secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

エターナル・サンシャイン(V)

2009-05-20 18:14:58 | 映画(あ)
評価点:79点/2004年/アメリカ

監督:ミシェル・ゴンドリー
脚本:チャーリー・カウフマン

たとえ生まれ変わっても、君と出会いたい。

ジョエル(ジム・キャリー)は、ある日、いきなり恋人であるはずの、クレメンタイン(ケイト・ウィンスレット)にふられてしまう。
理由も分からず、同じアパートの友人に話すと、「彼女のジョエルについての記憶を消しました。
彼女の前ではジョエルについて語らぬように」という手紙が来ていたという。
驚いたラクーナ社に向かうと、彼女の意志でジョエルの記憶を消して欲しいと言われたというのだ。
絶望したジョエルは、自分も同じようにクレメンタインの記憶を消そうと考えるが……。

カウフマンとは僕は相性が悪い。
「マルコヴィッチ」も「アダプテーション」も、あまり好きになれなかった。
この作品も、それほど奇抜で目新しい手法が取り入れられているわけではなく、多少のひねりはあるものの、ものすごくオーソドックスな話になっている。
そしてメッセージがとてもピュアだ。

その意味で、この作品は僕にとってはじめてカウフマンを肯定的に捉えられた記念すべき映画となった。

脚本はこれまで通り、ちょっと工夫されている。
しかし、着目すべきはそこではない。
とてもピュアで、切実で、誠実なメッセージと、作品全体を通して訴え続けられるすてきな雰囲気だ。

頭で見ると言うよりも、感覚で見るべき映画だろう。
そんなわけで、ちょっと長くつきあっているカップルや夫婦に最適な映画なのだ。
 
▼以下はネタバレあり▼

【映画に流れる時間】
この作品のモティーフとして、時間と記憶がある。
時間と記憶が一種の謎解きのようなかたちで提示される。
だから、理解できなければ、感情移入はおろか、まったく話がかみ合わないと言うことになるだろう。

ということで、まず、時間と記憶のすりあわせを説明しておこう。

最初に書いたストーリーには書かなかったが、この映画の本当の冒頭は違う。
本当は、クレメンタインと名乗る女性と、ジョエルが出会うところから始まる。
ジョエルは、衝動的に海岸へと向かう。
理由は自分でも分からない。
そこで髪の毛が青いクレメンタインと出会うのだ。

観客はここで、予備知識がなければ、これがどういう意味があるのか分からない。
ただ、手がかりとなる伏線が丁寧に描かれているだけだ。
たとえば、切り取られた日記。
誰でも知っている歌を知らない自分。
いきなり話しかけてくる知らない男(イライジャ・ウッド)。
などなど、謎としては、あまり観客を欺こうという悪意に満ちたものではなく、けっこう易しく、そして丁寧に伏線が張られる。

スタッフロールがあり、話が急に見えなくなる。
クレメンタインという女性に訳もなく振られた、とジョエルが隣人に訴える場面からはじまる。
やはりここでも、初めて見るなら、冒頭から数年が経過した後の出来事に時間が飛んだのだろうと、行間を埋める。
だが、話が妙な方向に進んでいく。

記憶を壊してしまうという会社があり、そこでは、ある人についての記憶を完全に消し去ることができるというのだ。
この設定に説得力があるかどうかは別にして、脳のある部分を壊すことによって、記憶をなくさせる、嫌な思い出を消去するというのだ。
このあたりは、同じ時期に観た「ペイチェック 消された記憶」に似ていたので、僕は全く違和感なく観られたが。

そして、クレメンタインと同じように、自分も彼女の記憶を消してくれというのだ。
彼女のいない世界はきっと耐えられなかったのだろう。

ここからは、「メメント」のようなリバースムービーになる。
記憶をさかのぼり、現在の現実とジョエルの頭の中とを往復しながら映画が進んでいく。
ジョエルは最近の記憶から徐々に出会いの記憶へとさかのぼるように指示されるため、映画は今までの順序とは逆に進んでいくのだ。

この辺りから、徐々に映画の構成が分かってくるだろう。
冒頭から、現在-過去-現在という構成になっている。
冒頭は、その記憶をたどるという脳内映像より未来であり、記憶を消した後、再び出会った「再会」の出来事であることが読めてくる。

実は、これは重要なことではない。
それが分かろうが、分かるまいが、あまりどうでもいい。
問題は、彼が記憶をさかのぼれば、さかのぼるほど、彼と彼女にとってかけがえのない思い出が思い出されていくということだ。

森博嗣「すべてがFになる」か何かで言っていた
「思い出は全て記憶しているが、記憶は全て思い出せない」
という台詞を思い出すが、今までは嫌いだと思っていた相手に対して、大きな愛情とも言える感情が呼び返されていく。
そこで彼は脳の中でさけぶのだ。

「彼女の記憶を消すのをやめてくれ! 中止だ!」

しかし、記憶を消している作業をしている現実には聞こえるはずもない。

この辺りから重要になってくるプロットが、現実世界の出来事だ。
キルスティン・ダンスト扮する受付嬢と、ラクーナ医師との関係である。
二人っきりになった二人は、関係を持とうとする。
観客にはすこし飛躍に感じるだろうが、ここにも意味がある。
このダンストも実は記憶を消されていたという過去だ。

