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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

男たちの大和

2009-05-19 18:36:13 | 映画(あ)
評価点:61点/2005年/日本

監督:佐藤純彌

感動の涙と、低い完成度の共存。

太平洋戦争が始まり、日本は巨大な勢力に陰りが見えてきた。
その状況を打破すべく、日本の高い技術力をもって、世界最大、最大級の軍艦「大和」が建設された。
しかし、日本の戦況はますます悪化、大和も最前線へ送り出されるようになる。

この冬一番話題になった映画、という紹介をしても差し支えないだろう。
反町隆史、渡哲也、仲代達也、鈴木京香など、豪華キャストに加え、大和のセットを実際に建設、超大作として公開前から大きな話題になっていた。
「ローレライ」や「亡国のイージス」などとともに、並べられると、ちょっとしんどい感じもするが、それでも、日本映画史上、これほど気合いのこもった戦争映画は無かっただろう。

それまで「戦艦大和」と言われると、どうしても、例のアニメを想定してしまったが、本当の「大和」は、こっちである。
戦争ものに抵抗感がなく、キャストに惹かれるなら、見に行っても損はないだろう。
ただし、反戦映画としての戦争映画を所望するなら、僕はおすすめしない。
「戦争はいけない」というような単純な切り口でしか映画を観られないならば、それはこの映画がかわいそうだ。

史実かどうか、それが実話かどうかは抜きにして、特に、若い人(僕も若いけれど)に見に行って欲しい。
 
▼以下はネタバレあり▼

戦争映画を論じることは非常に難しい。
それぞれ政治的な思想が違うだろうし、戦争に対する想いも違うだろう。
僕は個々の主観性を重んじるべきだと思うから、あまり右翼だとか左翼だとか、言うことは避けたい。
しかし、僕の内在的な思想が、この映画を観るときにも反映されていることは、やはり免れない。
僕は、太平洋戦争について、正直、他人に何かを言うほどの知識も、専門性も持ち合わせていない。
これから語ることは、僕がいま持っている戦争観、とでもいうべきものに支えられているが、原則的には、やはり「映画」という枠組みからはずれたことをいうつもりはない。
「あなたの歴史認識は間違っていますよ」という指摘はもちろんあるだろう。
だが、あくまでこの文章で「問う」のは、戦争そのものではなく、戦争映画であり、この作品であることをまず断っておきたい。

この映画のストーリーは大きく二つの時間軸に支えられている。
一つは、現在つまり2005年4月という時間。
もう一つは、太平洋戦争中の日本という時間。
この時間構成は、あたかも「タイタニック」を彷彿とさせる。
同じ船の話という意味では、パクリというか安易というか……。
タイタニックよりも必然性があるから救いである。

その必然性とは、この映画が誰のためにあるか、というテーマにおいてである。
現在に生きる者が過去を回想するというかたちで、しかもその話を聞いている中には、当時の兵士たちと変わらない年頃の15歳の少年もいるのである。
この物語の視点人物は、多様に入れ替わるが、本当に「物語」として「体験」するのは、この15歳の少年だろう。
つまり、この物語を、若い世代がリアルに、実感をもって知って欲しいという、真摯な態度があるのだろう。

とはいえ、この物語は結局、過去に重きが置かれている。
まずは過去の太平洋戦争の時間について考えていく。

この映画の主人公は、なんと言っても制作費に巨額の予算を組んだ、「大和」そのものだろう。
大和に乗る人間を何人かに焦点を絞りながら、群像劇のように描いている。
ウン千人という人間が乗っている戦艦を、このように描いたのは正解だろう。
群像劇として描くことによって、個と全体というバランスがとれたように思う。

中でも中心的な十代の神尾克己(松山ケンイチ)、
炊飯担当の森脇庄八(反町隆史)、神尾の直接の上官である内田守(中村獅童)の
三人が主要なメンバーと言えるだろう。
全員の説明をしていると長くなりすぎるので省くことにする。
だが、この三人の人間関係を序盤から丁寧に描くことによって、それぞれに感情移入しやすくなったことは確かだろう。

特に、冒頭の訓練の様子や、上官に反対する内田の哲学などは、非常にうまいと思うし、あのようなシーンがなければ、おそらくこの映画が成り立たなかったほどの、重要なシーンとなっている。
戦争とは、この戦いとは、という問いを見事に具現化している。

