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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ターミネーター(V)

2010-11-10 22:25:23 | 映画(た)
評価点:86点/1984年/アメリカ

監督:ジェームズ・キャメロン

コナーが掠め取られた〈矛盾〉

何者かがサラ・コナーという女性ばかり殺害するという事件が起こっていた。
ウェイトレスのサラ・コナー(リンダ・ハミルトン)の元にも男(マイケル・ビーン)が現れ、恐れおののく彼女は、逃げ出してしまう。
さらにもう1人の屈強な男(アーノルド・シュワルツェネガー)が現れ、彼女に襲いかかる。
助けに入った男はカイルと名乗り、タイムマシンで未来から助けに来たと告げる。

すべてはここからはじまった。
ジェームズ・キャメロンにしても、リンダ・ハミルトンにしても、シュワちゃんにしても、彼らの大きなキャリア・アップに繋がった作品であることは疑いない。
僕も、はじめ母親に勧められてテレビで見たときは、眠れなかった。
僕は子ども過ぎてこの映画が公開される段階でどれくらい話題になっていたかは知らないが、「ターミネーター2」のフィーバーぶりを考えれば、この映画の功績は大きい。
おそらく日本人の殆どが見ているはずの(言い過ぎ?)この映画を今一度考えてみよう。

▼以下はネタバレあり▼

この映画を語るとき、もはや「2」の存在を抜きに単体で扱うことを困難にしている。
それくらい「2」のできがよく、そのため、この映画の完成度も高く見えてしまう。
今回の批評では、あくまでもこの作品単独で考えるように努めるつもりだが、僕は「」までの一連の流れの中でしか考えられないようになっていることを、先に断っておきたい。
ちなみに、テレビ版の「サラ・コナー・クロニクルズ」は見ていない。

この映画の一つのテーマは、絶対的なものからの抵抗である。
その絶対的なものとは、もちろん、核戦争が起こるという未来をもつ運命そのものだ。
その運命を象徴するのが、シュワちゃん演じるターミネーターT800型である。
そのテーマ性を浮き彫りにするための、緻密な世界観がある。
ここまで人気シリーズになったのは、世界観や設定が非常に巧みだったからだ。

スカイネットとよばれる人工知能が、ソ連に核戦争をしかけ、世界は核に汚染された。
人々はスカイネットが操る機械と日常的に戦い続けたが、敗戦は濃厚だった。
そこで1人の英雄が立ち上がり、抵抗軍を組織し、スカイネットを追い込んだ。
だが、対するスカイネットは、人間そっくりのロボットT800型を開発し、反抗した。
それでも苦戦を強いられたスカイネット側は、タイムマシンを開発し、抵抗軍のリーダー・ジョン・コナーが生まれる前に抹殺してしまおうと考える。
その母親が当時なにも知らなかったサラ・コナーだったのだ。
抵抗軍も、ターミネーターを阻止するために、1人の戦士を送り込む。
そのカイルの話では、タイムマシンは送ることはできても帰ることはできず、送ったマシンも破壊された。
また、生命体以外の装備品などは送ることができないため、彼らは素っ裸で現代に送り込まれる。

この映画は、実に巧みに設定されているにもかかわらず、少し考えればすぐにそれらが〈矛盾〉していることに気づくはずだ。
劇中に説明されていないことも多いため、それが〈矛盾〉と言えるだけの確証はない。
けれども、明らかに筋が通らないことが多い。
それがそのままこの映画の評価を下げるというわけでないところが、この映画のすごいところなのだ。

まずはテーマだ。
カイルやサラは、強力なテーゼとして「NO FATE」、「運命ではない」と、言い聞かせている。
もう少し詳しく訳せば、悲運なんて存在しない、程度のニュアンスになるだろう。
だからこそ、変えられる、未来は核戦争を起こさないようにすることも可能なのだ、という希望を抱くのだ。
それは「2」へも引き継がれることになる。

だが、これこそが矛盾だ。
運命ではないと心に刻みながら、彼らは未来が決定していることを自認している。
タイムマシンでカイルが来たことじたいが、運命を信じていることを示している。
なぜなら、カイルとサラとの子どもが、何を隠そう生まれてくるジョンなのだから。
もっと端的に言えば、タイムマシンを開発しなければ核戦争で英雄が生まれることもなかったのだ。
そんなことはわかっているはずなのに、スカイネットも抵抗軍も、タイムマシンで過去に向かってしまう。
これを「運命」といわずになんと言うのか。

観ている側にしても同じなのだ。
この映画のミソは、サラに感情移入できてしまうところにある。
なぜ感情移入できてしまうのか。
それは何にも特別な才能がない自分が、ある日白馬の王子様、ではなく、裸のカイルが現れて、自分を未来の抵抗軍の母とあがめて欲しいという欲求が見事に引き出されるからだ。
それはまさに白馬の王子様が自分を迎えに来てくれるかのごとくの、〈快楽〉がある。
勿論ここでいう〈快楽〉は、いわゆる気持ちいい程度のものではなく、自分自身を特別視してくれるという〈快楽〉だ。
すごく平たく言えば、アイデンティティの確立をもたらせてくれる、そういう〈快楽〉である。
そういう〈快楽〉は、運命を信じている者にしか得られない。
当たり前だが、カイルと結ばれたけれども、生まれてきたのが女の子では話にならない。
そこには否定したはずの「FATE」がなければならないのだ。
核戦争を起こしたくないと思いながらも、起こって欲しい。
そんな奇妙な心情が透けて見えてこないだろうか。
自分自身を英雄化、英雄視するためには、そういった〈矛盾〉を乗り越えたところに身を置いて初めて成功する。

運命を変えるといいながら、その絶対的存在から逃げるという行動も〈矛盾〉に満ちている。
強力すぎるターミネーターは、スカイネットとの闘いを過去に持ち込んで行われる象徴そのものだ。
にもかかわらず、その英雄の母親と戦士は逃げ続けることしかできない。
ラストでは破壊できるわけだが、それもたまたまと言っていい。
勿論それも戦う意志があったからこそ、というものの、やはり逃れられない〈運命〉から「逃げる」という彼らの態度は、どこかちぐはぐさが否めない。

象徴されるターミネーターが、屈強な白人俳優だったことも、実は〈矛盾〉を感じさせる。
なぜ無名のシュワルツェネガーなのか。
彼はこの作品に出演するまでにいくつかの作品に出ている。
けれども、実質的に脚光を浴びたのはこの作品である。
人々は彼を違和感なく「ターミネーター」として捉えただろう。
無名の彼は、強面で、どこかナチスの兵隊さえ思い出させる。
オーストリアに生まれた彼の外見は、未来からきた「ターミネーター」というよりは、過去の亡霊「ナチスの兵隊」を思い出させたかもしれない。
その意味でもこの映画は、明確に未来の戦いではなく、過去の戦いを背景に持っている。
ここにも〈矛盾〉を読み取ることができる。

オール・オア・ナッシングのAI、スカイネットと戦いながら、至極〈矛盾〉だらけの世界観を描き出す。
けれども、それこそが、この映画の説得力そのものだし、魅力そのものなのだ。
なぜなら、この映画に限らず、現実はどこまでも〈矛盾〉しているのだから。

絶対的な不条理、FATEから逃げ出すしかできないという閉塞感。
自分はきっと特別なのだと信じたい子どものような、大人の夢物語。
僕たち現代人がどこかで求めていた世界観がここに体現されている。
白馬の王子様が来ないことを知った僕たちが、それでもリアルに夢見たのが、未来からの使者だったのかもしれない。

いずれにしても、おもしろい映画であることは疑いない。

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