私たちの触れるメディアで、かつて大きな影響を持っていたのはラジオであり、新聞であり、テレビであった。
これらは世界大戦で世論を大きく動かし、政治や国の命運を動かす大きな原動力になった。
しかし、昨今で私たちに最も影響を与えて要るのはSNSであろう。
誰でもどこでも発信できるというこのメディアは特に先進国で大きな意味を持っている。
時に閉鎖的な空間として、あるいは世界中に放たれた
コミュニケーションツールとして、広く普及している。
ごく個人的な空間と、公的な空間が地続きであるということが手軽さと怖さを生む、画期的な場所になっている。
自分に正直であること、誰でも発信できること、随時他人とやり取りでき、かつそれが世界中に公開することができること。
オールドメディアではできなかった情報発信が可能になったことは、功罪の議論よりも後戻りできないほどの欠かせない存在になった。
しかし、私たちは依然としてコミュニケーションに苦労している。
いや、むしろSNSが登場してきたことによって、さらに人との繋がりについて、苦労していると言って良いだろう。
行き違い、思い違い、偏見、齟齬、あらゆるミステイクが私たちを生きづらくさせているようにも感じるのだ。
SNSという装置は、有り体に言って、「マイノリティを排除するもの」として機能していることを、まず私たちは認識する必要がある。
「いいね」を要求するこのシステムは、承認が数値としてヴィジュアル化される。
もちろん、発言があってその報酬という結果としての承認があるはずだが、その報酬としての承認を得るために発言する、そしてそれが簡単に広告と結びついて実利に直結する。
そのため、文字通り、承認されることは生きること、稼ぐことにつながり、広告としてのコミュニケーションが成立してしまっている。
広告としてのコミュニケーションは、より多くの耳目を集め、承認されることで成立する。
よって、数値化されたSNSはマイノリティを排除することで成り立つ。
SNSの最初の理念は知らないが、結果、マジョリティに属することを助長するシステムに成り下がった。
だから、炎上が起こるとそのまま生きづらくなってしまう。
マイノリティの生きづらさを解消するどころか、むしろ、マイノリティを炙り出し、排除する。
その排除することにSNSが使われている。
ここには〈同意〉を要求する極めて偏狭なコミュニケーションがある。
はっきりいえばそこにはコミュニケーションは成立していない。
同意と不同意という二項対立のみである。
メディアリテラシーなどと枝葉末節な教育をするよりも、こういう本質をしっかりと押さえておく必要がある。
まあ、子どもたちにどんな情報教育がされているのか、私は知らないが。
これらは世界大戦で世論を大きく動かし、政治や国の命運を動かす大きな原動力になった。
しかし、昨今で私たちに最も影響を与えて要るのはSNSであろう。
誰でもどこでも発信できるというこのメディアは特に先進国で大きな意味を持っている。
時に閉鎖的な空間として、あるいは世界中に放たれた
コミュニケーションツールとして、広く普及している。
ごく個人的な空間と、公的な空間が地続きであるということが手軽さと怖さを生む、画期的な場所になっている。
自分に正直であること、誰でも発信できること、随時他人とやり取りでき、かつそれが世界中に公開することができること。
オールドメディアではできなかった情報発信が可能になったことは、功罪の議論よりも後戻りできないほどの欠かせない存在になった。
しかし、私たちは依然としてコミュニケーションに苦労している。
いや、むしろSNSが登場してきたことによって、さらに人との繋がりについて、苦労していると言って良いだろう。
行き違い、思い違い、偏見、齟齬、あらゆるミステイクが私たちを生きづらくさせているようにも感じるのだ。
SNSという装置は、有り体に言って、「マイノリティを排除するもの」として機能していることを、まず私たちは認識する必要がある。
「いいね」を要求するこのシステムは、承認が数値としてヴィジュアル化される。
もちろん、発言があってその報酬という結果としての承認があるはずだが、その報酬としての承認を得るために発言する、そしてそれが簡単に広告と結びついて実利に直結する。
そのため、文字通り、承認されることは生きること、稼ぐことにつながり、広告としてのコミュニケーションが成立してしまっている。
広告としてのコミュニケーションは、より多くの耳目を集め、承認されることで成立する。
よって、数値化されたSNSはマイノリティを排除することで成り立つ。
SNSの最初の理念は知らないが、結果、マジョリティに属することを助長するシステムに成り下がった。
だから、炎上が起こるとそのまま生きづらくなってしまう。
マイノリティの生きづらさを解消するどころか、むしろ、マイノリティを炙り出し、排除する。
その排除することにSNSが使われている。
ここには〈同意〉を要求する極めて偏狭なコミュニケーションがある。
はっきりいえばそこにはコミュニケーションは成立していない。
同意と不同意という二項対立のみである。
メディアリテラシーなどと枝葉末節な教育をするよりも、こういう本質をしっかりと押さえておく必要がある。
まあ、子どもたちにどんな情報教育がされているのか、私は知らないが。