secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

グラン・トリノ

2009-05-19 18:40:02 | 映画(か)
評価点:77点/2008年/アメリカ

監督・主演:クリント・イーストウッド

差別、国産車、老兵……アメリカの現状を示した象徴的な作品。

朝鮮戦争で活躍した元自動車工(クリント・イーストウッド)ウォルトは、妻を亡くして孤独な一人暮らしを始めた。
息子二人は別に住み、家族とは思えないほど冷え切った関係だった。
近隣に住むアジア系移民に対しても、冷淡な態度をとるウォルトだったが、ひょんなことから、そのモン族の少年タオ(ビー・バン)を助ける。
だが、タオにまともな生活を送れと助言するが、彼を取り巻く若い連中は街の不良だった。

チェンジリング」に続くイーストウッド監督作品である。
周りでは、アンジーよりも、こちらのほうが話題になっていた。
イーストウッドも78歳で、ますます監督業に専念する傾向にあるため、これが最後の映画主演ではないかということだ。
そうはいいつつも、まだまだ出て欲しい気がしてならない。

西部劇や刑事物に出ていた頃をリアルタイムで劇場に足を運んでいた人たちにとっては、この映画は記念碑的な映画かもしれない。
僕はそこまで年齢を重ねていないため、きっと共感はできないし、アメリカに住んだことも行ったこともないので、涙を流すほど感動を得たわけでもない。
たぶん、これまでの作品を観てきて、大きな期待を抱きすぎたせいもあるだろう。
前評判も妙に高かったため、つられてしまったところもある。

正直、期待していたよりは、という感じだった。
だが、映画館で観るべき映画だと思うし、舞台は狭い世界でありながら、アメリカ社会の普遍性を描く鋭さには驚嘆するばかりだ。
前評判や、予備知識なしで観に行けばいいと思う。

▼以下はネタバレあり▼

バーン・アフター・リーディング」と同じ日に観に行った。
バーン~」がアメリカの縮図を描いたような作品であったのに対して、この作品もアメリカの現状を鋭く描いている。
光と影を映し出すような映画で、両方観ると、いっそうアメリカという国のおもしろさを見いだせるだろう。
まあ、どちらも影かもしれないが。

前田有一が書いていたように、このウォルトという人物は「アメリカが物を作っていた良き時代」に生まれ育ち、活躍した人物である。
この人物造型は、僕たちが作り上げてきたイーストウッドの人物像ともどこか重なるところではある。
自分の仕事に誇りを持ち、アメリカという国を支えてきたばりばりの白人アメリカ。
カラー(黒人や黄色人種)を嫌い、自律と自立を重んじる。
芝生に入られることを極度に反応するのは、他者との関係を絶ちたいと言うよりは、自分の領域を守らんとする領土を確定させておきたいというアメリカという国そのものを暗示している。
70年代の車を愛でるのも、日本車などの車が世界を席巻する前の、アメリカ全盛期の車であるからだ。

そんな変わりたくない、変われないアメリカを代表する彼も、息子との折り合いが悪い。
母親が死んで、余計に家族の絆は薄れてしまう。
若い神父があれだけウォルトに訪れるのは、神父が偉大だからではないだろう。
母親の人柄が、神父を動かしたのだと考えられる。
27歳の神父はどこか、彼の姿に自分の祖父などを照らしていたのかもしれない。

その彼が交流を持ち始めるのが、隣人であるモン一族だというところがまた、象徴的だ。
血縁関係にある息子二人は遠い地に住んでいるのに、肌の色さえも違うモン族の人間は近隣に住み、なおかつ「家族のように思える」までに交流を深める。
アメリカの家族を巡る現状だけでなく、国家というレベルにおいても、人種の結束力に変化が現れていることを示しているのだ。
皮肉だが、それはアメリカだけではなく他の国でも、時代でもそうだったのかもしれない。

ウォルトとタオたちとのやりとりが非常にコミカルに、アイロニカルに描かれているのは、イーストウッドの懐の大きさを感じる。
特に冷蔵庫を地下から運ぶところでは、その前にタオの家の冷蔵庫が壊れていることを確認しておきながら、あえて要らなくなった冷蔵庫をタオに運ばせて、そして安く売ってやる。
頑固じじいの照れ隠しが、愛らしい名シーンだ。

やがてタオをめぐってトラブルに巻き込まれてしまう。
姉のスー(アーニー・ハー)がおそわれてしまうのだ。
復讐しようというタオに対するウォルトの答えは、自分だけが犠牲になることだった。
これまでいがみ合い、相手を脅したり攻撃したりすることで身を守り生き抜いてきた彼が選んだ解決策は、丸腰で話をつけることだった。
「話をつける」といっても、それはほとんど自殺行為であることは理解していた。
相手は銃を乱射するような連中であり、自分がその家に向かうことは復讐以外に想定できない。
ウォルトは殺されるために懺悔し、殺されるためにスーツを仕立て直す。

なぜなのか。
タオのためではないことは明確だ。
タオがモン族の不良たちに絡まれている姿と、ウォルトが息子たちと仲違いしてしまっていることを重ねているからだろう。
タオのために殺された訳ではない。
彼は自分自身の過去を断ち切り、精算するために、丸腰という選択肢をとったのだ。

この映画が重たいのはそこにある。
しかも、それは後ろ向きな意味合いにおいての「精算」ではない。
結果的にではあれ、タオという可能性を救うためである以上、未来へ進むために死を選んだのだ。

古き良きアメリカは、未来へ何を残すことが求められているのだろうか。
ウォルトが死ぬことは、古き良きアメリカを捨てることを奨励したわけではあるまい。
なぜなら、グラントリノがタオの手に残されたからだ。

もう一つ。
モン族の不良が銃を抜く時の表情は、「恐れ」そのものだった。
ウォルトが銃を抜くぞ、俺たちは殺されるかもしれないぞ、という恐れだった。
同族を忌み嫌う姿がウォルトにも当てはまるのなら、ウォルトはずっと恐れていたのだろう。
家族や他人を恐れているからこそ、領土を守り、自分で物を作り、銃を構える。
銃ではなく、話をすることができるようになったことが、老人が臨終に手に入れた「答え」だろう。

点数がそれほど高くないのは、共感しきれなかった部分が大きいため。
完成度は間違いなく高いと思うのだが、いかんせん、僕の生きた年数ではこのイーストウッドの考えに到底及ばない……。

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