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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

機動戦士ゼータガンダム 星を継ぐ者

2009-04-09 23:26:15 | 映画(か)
評価点:53点/2005年/日本

原作・脚本・絵コンテ・総監督/富野由悠季

誰のための映画か、ベクトルの方向が不明確。

近未来。増えすぎた地球人をまかなうため、宇宙にコロニーを打ち上げるようになっていた。
宇宙に住むスペースノイド、ジオン公国が独立戦争を地球に掲げ、そしてジオンは連邦軍に負けた。
特に戦闘の激しかった時期を一年戦争と呼び、人々は疲弊しきった地球圏で暮らしていた。
ジオンの残党勢力を討伐するためという名目で、ティターンズという連邦の中でも地球生まれの軍隊が、不穏な動きを見せ始めていた。
そのティターンズの対抗勢力であるエゥーゴという軍事勢力が、グリーンノアというコロニーに偵察に向かった。
グリーンノアでは、一年戦争で活躍した人型兵器、モビルスーツの新型「ガンダム」が実戦演習を行っていた。
グリーンノアに住む青年カミーユ(声/飛田展男)は、ティターンズの傲慢な態度に腹を立て、ティターンズの兵隊に喧嘩をしかけたことで、取調室に呼ばれていた。
そこへ新型のガンダムが落下、機を見たカミーユは逃げ出してしまう。

僕ら世代にとっては、ゼータと言えば、もっとも影響を受けたアニメの一つではないだろうか。
ゼータによってガンダムを知り、ゼータによって切なさを知った。
この時期に映画化されるとあって、疑問も沸くのだが、それでもこのゼータは絶対に観に行くべき映画の一つであることは間違いない。

全五十話以上とあって、それを三部作まで削るという作業が、どれだけ大変なものであるかは想像に難くない。
この映画化は、映画としての自律性を保てるかどうか、その一点に集約されるだろうと思う。
そうでなければ、技術があろうとなかろうと、映画化する意味など何もない。
映画であることを意識したつくり。
これが製作陣にとっては至上命題であったはずだ。
 
▼以下はネタバレあり▼

この映画を観終わって思うことは、「これは誰に向けて作られた映画なのだろうか」という疑問だ。
映画は一つのメッセージだ。
作ったものから観るものへの、ひとつのメッセージであると考えることができる。
それは明確なかたちで提供することもあれば、不明確で、テーマ性を隠したまま提供することもある。
いずれにしても、作ったものから、観るものたちへのメッセージがそこに込められていなければ、映画を作る意味さえなくなってしまう。

この映画を観終わっても、まだ「なぜこの時期に映画化しようとしたのか」という疑問が、まったく拭い去れなかった。
原作を大きく変えてほしいとは思わない。
しかし、そこには映画としてのメッセージ(テーマ、主題といってもいい)は、何一つなかったように思う。
これでは、映画ではなく今レンタルできるビデオで十分でなかったか。

長い原作アニメをいかに編集するか。
この点については完全に失敗だと言わなければならない。
アニメであった戦闘シーンをすべて詰め込もうとした結果なのか、やたらと戦闘シーンばかりで、人間性がまったく捨象されてしまった。
ジェリド(声/井上和彦)とライラとのやりとりは、ほとんど薄っぺらなものであり、ジェリドの〈かなしみ〉は全く見られない。
アムロにしても、カミーユにしても、その状況においての必然性を感じさせるまで、心理が十分に描けていない。
だから全然感情移入できないし、ただ戦闘シーンが連続している印象しか受けない。

もちろん、観客のほとんどは原作を観たことがあるものばかりだろう。
だから、映画と原作との違いを楽しむことはできる。
だが、この映画版からゼータに「入門」することは不可能になっている。
若い世代の観客は、この映画を観てなんと思うだろうか。
たんなる中身のないロボット映画と思うに違いない。
そして疑問に思うだろう。
「ゼータ・ガンダム出てこないじゃん!」