キルスティン・ダンストは、自分がラクーナ医師と関係があったことを知り、会社を出る。
そして彼女は、すべての患者に記憶を呼び起こすためのアイテムを送付するのだ。
結局、記憶を消したところで、問題は解決されないことを、客観的にも、主観的にも知ってしまったのだ。

そして再び時間は現在に戻ってくる。
再会した二人は、一つの結論にいたる。
「きっとまた嫌な気持ちになるわよ」
「いいさ」

彼らはまた同じ結論に達するのだ。
やはり二人は別れることが出来ない、という結論である。

つまり、この映画は「行って帰る型」」物語になっているということだ。

【テーマ】
続いてテーマについて、言及しておきたい。
この映画は、時間の巧みな操作により、現在 - 過去 - 現在という時間構成になっている。
この構成は、僕がよく言っている「行って帰る」型の物語なのだ。
つまり、時間軸として異質な「過去」をサンドイッチすることによって、何かを得て(あるいは何かを失い)、そしてまた元の場所に戻ってくるのだ。

そして、さらに、過去の記憶を辿る、という脳内の映像も、また「往来」の型になっている。
彼は脳内の思い出を巡ることで、再び彼女の「良さ」に気づくのだ。
過去にさかのぼるにつれて、嫌な思い出や、彼女の悪い部分ではなく、良い思い出、彼女の良い部分が思い出されてくる。
はじめてみる観客は、「再会」ではなく、「発見」していくことになる。
そして、出会った頃のすばらしい感情を思い出すのだ。
つまり、この過去の冒険によって得たのは、やはり彼女と離れて生きていくことは不可能なのだ、という「事実」だ。

彼らは結局お互いの記憶をすっかりなくしてしまう。
しかし、物語はここでは終わらない。

二人は記憶の中で約束した場所で再会するのだ。

ここで頭の良い人は、整合性がわからなかったかもしれない。
記憶の中で約束したのは、「ジョエル」自身のの「クレメンタイン」であり、現実の彼女ではない。
つまり、なぜ、あの場所で再会できるかが、説明できないのだ。

しかし、その批判は、全く空回りの指摘である。
確かに、約束相手は、ジョエル自身の「クレメンタイン」にすぎない。
だから、ジョエルがあの海岸に行くことができても、相手の現実のクレメンタインがあの場に来ることはできない。
他者と、内在的な他者との違いがあるのではないか、という批判だ。

ところが、これはこの映画のテーマを無視している指摘だ。
この映画のテーマは、「生まれ変わっても、もう一度出会いたい」ということだ。
記憶を失うとは、「死」の隠喩である。
現代で「生まれ変わる」ことを、もっとも現実味あるように具現化したのが、「記憶をなくす」ということなのだ。

だから、ここに「忘れることよりも、それを背負いながら生きるべきだ」というような、月並みで、説教くさいテーゼは必要がない。
テーマは、忘れるか背負うかという対立ではない。
この世で唯一絶対的な力である。
それは「LOVE」である。
この映画のテーマは徹頭徹尾、「愛」なのだ。
記憶をなくしてもそれでも「愛」を貫くという非常にシンプルな映画なのだ。
頭で考える部分や、教訓など語るのは野暮というものだ。

だから、このジョエルの内在的なクレメンタインは、クレメンタインそのものと一致している。
すなわち、クレメンタインも同じ記憶の葛藤を経験したのだ。
もし、クレメンタインが記憶の中だけの存在ならば、そもそも、これほどまでに愛し合う事が出来なかっただろう。
それほど、彼らの関係は強く結びついているのだ。
彼らは同じ感覚なのだ。
だから、最終的に同じ結論に達する。

だから記憶を失ったクレメンタインは、ジョエルの亡霊を追う。
イライジャ・ウッドがジョエルと同じ行動を取ろうとするとき、彼女は違和感を覚えながらも、ジョエルの面影を追う。
しかし、クレメンタインは彼を愛することが出来ない。
無意識のうちに、拒否してしまう。
それは、やはりクレメンタインの内在的なジョエルも同じように、彼女の非常に大きい部分を占めていることを物語っている。

この二人は、無意識のうちにお互いを求め合う。
記憶としては消えているはずなのに、どうしても相手を求め、海岸に向かう。
それは、意識として復元できる「記憶」ではなく、もっと基底的で、根本的な、無意識レベルでの刻印ともいえる記憶だ。
日本人でいなら、「魂」ともいうべき記憶だ。
だから、「生まれ変わったとしても、もう一度相手を求める」のだ。

非常に強く、そしてシンプルなテーマである。

映画全体をつつむ、素朴で飾らない雰囲気もすばらしい。
泥臭く、着飾らない演技、演出を見せてくれる作り手の意識は高い。
カウフマンの脚本が良いのはもちろんだろうが、それを「正しく」映画にした、この監督の手腕がすごいのだろう。

(2006/1/22執筆)

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