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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ヱヴァンゲリヲン 新劇場版:序

2009-06-28 18:48:54 | 映画(あ)
評価点:??点/2007年/日本

原作・監督:庵野秀明

主題歌:宇多田ヒカル(←これは譲れんね。)

「総集編」というより、「予告編」

2000年に起こったセカンド・インパクトにより人類の半数以上が命を奪われた。
世界はサード・インパクトの恐怖におびえていた。
使徒と呼ばれる謎の生命体に対抗する唯一の有効手段の兵器として、「人造人間エヴァンゲリオン」が開発された。
要塞指令都市「第三新東京」に呼ばれた碇シンジ(声:緒方恵美)は、三年ぶりに会う父親ゲンドウ(声:立木文彦)にエヴァンゲリオンに乗って使徒と戦うように指示される。
予期せぬ事態に半ば無理矢理にエヴァに乗ることになったシンジは、兵器に乗って戦うことに疑問を抱く。

今更何を言い出しているのか、というのが、映画化することが発表されたことを聞いた僕の第一声だ。
時代が十年もすぎ、あえて再びエヴァを問い直す必要があるのだろうか。
よくいわれているように、ただの商業目的のために、「エヴァ」を汚(けが)してほしくはない、というのが、ファンとしての気持ちだろう。

しかも、酷い出来だった「Zガンダム」が公開されてすぐのことだったため、期待よりも、圧倒的に不安と不審の方が強かった。
でも、観てしまうから、手のひらに乗せられているなあ、と感じてしまう。
そして、極度の期待を抱いてしまうところが、自分でもいけないところだと反省する。

いずれにしても、今年一番、映画館に入って観るまでに緊張した映画だった。
期待と不安と入り交じった気持ちは、久しぶりに体感した。
それだけでも1000円(サービスデー)の価値はあったのだろう。

それにしても、公開日の三回目前にすでにパンフ売り切れとは。どんだけ~?!
 
▼以下はネタバレあり▼

今回はこれまた久しぶりに、映画関連の雑誌を買い、インタビューを読んだ。
それは、パンフレットが購入できなかったという腹いせのためでもある。
そこにはプロデューサーの大月俊倫がこんなことを言っていた。

「この新劇場版を、前作の「リメイク」と考えいる人がいるようですが、そういう楽しみ方もいいんではないか。全く違う作品になっていることは、観ていただければわかるが、どんな見方をするかは観客次第ですから」
(「キネマ旬報」2007年9月号)

たぶん、大意は正しいと思う。
一言一句はわからないけれど。

僕は見終わった後に購入して読んだので、観る前はほぼ予備知識なしで観た。
僕の位置づけでは「テレビの総集編」だろうと思って見に行った。
結論は、その位置づけはあまり変化ないということだ。

制作者たちは、どうやら「別の作品」として観てもらいたいという願望を持っていたようだ。
だが、この映画作品だけで勝負できるような出来ではない。
出来が悪いというのではなく、初心者お断り、テレビ版を知らない人は、分からなくても仕方がないです、というスタンスで撮られている。
その意味で、別の作品として扱うことはほとんど不可能だ。

そもそも、あれだけ人々を巻き込んだ作品を、同じようなタイトルで描き直すということじたい、「エヴァ」と「ヱヴァ」を比較せよと言っているようなものだ。
その違いを楽しむ以外に、少なくとも、この「序」は楽しむ方法がなかった気がする。

とはいえ、この批評で、ほかの多くの人が指摘するだろう、違いを事細かに挙げる気にはなれない。
比較をしても、やはり「単体」なわけで、あまり生産的でないだろう。
そしてなにより、この作品は「序」であり、のこり三作を観なければ物語は完結しない。
完結しない物語を比較しても、比較しようがない。
それは、批評という場においても同じことがいえる。
この場で、あ~だこ~だ言ったところで、無意味だ。
それは評価ではなく、予想にすぎない。

変更点はいくつかある。
たとえば、カヲル君の登場と、ゼーレの「01」が彼と話すラストのシークエンス。
これは次回以降の重要な伏線になっている(だろう)が、彼らが持つ、物語的な記号性が明らかになるのは、やはり物語が完結してからとなるだろう。

それ以外にも、削除されているシーンや付加されたシーンはちょこちょこ発見できるはずだ。

だが、それがすなわちそのまま「テレビ版」との相違点だ、と考えるのはあまりに安直だ。
なぜなら、そもそも六話ぶんの話を、半分の1時間半に短縮したのだから、とうぜん削られるエピソードやシークエンスがあるからだ。
同じように、短く脚色するにあたって整合性をつけるために付加されるシークエンスもあるだろう。
単純比較することで、それを変化だとするのは無意味だ。
だが、脚色のためだけに削られたと考えることも、また安直だろう。
削らないといけない中でも、それでも残した部分というのは、物語的に必要だったからと考えることもできる。

とどのつまり、完結していないため、この「序」だけで語ることは不可能なのだ。
どのように物語が構築されていくかということを知らないで、伏線やメタファーなどを語ることはできない。
それはやはり低俗な「予測」にすぎない。

ただ、すくなくともいえることは、大月俊倫が言うように「全くの別物」と考えるには、あまりにも「そのまんま」であるということだ。
そして「まんま」でないところは最後の「カヲル」のシークエンスであるならば、この映画(かどうかも疑わしいが)は、「総集編」というよりも、次回以降、たっぷりと思わせぶりな終わり方をして、観客を引きつける「予告編」なのだ。
そう考えれば、うなずける。
ほとんどテレビ版と同じであることも、観客に「やはりエヴァはエヴァだった」と大きな安心感を与えながら、違いも楽しめ、次回以降に期待ももてる。
これがいきなり全く違う作品だったとしたらどうだろう。
きっと不満をもった観客は、一作目で「ヱヴァ」から「降りて」しまうだろう。
しかし、一作目がほとんど同じ安心感を与えるものであれば、たとえ二作目が期待はずれでも、一作目二作目と観た観客は四作目まで観てしまう。
商業的にはもっとも優れた展開といえる。

思えば、「エヴァ」がこれだけファンをもつようになったのは、制作者側の巧みな商業的戦術によるものだった部分が大きい。
もしかしたら、今回の「再起動」はうまく乗せられているのかも、と思いながら、初日の映画館を後にする僕がいた。

(2007/9/8執筆)

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