人間ドラマのない戦闘ほど面白くないものはない。

感慨深いシーンはある。
ちょっと涙も出そうになった。
しかし、それは原作を思い出して感じること。
この映画そのものに描かれているシーンは、すべて、自律性を欠いた「総編集」にすぎない。
これでは、納得しようがない。

「ゼータガンダム出てこないじゃん!」と突っ込みを入れることになるのは、この映画があまりに戦闘しか描いていないからだ。
戦闘しか見せ場がない。
だからゼータが出てこないことに知らない者は、びっくりするだろうと思うのだ。

もちろん、それだけではない。
この映画は、原作アニメの映像を主にしながら、現在のアニメ技術を取り入れて、新たに焼き直されたシーンがある。
しかもただ取り入れただけではなく、旧のシーンとの違和感をなくすための新しい技術も取り入れられたという。
つまり、映像を「古く」見せる技術だ。
これによって、原作では描けなかったシーンがダイナミックによみがえる、というのが今回の映画の大きなセールスポイントだった。

だが、これも完全に失敗している。
アニメーターの「我」が出すぎて、キャラクターが同一に見えないのだ。
それは技術云々の問題ではない。
単純に、それが誰かわからないのだ。
特にカミーユ、アムロ(声/古谷徹)、レコア、エマが酷い。
明らかに別人だ。
だが、それだけならまだ良い。
このタッチのせいで、映画そのものに集中できないというサイアクな結果を生んでいる。

「このシーンは原作、このシーンは新規」というふうに、どうしても気になってしまう。
それは当たり前だ。
明らかに別人をいきなり見せられても、すんなり物語に入っていけるわけがない。

それは、たとえるなら、実写映画で役者が入れ替わるくらい無茶なことだ。
「理由なき反抗」をこのようにリメイクされても、「いやいや、お前ジェームズ・ディーンと違うやん!」
と誰もが突っ込むだろう。

それを何の惜しげもなくやってのけるこの製作陣は、本当に何を考えているのかわからない。
原作とまったく同じに出来ないとしたら、「スターウォーズ特別編」のように、人間以外のところだけをリメイクすればよかったのだ。
もしくは、すべて描き直せばよかったのだ。

この映画の構成は、見せ場となるシーンに多くリメイクシーンが使われている。
特にラストに近づけば、その割合が多くなる。
それならば、なぜ戦闘シーンだけをリメイクするといった工夫ができなかったのだろうか。
違和感しかないカミーユでどれだけの観客が納得するというのだろうか。

はじめの疑問に戻ろう。
僕はこの映画を観終わって、「これは誰に向けて作られた映画なのだろうか」と疑問に思った。
その疑問は、疑問が発せられた時点で答えが出ていた。

「製作陣が作りたかったから作ったのだろう」

つまり、同人のノリである。
「私たち、ゼータを描いてみたいんです」
「今の技術なら、もっとかっこよく描けるんです」
「ねえ、あなた達も新しいゼータを観たいでしょ?」
「ゼータ映画化決定です」

これが製作陣の考え方なのだ。
まず自分達が満足するゼータを描いてみたかった。
それがこの映画化の企画が立ち上がったきっかけではないだろうか。
そうとしか思えない、映画の出来を追求したとは思えない、この映画に、感動することができるのは、本当のマニアだけだ。
マニアだけをターゲットにするなら、リメイクされたシーンなど要らなかったのだ。

映画は誰かに向けたメッセージそのものだ。
それなのに、「映画」としての意識の薄いこの映画は、自分達がただ作りたいという欲求にしたがって出来た、なんとも中途半端な映画になってしまった。

次回作は、十月公開で、フォウとカミーユとのやりとりが展開されるところになる。
僕がゼータで一番好きな場面だ。
おそらく観に行くことになるだろう。
それでもこのような中途半端をするようなら、ガンダムもいよいよ「哲学」を失ったといわなければならない。
すばらしい作品をけがすような真似だけはしてほしくない。
点数はその期待を込めての数字だ。

(2005/6/12執筆)

と言いながら、結局行かなかった。
この映画の出来がその意味を示しているのだろう。
借りてみるつもりも、今のところ全くない。

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