問題は、これ以降の展開である。
挿入される現代のエピソードは、場面を転換させるには良い効果をもたらした。
しかし、あまりにも各シーンが連続性を失っている。
訓練 → 本島への帰還 → レイテ島の戦い → 本島への帰還 →沖縄出向という流れが、連続性を失い、一つの映画としての統一感が薄れてしまっている。
冒頭にかけての訓練の様子を描いておきながら、それが次の場面では突然様相が変わる。
そのため、どうしてもドラマ、として弱くなっている。
一つ一つのシーンでは感動や涙を誘うのだが、連続としての感動が薄い。もったいない限りである。

その理由は、移動のシーンや作戦のシーンが少なすぎるためである。
なぜ帰還するのか、なぜ出向するのか、もう少し丁寧に描いても良かったと思う。
そうすれば、戦争映画としての説得力が増したはずだし、「どうしようもない」感が出たはずだ。

そして演出面の貧弱さがそれに輪をかける。
大和自体がセット丸わかりだから、壮大な印象が薄い。
確かにセットは良くできている。
しかし、それだけだ。
あるシーンでは優れていても、それが世界最大の戦艦「大和」であるという臨場感にはつながらない。
全体像が、戦艦の左側からしか撮られないため、よけいにスケールが貧弱に感じる。
全体を舐めるようなカメラアングルがあれば、その大きさ、すごさ、偉大さ、象徴としての日本の矛であることが、ヴィジュアルとして感じられたはずだ。
セットだけでは、どれだけお金をかけても限界がある。

その意味で「キング・コング」との対比は大きい。
ミニチュア、CG、セット、実写、という素材の使い分けを、日本は学ぶべきだろう。

全体として、ストーリーも良くない。
全員が同じ格好をしているため、誰が誰かわかりにくい。
もう少し特徴付けをするなり、三人以外の人物の描き分けをしてほしかった。
これは戦略的な連続性がないことも作用しているだろう。

特に、上官の玉木と、その実弟である神尾とのやりとりは、実はめちゃくちゃに泣けるシーンである。
にもかかわらず、そのシーンがさらっと進むために、「ああ、そうだったんだ」という感じで素通りしてしまう。

少し解説を加えると、実兄である玉木は、ミスを申し出た弟に対して、本気で殴ることができなかった。
だから、内田に殴らせようとする。
殴るのを拒否した内田に対して、今度は内田を殴ろうとするのだ。
本当は玉木は、内田を殴りたい気持ちはないのだが、弟をどうしても殴ることができないため、体裁を保つために、内田を利用したのだ。
だから後に内田と玉木はすんなり仲直りするのだ。

これだけ良い物語があるのに、それをさらっとテンポ良く進めてしまうため、え? これだけ? という印象になってしまう。

また、首を激しく傾げたくなったのは、最後の出向の時である。
けがをした内田を見舞うため、森脇が訪れる。
このとき、内田は桜を眺めながらこう詠う。
「散る桜、残る桜も、散る桜だ」
いずれはみんな死んでしまうのだから、それでいいだろう、という感動的なシーンになっている。

その後、神尾と母親とが再会する場面が挿入される。
ところが、このとき、雪が舞い散るシーンになっている。

なぜでしょう。
いつのまに時間がスリップしたのか桜が舞い散る季節と、雪が舞い散る季節、どう納得しても無理だと思いますけれど。
たとえ、それが梅の花であっても、さすがに説明がつかない。
一つのシーンで一気に興ざめしてしまうというのは、このことだろう。
制作陣がバカなのか、ちょっとあり得ない。

その後は、怒濤のように興ざめなシーンが続いてしまう。
けがをしていたはずの内田が乗り込んでいたり、一茂が急に時代錯誤な台詞を口にしたりする。

「負けてからしか学べないこともある」(※注)

この台詞が言えるのは、現代人だけだ。
負けて本当に学べる余地があるかどうか、当時の人間が知るよしもない。
負けるとわかっていても、玉砕しなければ、アメリカ軍に何をされるかわからない時代だ。
そのときに、そんな超越的なことを言える人間がどこにいたのだろうか。
なぜそんなシーンだけを、反戦的な台詞を言わせるのか、まったくわからない。
しかも、前後の文脈から言って、かなり唐突な台詞となっている。

