き込まれようとしている、そういう境界線に立っているのだ。
この映画のラストがなければ、彼女はおそらく完全にドイツ国民になり得ただろう。
そのようにして多くの少年少女が、ナチスに傾倒していき、「国民」へと教化されていく。
それが、戦争のリアルである。

グレーテルがあこがれる中尉もまた境界線にいる。
自分の父親が文学を専攻し、亡命したことを知っていながら、それを上司である父親に報告していなかった。
彼は自分が正しいことをしているのか、父親の主張が正しいのか、判断できないでいる。
それが、ワインをこぼしたユダヤ人を撲殺してしまうシークエンスに象徴されている。
他人への怒りへと不安を昇華していくプロセスが、ナチスドイツへの傾倒であるというメッセージである。
シュムールを問いただす彼も、同じ意味を持っているだろう。

今回の異動で昇進することになったブルーノの父親にしても同じだ。
彼は明らかに自分の行動が間違っていることを知っている。
これも、事実としてこのような人物がいたかどうかはわからない。
おそらくいたのだろうが、マイノリティであったかもしれない。
けれども、それはどうでもよい。
やはり、問題となるのは、彼を父親として人物造形したという点である。

妻に詰問される夫は明らかに動揺している。
動揺するが故に、「仕方ない」という言葉でしか反論できない。
確かに彼の行っている仕事は、ナチスにとってはある種の「最前線」であり、「最重要任務」である。
だが、自己の〈倫理〉に勝つことができずに、妻子を別の場所に引っ越させる。
その決断からも、彼が自分の〈倫理〉として、自分の仕事が許せなかったことが伺える。

そして、彼の人物を補強するのが、母親(ブルームの祖母)の存在である。
彼の送迎会の時、彼が実は平和を愛する人間であったことを告白し、絶滅収容所のそばに立つ家へ訪問しないという頑なな態度をとる彼女は、明らかにホロコーストに反発している。
その彼女に育てられた彼が、果たして喜んで虐殺をしていただろうか。
答えは明白だ。

これらの人物造形は、すべてさりげなく、しかしはっきりと描かれていく。
それに違和感がないのは、僕たちが現代人だからである。
ホロコーストの意味を知っている僕たちにとって、彼らの行動や思想に違和感はない。
当時の人々は実際どうだったか、という視点から描いた作品ではない。
当時を振り返る僕たち現代人にとってホロコーストはどういう意味を持っているか、を描き出した作品なのだ。

ラストで、ユダヤ人に着せられていた戦争捕虜の「パジャマ」を、シュムールの父親を捜し出すために着込み、収容所に紛れ込む。
たった数十センチの穴から潜り込んで、一枚のパジャマを着た、侵略者側の少年は、見事に被侵略者の側に紛れ込んでしまう。
だが、その行為がどれくらい危険な行為であるか、僕たちは知っている。
見事に潜入してしまったブルームは、そのまま父親が設計した(※)ガス室に送られてしまう。
泣き叫ぶ母親と姉、そして必死に名前を呼ぶ父親の姿は、見ていられないほど過酷だ。
(※同じ時期に父親たちは“より効率よく殺す装置”を開発する会議を開いていたということは彼が作ったことと同意である。)

これは、自分の息子や弟が殺されてしまう痛みに、僕たちが共感するから過酷なのではない。
このラストが示すのは、映画を見る者と、見られる者が見事に転倒してしまうからに他ならない。
ブルームに完全に同化している観客は、シュムールを見ながら無意識的にこう考えていた。

「シュムールを助けてあげたいけれど、助けることはできないな。」
「私たちはホロコーストに荷担する側であったとしても、被害者ではない。
そのフェンスという境界は非常に分厚いのだ。」

8歳の少年に感情移入しながら、ホロコーストの意味を知る僕たちは、そういう目線で物語を体験する。
それはそのように他の人物を描いて観客を誘導しているからである。
よって、感性の問題ではなく、そのように読まされる。
それなのに、ラストで見せられるのは、実は僕たちが知るホロコーストへの新たな切り口である。

絶対に安全なはずだ、という安住の地にいたブルーム(観客)と、被害者であるユダヤ人の間にはパジャマ一枚ほどの差しかなかった。
観客は、その絶滅収容所という物語を、外側から見ているはずだったのに、いきなり中へたたき込まれる。
そこで気づくのだ。
僕たちもまた、どこかでホロコーストを行う加害者になってはしないか、と。

不思議なことに、これまで8歳児に感情移入していた観客は、彼を殺してしまう加害者の気持ちを味わう。
僕が泣けなかったのは、この切り口が、僕にはあまりにも過酷すぎたし、かつあまりにも鋭すぎた。
さっきまで「かわいそうだが仕方がない」と考えていること、そのものが実は加害者であるのだと突きつけられる。
じゃあ、自分の息子をその被害者として差し出す勇気があって、そう考えているのか、と突きつけられる。
ホロコーストが絶対悪であると言葉にしてしまうのは簡単だが、その境遇を実際に味わうことは殆どない。
そう考えている。
なぜなら僕たちにとっては「遥か昔」の過去の物語だからだ。

このホロコーストをすでに「常識」として知っている僕たちは、「かわいそう」以上の具体的な感情を呼び起こすことをしてない。
そうではないのだ。
そうではなく、この出来事は今もまた起こりうるし、行われているのかもしれないのだ。
そう、それは観客自身の手によって、である。

この物語が実際に起こったことであるかどうかは、殆どどうでもよい。
なぜなら、この映画は、ホロコーストを描きながら、実は現代に巣くう見えない殺人や見えない蹂躙を暴き出すものだからだ。
この映画はどこまでも現代人のために作られている。
ホロコーストという誰もが知っている「常識」が、実は閉じられた過去の物語ではなく、現代的なテーマを持ちうるのだというメッセージを提示する。
全編ドイツ語ではなく英語で見せているのも、リアルさを求めているのではないことが伺える。
この映画は、この時代だからこそ、過酷だし、鋭い切り口であるのだ。
その計算されたテーマを、完全に演じきった子役や役者たちに、賞賛をおくりたい。

これを見た後、僕は周りの風景がすこし違って見えた。
自分のいる世界と自分とのつながりを認識しにくくなっている現代で、どれだけ具体的に相手を慮っているだろうか。
怖いのはナチスだろうか。

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2 コメント

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00年代映画ベストテン まとめ終わりました (しん)
2010-02-19 01:30:18
menfith様
スタジオゆんふぁのしんです。
00年代映画ベストテン まとめ終わりました
どうぞ、10年間の映画を振り返っていってください
ご報告まで
返信する
ありがとうございます。 (menfith)
2010-02-20 21:30:34
管理人のmenfithです。
書き込みありがとうございます。

ベストテンの記事ちらっと読みました。
まさかあそこまで丁寧にまとめてくださるとは、ありがとうございます。

参考にランキング内の映画を観てみようと思います。
邦画を中心に…。

今後もよろしくお願いします。
返信する

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