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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

君たちはどう生きるか

2023-07-22 20:32:56 | 映画(か)
評価点:47点/2023年/日本/124分

監督・脚本:宮崎駿

ちぐはぐな世界観。

太平洋戦争中、火事で母親の久子を亡くした真人(声:山時聡真)は、失意のまま東京を離れることになった。
久子の妹、ナツコと父親が再婚し、彼女の実家に父親とともに疎開することになったのだ。
大きな屋敷に連れてこられた真人は、敷地内にうち捨てられた塔を見つける。
塔に住むアオサギ(声:菅田将暉)が、真人をしきりに誘ってきて……。

「風立ちぬ」でジブリをたたむと宣言してから、10年。
やはり作りたい作品がある、と宮崎駿が引退宣言を撤回し、ジブリをもう一度立ち上げるというわがままに、観客たちが付き合わされたという作品だ。
しかも、予告編もストーリーも、公開日まで一切明かさない。
当日パンフレットもナシ、あるのは鳥が描かれた一枚のポスターのみ。
何もかもが異例の作品公開となった。

観客の入りは上々のようで、とりあえずは戦略的には成功したと言えるかもしれない。
これからどんどんリピーターが増えなければ、商業的に成功とは行かないだろうが。

じゃあ、何度も足を運ぶような中毒性があるかと言われれば、それが全くない。
すくなくとも、「ハウルの動く城」「風立ちぬ」あたりが好きではないなら、それほど面白みが感じられないだろう。

▼以下はネタバレあり▼

すでに公開から時間が経っているので、別にネタバレしても良かろう。
いや、このブログはネタバレを前提としているので、それをせずに記事にするのは難しい。
まだ見ていない人は、これ以降はぜひ鑑賞後に読んでいただきたい。
別にネタバレしてから映画鑑賞をしても、決して禁忌というほどではないけれども。

説教臭かろうが、商業主義的であろうが、とにかく一個の観客である私を、楽しませてくれさえすれば私はそれで良いと思っている。
そういうものが映画であり、それが実現できなかった場合はやはり評価はできない。
誰が作ろうが、誰が出ていようが、関係はない。
公開された映画を見に行くかどうかは、もちろん、それ相応の期待ができるかどうかにかかっているとはいえ、見に行った以上は楽しければそれでよいわけだ。
その観点から言って、この映画はおもしろくない。
それだけの話だ。

宮崎駿らしさがなにかは人それぞれだろうが、私はこの映画を「実は宮崎駿は作っていませんでした」と言われても驚かない。
それくらい、心が躍らされるようなシークエンスがほとんどなかった。
ジブリらしさはある。
けれども、ジブリらしさがある作品は、これまでもいくらでもあった。
それでもおもしろくない作品もたくさんあった。
それらと同列くらい、おそらく記憶に残らないだろうな、というのが第一印象だ。

残念ながら。

テーマは非常にわかりやすい。
母親を亡くした少年が、母親の愛を取り戻す物語だ。
彼が迷い込んだ塔の下にあった世界は、観念的な世界だった。
継母であるナツコがその世界に迷い込んでしまったため、少年は彼女を救うために自分も塔の下の世界に潜り込む。
そこで曾て少女だったころの母親と出会うのだ。

先に塔の話からいこう。
塔は突然空から降ってきて、地面に突き刺さり、それを大叔父が建物として活用し始めた。
これは、前田有一も指摘しているように、明治維新でもたらされた近代国家の知識というメタファーである。
大叔父は、熱心に読み込んでいくうちに、帝国主義という塔を築き、自分自身を見失ってしまったのだ。
すでに疲れ果てた大叔父は、国粋主義を踏襲させるために、血族である真人に後を継がせようとする。
それは、すなわち、子どもたちの源を国のために蔑ろにするという未来だ。
「我を学ぶ者は死す」というのは、まさにそれを端的に示している。

ペリカンという使命感は、すでに疲弊しきって命(わらわら)さえ奪えなくなっていた。
それはそのまま戦時中の日本を象徴する。
先のテーマ、母親の愛を取り戻すだけなら、この映画の舞台は戦時中である必然性はなかった。
「君たちはどう生きるか」という問いかけは、戦争の足音が具体的に聞こえてきた(多くの人が指摘していたように、ロシアがウクライナに侵攻する前からそれは聞こえていた)ときに、監督が日本に問いかけたものだろう。

その塔で、かつての母親と出会う。
父親がばあばやたちから聞き出したように、一年間久子は失踪していた時期があった。
ラストで、久子と、ナツコ・真人が別々の出口から出て行くが、それは彼らが別々の時間へ帰って行ったことを示す。
母親はこれから生まれてくる真人に出会ったから、「上機嫌で」家に戻ったのだ。
そして、彼女は「君たちはどう生きるか」という本を、それを見越して残していたのだろう。

子どものころだった母親に出会うことで、真人は再び母親に抱きしめられる。
「なんて素敵な男の子なんだ」と言われて抱きしめられることで、母との別れを言えなかった真人は、前を向いて生きていくことを決心する。
過去と未来がつながる瞬間だ。

だが、このシークエンスでひどい居心地の悪さを感じたのは私だけだったのか。
はっきり言えば、80歳になったおじいさんが書くシナリオではない。
気持ち悪いを通り越して、あきれ果てる。
このシークエンスで描かれる視点は、母親の久子ではなく、真人だからだ。
「君たちはどう生きるか」というタイトルの映画なのに、「俺はお母さんから抱きしめられたい」と宣言してしまう。
そのコンプレックスを徹底的に描ききってしまったところが、そしてスタッフや観客をそれに巻き込んでしまったことがわかり、辟易してしまう。

現実と、塔の世界。
反戦という強い社会的メッセージと、母親に抱きしめられたいという強力な個人的嗜好。
「君たち」というタイトルと、正反対の込められた自己愛。
あらゆることがちぐはぐで、いや対極的であるがゆえに、説得力が乏しい。

ここまで好き放題よくぞやったな、というリスペクトのみが残る。
ジブリ映画でもまれなくらい冗長に感じる展開は、それを象徴していると言えるか。

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