評価点:63点/2020年/アメリカ/110分
監督:カイル・ランキン
アメリカの深い闇と悩み。
軍人の父親にサバイバルをたたき込まれて育った女子高校生のゾーイ(イザベル・メイ)は、母親を亡くして以来心を閉ざしていた。
まもなく高校を卒業するが、プロムを誰と行くかも決められていなかった。
周りから完全に浮いていた彼女だったが、唯一の理解者であるルイスからプロムの誘いがあった。
彼の思いを受け止められる状況にないゾーイは拒絶してしまう。
カフェテリアのトイレに籠もっていた彼女は、突然クラスメイトが血まみれでトイレに駆け込んできたのを抱きかかえた。
クラスメイトが銃撃事件を起こしたことを知った彼女は、震えながら立ち向かう決心をする。
何も見る気になれなかったが、強いて言うならアクションを見たいと思ってアマプラで再生した。
ほとんど予備知識なく、何が起こるのかわからないままに再生したので、こういう見方ができるのはサブスクならではだろう。
あまりサブスクがイイとは思わないが、こういう気軽さは、映画鑑賞としては非常によい出会いだと思う。
なかなか実験的な映画でもあるので、見所はある。
過激なシーンもあるので、万人向けではない。
気軽な気持ちで、おおらかな広い心で見てみよう。
▼以下はネタバレあり▼
いわゆる銃乱射事件をモティーフにしたアクション映画。
中身がまるでないようにも思えるが、実はかなり深い考察が可能だ。
深く掘り下げても、結局闇しかないのは、アメリカの閉塞感が深いからだろう。
実験的だったのは、アクション映画の心理描写に虚構となる幻の母親を出したことだ。
短い時間で、彼女の境遇を説明する台詞や描写を入れるのはけっこうむずかしい。
彼女が周りを拒絶している、壁を作っている、ということの根っこに、母親の死がある。
それを見せるために、死んだ母親とどう対峙していくかというのを、幻を見せることで表現している。
孤立したアクションを見せる必要があるため、ほとんど周りとの交渉がない中で、自分の心理や壁、課題を見せるのにはこうした方法が一案なのかもしれない。
ただ、いちいち母親がこれ見よがしに登場してくるので、アクションとしての臨場感が削がれてしまった。
また、結局彼女の課題は、母親の死を克服できなかった、という点しかわからず、それがどんな死だったのか、どんな存在だったのか全くわからない。
結局、そういう演出をしなくても十分伝わる内容しか描けていない。
臨場感や緊迫感を削いでまでやるべきだったのか、疑問だ。
他人には見えない人が見える、というのは襲撃犯のクリス・ジェリックも同じだった。
その意味で、善に働くか悪に働くか、という対比も描こうとしていた。
とはいえ、それが共感を得ることにつながるわけでも、クリスの心根を深くえぐるわけでもないので、やはり全く設定が無駄になった。
しかし、そんなことがこの映画の本質ではない。
この若者による銃乱射というシチュエーションを描きながら、犯人らのキャラクター造形が全くもって平板で陳腐でなにもないという点が、アメリカの闇そのものだと思うのだ。
主犯のトリスタン・ヴォーイは、用意周到に何重にも計画を練ってカフェテリアを襲撃した。
町のあちこちで火災を起こさせ、消防を麻痺させた。
両親は既に殺し、学校のセキュリティの手順も熟知していた。
銃はどこでもどうにでも手に入る。
人質を確保したトリスタンたちは、計画通りに自分たちの犯行をSNSで実況中継させた。
しかし、彼の内面は、ただ激しい承認欲求でしかない。
なぜ襲撃したのか、なぜ注目を浴びたいのか。
何もないのだ。
「今の若者ってそういうもんじゃない?」ということがもし説得力があるとすれば、それはステレオタイプすぎるし、何も描いていないのと同じだ。
いじめっ子が特に理由もなくいじめる相手を探しているとか、オタクはよく周りから虐げられるとか、そんなすぐ思いつく現状は、おそらくアメリカの若者の現状を反映していない。