そもそも、戦争に反対だという意識は彼らにはなかったはずだ。
みな、勝利を信じ、そして戦争が正義だと信じていた。
上官であるはずの一茂がそんな部下のやる気をそぐような話をするとは思えない。
それまで、戦争に必然的に込められる「かなしみ」を描いていたはずなのに、そこだけが「戦争反対」のお説教臭い映画になっている。

僕はこのシーンに対して、最大の批判の言葉を浴びせたい。
まず一茂なんていうわけのわからない人間を使う必要がないし、映画の統一感やテーマを無視した台詞だと言わざるを得ない。

あまりにも旧態依然な台詞で、閉口する。

そもそも、映画というのは反戦や民主主義を流布するための媒体ではない。
なぜ、こんなにお金をかけて、あえて「反戦」という言葉を掲げないといけないのだろうか。

それに、今更「反戦」だけを声高にいう時代ではない。
「反戦」がいけないのではない。
ただ「反戦」というだけでは、反戦は実現できないという意味だ。
反戦ということばは口にしやすいし、口にすれば何か偉大なことを言った気になる。
だが、それだけでは、もうやっていけない時代に来ているのだ。
それだから、今憲法改正が議論されているにもかかわらず、
なぜ、そんな思考停止のような反戦というテーゼを重要なシーンで使うのか、僕には全く理解できない。

そもそも、政治的思想は、台詞で明示することによって、訴えるのではなく、完成度の高さによって暗示することが、「映画」という表現媒体なのではないか。
安易に、映画をプロパガンダに利用してほしくはない。
それではアメリカ映画と変わらなくなってしまう。

渡哲也の役所も同様に不透明で不必要だった。

ラストにある、戦闘シーンも駄目駄目だ。
描写が速すぎて、これではドラマにならない。
ばたばたと死んでいくが、どれも描写が雑。
ただ「人が死んでいく」という事実しかないため、感動どころか、状況把握するだけで精一杯だ。
ここは早送りで映すよりも、逆にスローモーションでとるべきだった。
演出的に、予算的に不可能だったから、仕方なくこうしました、という印象が強い。
最後の盛り上がりのところで、このような手抜きでは、映画の完成度はますます下がる。

最後に、この映画のテーマについて、言及しよう。
この映画を観て、僕が強く思い描いたのは、「日本人、もっと強く生きろよ」というメッセージだ。
それは、戦争反対とは少し違う。
戦争賛美とも違う。
これだけの犠牲、これだけの思い、これだけの命。
その重みをもっと知って、感謝して、そして生きろよ、というメッセージではなかったか。

それは、あえて、十五歳という視点人物を置いたことでも、わかる。
十五歳という年齢や、現在をあえて起点に置いていることなど、非常に明確な「意志」がある。
軍国主義や、戦争に行くことへの「負の側面」を、意図的に、巧みに隠しながら展開されるアンフェアな映画ではあるものの、この明確な「意志」があるため、十分メッセージ性を受け取ることは可能だろう。

完成度は正直、低い。
むかつくシーンもある。
だが、そのメッセージは確かにあっただろう。

日本人はよく、精神論を振りかざすが、この映画もそれをよく表している。
精神は共感できるが、映画としての完成度は疑問。
しかし、もうすこし何とかならんかったのかな~と思う。
なんでもかんでもハリウッドが良いとは思わないが、まだまだ学ぶところはあると思う。
 
※注
この台詞については、史実に基づくものであるという。
そのため、この批判は当たらないのかもしれない。
しかし、この文章は、あくまでこの映画内において、ということであるので、
史実かどうかはあまり問題がないように考えるためこのままにしておくことにした。
 
(2006/1/4執筆)

今読み返すと、ちょっと不安なところもある。
しかし、これも記録と言うことで、そのまま移行することにする。
一茂に対して、たぶんかなりの先入観がある。
それは、長嶋終身名誉監督が個人的に好きになれないということと(ほんとすみません)、その子どもにして才能のない彼がメディアや映画にばんばん出ることが納得できないことと、なにより、巨人が嫌いだということ。
そのため、彼には「不利」な条件がそろっていると考えてもらいたい。

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