secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ドライブ・マイ・カー(V)

2022-10-13 17:10:48 | 映画(た)
評価点:76点/2021年/日本/179分

監督:濱口竜介

もっと観客を信用してほしい。

家福悠介(西島秀俊)は、演劇俳優として生活していた。
彼の日課は、車の中で妻の吹き込んだカセットテープを聞きながら台詞を覚えるというものだった。
ある日、予定されていた海外での公演のため飛行機に乗ろうとするが、搭乗予定の飛行機が欠航し、そのまま自宅に帰る。
帰るとそこで妻が他の男といるのを見てしまう。
何も言えない家福はそのまま空港近くのホテルに引き返す。
その半年後、妻は「帰ったら話がしたい」と告げた夜、急死してしまう。
二年後、チェーホフの舞台「ワーニャ伯父さん」を企画するため広島に入るが、そこでは自分で車を運転することを禁じられてしまう。
しかたなく紹介されたみさき(三浦透子)という若い女性のドライバーを雇うことにする。

村上春樹の短編集を原作にした日本映画。
アメリカのオスカーなど、さまざまなコンクールで賞賛されたので、日本でも話題になった。
村上春樹原作ということもあっただろう。
私は見に行きたかったが、三時間もある上映時間ではどうしようもなかった。

そして今回頑張ってレンタルして見ることにした。
村上春樹は学生時代からずっと追っている作家なので、原作はもちろん読んでいる。
ひょんなことから、原作をもう一度読む機会を得て、それで早く映画の方も確認しておこうと思った、というのもきっかけの一つだ。

大衆から大絶賛されるような映画ではない。
わかりやすい話でもなければ、キャッチーな映画でもない。
過剰な期待は、鑑賞の妨げになるので、気軽な気持ちで三時間見てみよう。
三時間もあるけれど。

▼以下はネタバレあり▼

まず断っておかなければならないのは、この作品を見るに当たって私以外の分析をすでに聞いていたということがある。
その人の分析と考察は、主に原作についてのものだが、一部映画についても言及があった。
その人をまず紹介した上で引用するべきなのだが、いかんせんそれはネットの世界とは相容れない部分がある。
よってその人の具体的な考察は最小限にとどめるが、私が考えたことすべてではないということはお断りしておく。
もしかしたら時期が来れば何らかの形で世に発表されるかもしれないし。

さて、制作秘話などをもとに映画を深く掘り下げてもあまり魅力を感じない。
たとえばこの映画の原作はタイトル「ドライブ・マイ・カー」に他ならないが、エピソードはその短編集の「女のいない男たち」の他の作品からも使われている。
ちょうどコロナ禍の影響もあり、作品の企画自体を見直したという経緯もあったらしい。
けれども私は映画制作(それ自体)に興味はないし、できあがった作品で勝負するべきだと考えているので、そのあたりの詳細は他のサイトや書籍に譲ろう。

この映画の読後感は、「惜しい! もっと工夫すれば傑作になり得たかもしれない」ということ。
もう一つは「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」という映画にかなりテーマとして似通っているな、ということだ。

まず映画として三時間は長すぎた。
これはそれだけ密度があったといえば聞こえは良いが、冒頭の妻が死ぬ場面まではほとんど意味がなかったし、ばっさりカットしてしまってもテーマは伝わったはずだ。
そしてラストの北海道での家福の独白のシークェンスも不要だった。
涙を流すだけでも十分だったし、それを語らせる必要はなかった気がする。
あるいはさらにラストの韓国でのみさきのシーンがあるので、余計に不要だった気がする。

これらはすべて結局制作陣が観客を信じ切ることができなかったことが所以だろう。
想像に任せる、わからなければそれでいい、という態度を貫けなかった。

村上春樹の特徴の一つに、語りの粗密がある。
やたらと詳しく語るところと、ぜんぜん抜けてしまうところがある。
その対比(均衡)がうまいので、わかったようなわからなかったような物語になってしまう。
好き嫌いが生じるのはその気持ち悪さにあるのだろう。
作品の雰囲気をうまく映像化していたのに、肝心な点を思い切って読者に放り投げられなかったのが、この映画の大きな欠点だろう。

ということで、この映画のテーマは自分で自分の車を運転できるか、ということだ。
あるいは、盲目である自分の気持ちに気づくことができるか、ということだ。
原作と同じタイトルだが、映画のほうの「ドライブ・マイ・カー」は、明らかに命令形だ。
家福よ、自分で自分の車をしっかりと運転しなさい、ということだ。