それは「誰かの物語」であって、「私の物語」ではない。
なぜ若者が銃乱射事件を起こすのか。
その問いに、この映画は全く答えようとしていない。
そこは是非、どんな形であっても描くべきだった。
それは、商業映画だからとかそういうのは逃げ口上にならない。
なぜなら、若者が銃乱射事件を起こす場合、すべての原因はその子にあるのではなく、その子を取り巻く大人側にあるからだ。
銃を乱射するために生まれてきた子どもはいない。
それでも起こしてしまうのは、子どもをそのように追い込んだ大人がいるからだ。
もちろん、動画サイトばかりみていればおかしい思想になる子どももいるかもしれない。
しかし、それだって大人がそのように「育てた」のだ。
この映画にはそのベクトルがない。
だから、トリスタンを主人公が射殺しても、それは全く「課題の解決」にならないのだ。
それは犯罪者の排除でしかない。
それは、内面が表層的にしか描かれない主人公ゾーイも同じことなのだ。
母親が死んだからといって、壁を作るわけではない。
母親との関係性を一切掘り下げない主人公に、どんなアクションをさせても面白みは生まれない。
課題は解決されない。
しかし、このシナリオこそが、むしろアメリカの現状を象徴している。
若者の本質は、大人は全く理解できていないのだ。
なぜ乱射するのか、なぜ拒絶するのか。
もっともらしい分析をすることは簡単だが、一向にその本質はつかめていない。
それが現状なのだろう。
おそらく承認欲求よりももっと深いところに闇はある。しらんけど。
それがフィクションの中でも描ききれない。
アメリカが世界のリーダーを降りようとしている、その本質は自分たちの社会がどういう社会なのか理解するための自己分析機能が不全に陥っていることを反照する。
銃では解決しない。
そんな当たり前のことを、銃乱射を企んだ若者を、銃によって解決してしまう同語反復、自己矛盾によって終幕させてしまう。
アメリカの闇である。
監督:カイル・ランキン
アメリカの深い闇と悩み。
軍人の父親にサバイバルをたたき込まれて育った女子高校生のゾーイ(イザベル・メイ)は、母親を亡くして以来心を閉ざしていた。
まもなく高校を卒業するが、プロムを誰と行くかも決められていなかった。
周りから完全に浮いていた彼女だったが、唯一の理解者であるルイスからプロムの誘いがあった。
彼の思いを受け止められる状況にないゾーイは拒絶してしまう。
カフェテリアのトイレに籠もっていた彼女は、突然クラスメイトが血まみれでトイレに駆け込んできたのを抱きかかえた。
クラスメイトが銃撃事件を起こしたことを知った彼女は、震えながら立ち向かう決心をする。
何も見る気になれなかったが、強いて言うならアクションを見たいと思ってアマプラで再生した。
ほとんど予備知識なく、何が起こるのかわからないままに再生したので、こういう見方ができるのはサブスクならではだろう。
あまりサブスクがイイとは思わないが、こういう気軽さは、映画鑑賞としては非常によい出会いだと思う。
なかなか実験的な映画でもあるので、見所はある。
過激なシーンもあるので、万人向けではない。
気軽な気持ちで、おおらかな広い心で見てみよう。
▼以下はネタバレあり▼
いわゆる銃乱射事件をモティーフにしたアクション映画。
中身がまるでないようにも思えるが、実はかなり深い考察が可能だ。
深く掘り下げても、結局闇しかないのは、アメリカの閉塞感が深いからだろう。
実験的だったのは、アクション映画の心理描写に虚構となる幻の母親を出したことだ。
短い時間で、彼女の境遇を説明する台詞や描写を入れるのはけっこうむずかしい。
彼女が周りを拒絶している、壁を作っている、ということの根っこに、母親の死がある。
それを見せるために、死んだ母親とどう対峙していくかというのを、幻を見せることで表現している。
孤立したアクションを見せる必要があるため、ほとんど周りとの交渉がない中で、自分の心理や壁、課題を見せるのにはこうした方法が一案なのかもしれない。
