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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

〈装置〉としての実話 その2

2010-02-23 22:44:23 | 表現を考える

では、「表現」である以上完全な「事実」でないということはどのようなことを示しているのだろうか。

それは、事実に基づく話でも、多かれ少なかれ「脚色」されている、ということである。
日本ではあまり問題にならないようだが、脚色は、シナリオや作品そのものに、大きな影響を与えている。
主人公の心理を中心に描きたいなら、とうぜん、そのようなシーンや描写が増えてくる。
逆に事実をまさにドキュメンタリータッチで描きたいなら、心理は隠したほうがいい。
そのように、作り手、書き手の思惑により、シナリオは変化し、作品そのものの雰囲気も変化していくことになる。

そもそも、何かを見たり、生み出したりするという行為自体が、発信者の「意図」が含まれるのだから、それは当然のことだ。
だから、たとえばどんな映画や小説でも、それが「事実」であるかどうかより、
それが何を目指して、どのように作り上げているか(脚色しているか)、という問いを抜きに、その「表現」を受け取ることはできないのだ。

「事実」や「実話」であるということは、「最上」であるとか、「感動できる」とかいったバロメーターにはならない。
それは、「事実こそ最上である」という幻想にすぎないのだ。
たとえばあなたが、実話を元にした映画に感動し、涙を流したとしよう。
だが、それはその映画が「実話」だからではない。
その映画があなたの涙腺を刺激する内容であり、相性がぴったりだったからだ。
「私が感動できたのは、この映画が実話に基づいているからだ」という無意識的な思想は、非常に安直だし、映画そのものを見ていないということに他ならない。

そもそも、その映画が「実話」であるかどうかを表明する事自体が、実は一種のレトリックに過ぎない。
レトリック、つまり修辞的技法、すなわち、相手を説得(あるいは感動)させるための技法であるということだ。
予備知識のない観客や読者を想定しよう。
その場合、たとえば「SAW」のような映画が、実際にあったかどうかを、確認するすべはない。
フィクションなのか、本当にあった事件なのか、それともフィクションだが、撮影で本当に役者を殺しているのか、確認するすべは全くない。
常識的に、いちおう、フィクションだろう、これは演出だろうと、予想するのみである。

それは感動の「実話」ドラマも同じ事である。
予備知識が全くない観客にとって、それが本当に起こったことかどうかを知るのは、劇中のテロップや台詞などによるしかない。
実話の物語を、実話ではないと表明する、あるいは実話とは曖昧にしておくことは、十分にできるのである。
逆に、実話ではない話を、「これは実話に~」と流すこともできる。
もちろん、そこには作り手の倫理的な抑制が働くだろうが、可能かどうかでいえば、可能である。
(「スリーパーズ」という映画は劇中では「実話」とされているが、政府は認めていないし、僕もフィクションだと思う)

ここで問題になっているのは、それが事実として「実話」かどうかではなく、「実話である」と表明するかどうか、という問題なのだ。

いやいや、このご時世、予備知識なしで映画を観ることはありえないよ、という人もいるだろう。
それも、最近の映画の商業目的化の傾向を考えれば、CMなども、「映画という表現の一部」という考え方をすれば、問題はなくなるはずだ。

つまり、感動できるかどうか、という問題は、そもそも、「実話かどうか」ではなく、「これは実話なのだよ」と表明するかどうか、という問題なのである。
だから、本当に実話かどうかを証明することはそもそもでいないし、「実話」かどうかによって感動できるかどうかを問題にする事自体が、実は問題のすり替えにすぎないのだ。
さらに、実話であったとしても、それは、作り手の脚色なしには成り立たないものなのである。

この問題は、映画や小説など、虚構と実話との線引きだけではなく、もっと普遍的な問題にまで発展して考えることができる。
それは、じゃあ、ニュースや新聞は、「実話」と言えるのだろうか、という問いである。

僕の回答は、もうすでに出ている。
答えは、絶対的な客観性を保障できるという意味においての「実話」はありえない、ということだ。
それはいままで考えてきたことをそのまま転用することができる。

たとえば、一日で起こる、日本で「事件」と呼ばれる出来事は、おそらく腐るほどある。
数秒に一度、場合によっては一秒に何度も数えることができる。
だが、たいていの場合、「○○ステーション」などのニュース番組で取り上げられるのは、せいぜい数件の事件だけだ。
誰かが居酒屋でケンカしたとか、交通事故を起こしたとか、誰かが失恋しただとか、そんなことは、ほとんど報道されない。
新聞なら、もう少し取り上げられる事件の幅は大きいが、それでも「全部」ではない。
つまり、やはり、「選んでいる」のだ。
どの事件がより社会的な問題なのか、より「問題にしたい」事件なのか、極めて意図的に、そして時には無自覚的に、取捨選択しているのである。

中田英寿のコメントは、新聞の一面になるが、僕が駅で叫んだ言葉はまず一面にはならないだろう。
よほど衝撃的な情報を持っていない限り。

それだけではない。
たとえ、ニュースとして取り上げたとしても、それは報道者という人間のフィルターがかかったものであることは、免れない。
ニュースも新聞も一つの「表現」であることには変わりはない。
要するに、そこに絶対的に主観性が混じる、ということだ。
主観性が少しでも混じれば、それはもはや完全なる「事実」ではない。
ワイドショーは明らかに娯楽のためにある。
報道番組の仮面をしながら、視聴者をより楽しませたり、怒りを覚えさせたりする話題や、報道の仕方を追究しているのである。
そこに、「事実」はない。

僕が言いたいのは、ニュースを信じるな、新聞に書いてあることはウソ八百だ、ということではない。
すべての「表現」という「表現」は、発信者の「表現意図」が絶対的に含まれている、ということを忘れてはならない、ということだ。
ニュースや報道は、それが完全なる「事実」であるかのように、堂々と、その危険性について触れることなく、垂れ流す。
それは一つの権力であるし、場合によっては暴力とさえなる。
その現実に気づかないということは、非常に危険だし、発信している相手が何を目的として、何を根拠に「表現」しているのか、常に意識的にならなければならない。

論が少し発展しすぎた。
僕らが触れる、小説や映画は、すべて、そのような「意図」に基づいて作られている、という当たり前のことを、僕らは今再び確認しておく必要性を感じるのだ。

人は「実話」かどうかに感動するのではないことがわかった。
では、人は何によって感動を示すのだろうか。
これは新たな問いになる。
この問いについては、次回以降、考えていくとしよう。


(次回に続く)
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