飛躍があるので少し映画と同じく冗長気味に説明してみよう。

家福は妻が不倫していることを知っていながら知らないふりを続けてきた。
映画の場面は一度きりだが、実際には何度も妻の不貞の片鱗を感じていた。
だから家福は妻と生活をしているが、そして深く愛しているが、どこか演技をしている自分に気づいている。
それが、左目の緑内障というシンボルだ。
彼は自分が知らぬ間に盲目になっていることに気づかなかった。

しかし、気づかないままにいればいずれ失明してしまう。
それは「自分の気持ちを知ることができなくなってしまう」というメタファーだ。
この左目は、妻の音が語って聞かせた話に出てくる空き巣を殺したときにペンで刺す左目だ。
だから盲目になったのは妻の責任であるというメタファーでもある。

ラストで「僕は深く傷ついていた。自分の悲しみを受け入れるべきだった」というようなことを言うのは、次第に自分の心に蓋をして盲目になろうとしていた自分に気づいた、ということだ。
しかし、彼はそういう自分に気づかずにいた。

彼は自分の車を運転していたが、それは妻のカセットテープを聴くという形で自己暗示をしていたわけだ。
運転をしているつもりでも、実施には【見えて】いなかった。
その車は妻のものであって、自分の車ではなかったのだ。
しかし、運転手を雇うことによって自分で運転しない自分に気づく。
それは「まるで車の中にいることを忘れるような」体験だ。
そこで始めて次第に自分が盲目であったということに気づいていく。

もちろん、運転手のみさきも同じだ。
自分の車を運転しないみさきは、自分の心を吐露することはない。
なぜならこれは「お仕事」だからだ。
この映画の大半は車の中でのやりとりだが、運転する者はずっと自分の心を押し殺している。
自分の車ではない車を運転しても、自分の心にたどり着くことはできない。
この映画の車は、自分の心を象徴している。

家福と対比的なキャラクターとして、高槻がいる。
彼は妻の音と不倫していた。
だが、それは一時的なものであったのだが、高槻は音に惹かれていた。
音がしんだ後も音の陰を追うように、旦那の家福が企画する舞台に応募する。
しかし、家福がいうように「ワーニャ伯父さん」のワーニャを演じるには自分をさらけ出さなければならない。
(実際の作品がどのようなものかはどうでもいい。家福が(作品内で)そのように捉えているという点が重要なのだ)

その結果、高槻は自分をさらけ出す。
つまりその暴力的な部分を納めることができなくなり、犯罪を犯してしまう。
ここはやや飛躍があるように感じられるが、彼は自制ができなくなってしまったのではなく、彼の内面を演劇を通して見つめることで、その本質が現れてしまったと考えるべきだろう。
女性との関係をどんどん進められる高槻に対して、「女のいない男」である家福は、妻であっても彼女に踏み込むことはできなかった。

広島の公演準備の場面では、家福は終始バックシートに座っている。
しかし、高崎を送った後と、高崎が逮捕された後は、助手席に移る。
この席の移動が心の変化と連動している。
もちろん目薬をさすカットも同じだ。
自分の目を(心を)見えるようにするために必死に自分と向き合おうとしている。
それをわざと挿入しているわけだ。

家福は当初、運転席に座り、音の気持ち(本心)を探ろうと必死になっていた。
不倫していた姿と自分に愛を語る姿、どちらが本物なのかと。
しかし、北海道で見いだしたように、死んでしまった妻の心には迫りようもない。
大事なのは自分自身の心と向き合うことである、ということを悟る。
妻の車を運転していても、その車を他の人に運転してもらっても、妻の心には到達できない。
自分の車を、自分で運転しなければならない。

エンドロール前、みさきがサーブを運転していたが、あれは「お仕事」でもなければ「他人の車」でもなかった。
新しい韓国での生活をスタートさせたみさきは、自分のことばで語り、自分の車としてサーブを運転する。
その顔にはあざは消えている。
自分のこころに正直に生きることができるようになったからだ。

もう一つ、このシークェンスでは、皆がマスクをしている。
コロナ禍の撮影だったから、というのは意味のない指摘だ。
このコロナ禍であっても、自分を生きることはできる、自分の心を見つめることができる、という監督からのメッセージだろう。

だから、妻というベクトルから、自分の心へというベクトルを変化させるという物語が、この作品のテーマだ。
その点が「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」とすごく似ている。
だが、映画としての面白さは、こちらが遠く及ばない。
それは、冒頭の妻とのシーンがあまりにも「説明的」すぎたからだろう。

しかしそれでもおもしろい映画だ。
一つの演劇を多言語で見せるという設定はすごくよかった。
言葉の重層性と、コミュニケーション不全を演劇で(仕事で)大事にしながらも、それが自分に向いていなかったということを浮き彫りにする設定だった。
日本映画で、久々に「映画」を鑑賞することができた。


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