ただ、いちいち母親がこれ見よがしに登場してくるので、アクションとしての臨場感が削がれてしまった。
また、結局彼女の課題は、母親の死を克服できなかった、という点しかわからず、それがどんな死だったのか、どんな存在だったのか全くわからない。
結局、そういう演出をしなくても十分伝わる内容しか描けていない。
臨場感や緊迫感を削いでまでやるべきだったのか、疑問だ。
他人には見えない人が見える、というのは襲撃犯のクリス・ジェリックも同じだった。
その意味で、善に働くか悪に働くか、という対比も描こうとしていた。
とはいえ、それが共感を得ることにつながるわけでも、クリスの心根を深くえぐるわけでもないので、やはり全く設定が無駄になった。
しかし、そんなことがこの映画の本質ではない。
この若者による銃乱射というシチュエーションを描きながら、犯人らのキャラクター造形が全くもって平板で陳腐でなにもないという点が、アメリカの闇そのものだと思うのだ。
主犯のトリスタン・ヴォーイは、用意周到に何重にも計画を練ってカフェテリアを襲撃した。
町のあちこちで火災を起こさせ、消防を麻痺させた。
両親は既に殺し、学校のセキュリティの手順も熟知していた。
銃はどこでもどうにでも手に入る。
人質を確保したトリスタンたちは、計画通りに自分たちの犯行をSNSで実況中継させた。
しかし、彼の内面は、ただ激しい承認欲求でしかない。
なぜ襲撃したのか、なぜ注目を浴びたいのか。
何もないのだ。
「今の若者ってそういうもんじゃない?」ということがもし説得力があるとすれば、それはステレオタイプすぎるし、何も描いていないのと同じだ。
いじめっ子が特に理由もなくいじめる相手を探しているとか、オタクはよく周りから虐げられるとか、そんなすぐ思いつく現状は、おそらくアメリカの若者の現状を反映していない。
それは「誰かの物語」であって、「私の物語」ではない。
なぜ若者が銃乱射事件を起こすのか。
その問いに、この映画は全く答えようとしていない。
そこは是非、どんな形であっても描くべきだった。
それは、商業映画だからとかそういうのは逃げ口上にならない。
なぜなら、若者が銃乱射事件を起こす場合、すべての原因はその子にあるのではなく、その子を取り巻く大人側にあるからだ。
銃を乱射するために生まれてきた子どもはいない。
それでも起こしてしまうのは、子どもをそのように追い込んだ大人がいるからだ。
もちろん、動画サイトばかりみていればおかしい思想になる子どももいるかもしれない。
しかし、それだって大人がそのように「育てた」のだ。
この映画にはそのベクトルがない。
だから、トリスタンを主人公が射殺しても、それは全く「課題の解決」にならないのだ。
それは犯罪者の排除でしかない。
それは、内面が表層的にしか描かれない主人公ゾーイも同じことなのだ。
母親が死んだからといって、壁を作るわけではない。
母親との関係性を一切掘り下げない主人公に、どんなアクションをさせても面白みは生まれない。
課題は解決されない。
しかし、このシナリオこそが、むしろアメリカの現状を象徴している。
若者の本質は、大人は全く理解できていないのだ。
なぜ乱射するのか、なぜ拒絶するのか。
もっともらしい分析をすることは簡単だが、一向にその本質はつかめていない。
それが現状なのだろう。
おそらく承認欲求よりももっと深いところに闇はある。しらんけど。
それがフィクションの中でも描ききれない。
アメリカが世界のリーダーを降りようとしている、その本質は自分たちの社会がどういう社会なのか理解するための自己分析機能が不全に陥っていることを反照する。
銃では解決しない。
そんな当たり前のことを、銃乱射を企んだ若者を、銃によって解決してしまう同語反復、自己矛盾によって終幕させてしまう。
アメリカの闇である。
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