評価点:76点/2001年/日本
監督:佐藤信介
尾崎豊のファースト・アルバム「17歳の地図」をめぐる物語。
1985年、北海道。
彰子(仲間由紀恵)はレコードショップでかかっていたアルバムを、その店員・松岡(伊藤英明)から借りる。
数日後、二人はレコードショップの前で再びあう。
その時、松岡は自分の夢を彰子に語り、問う。
「夢に生きていこうなんて、甘いかな」
「そうは思わない。」と彰子は答える。
その後、彰子がそのレコードを返そうとレコードショップを訪れると、松岡は東京に引越ししたと告げられる。
二年後、進路に迷う彰子は、レコードショップに張ってあった松岡の写真を見て、
友人の哲也とともに東京のその店を訪れることにする。
尾崎豊のアルバムをモティーフにした作品。
公開当時、あまり話題にならなかったが、個人的にはとても観にいきたかった作品でもある。
「profile」にも書いているけれど、僕はとても尾崎豊が好きだ。
生前に発表されたアルバムは全て持っているし、関連の書籍もいくつか持っている。
そんな僕としては、「またまた、そんな映画なんて撮るなよ」と思ってしまう。
尾崎豊の音楽をみんなに聴いてほしいという気持ちはあるけれど、いたずらにブームを再来させようとはとても思えない。
「流行に乗らない」というのが、尾崎豊の音楽だと思うから。
▼以下はネタバレあり▼
それはさておき、映画の出来は、とても不安だった。
映画館に行かなかったのは、その不安を吹っ切ることができなかったからかもしれない。
そして、映画を観終わったあと、僕はかなりうれしかった。
率直に、うれしかった。
おそらくこの映画はそれほど評価されないだろう。
多くの人は理解できないで終わるのかもしれない。
けれど、尾崎ファンの僕としては、充分に納得できる出来だったと思う。
この映画は、尾崎豊のアルバム「17歳の地図」がキーワードになっている。
そのアルバムを借り、返すまでが物語である。
しかし、このアルバムは、殆んど背景のような描かれ方をする。
それは、「このアルバム下さい(彰子)」
「子どもにはわからないだろうな(松岡)」と言ったりするだけで、
冒頭では全く音楽をかけないし、尾崎豊という固有名詞も出さないことでもわかる。
この出し方が、僕はすごく上手いと思う。
それは映画全体のテーマとも深く関わっている。
アルバムを返すため、また松岡に再会するため、東京を目指した彰子らは、つぶれてしまったレコードショップ「シーラカンス」を見つける。
それでもあきらめきれない彰子は、届いていた催促状を下に、松岡を探しはじめる。
一方、松岡はレコードショップの失敗から、昼夜を問わずずっと働いていた。
彼は同じビルにいる、転勤を控えた友達に「そのままでいいのかよ」と
しきりに問いただしたが、彼自身は、「このままでいい」と考えるほど臆病になっていた。
彰子は、「シーラカンス」を立ち上げた松岡の友人を転々としていくうち、松岡が吉村という親友と恋人を取り合い、その後吉村がお金を持ち出したことを知る。
そして、松岡は夜中向かいのビルでディスプレイをするちえという女性に出会う。
ちえは、松岡のことを「俺はこのままでいい」という人間だと言い当てる。
このように、彰子は、大人になるために、「現実」を知っていく。
松岡は、昔の自分を見つめなおすために、「夢」を知っていく。
そのキーワードになるアルバムが、尾崎豊なのである。
よく人は「夢か現実か」という二者択一を迫られ、選択をする。
しかし、この映画の登場人物は、決して二者択一をしない。
「自分を好きでいられるか」という命題を持つのみである。
それはまさに尾崎豊が言いたかったことのひとつではないかと思うのである。
「卒業」のなかに、「生きるために計算高くなれというが、人を愛すまっすぐさを強く信じた」という歌詞がある。
この歌詞だけをみれば、夢のために愛のために生きていくことが人の生きる道であるかのように説いているように聞こえる。
しかし、尾崎豊はこんなことも言っている。
「束縛があるから自由を夢見られるのだ」
尾崎豊にとって、無責任に夢を見ろ、ということは夢を見るな、といっているのと同じだったのだと思う。
現実がクソだ、と歌う一方で、それでも「求め続ける」と歌ったのは、そのためだろう。
僕がこの映画を高く評価したいのは、その「責任」をきちんと捉えていると思えたからだ。
ただアメリカ映画のように夢がいい、愛がいいという映画なら、僕は酷評しただろう。
しかし、この映画に流れている哲学は、夢か現実か、という二者択一ではない。
夢と現実だ、という両者のバランスである。
映画の話に戻そう。
松岡の友人は、病気の妻を置いてアメリカへ転勤するという。
松岡が出会ったちえは、「世界中が私をきらいになってもいいの。私は自分が好きだから」という。
彼らは夢に生きているわけはない。
現実に虐げられているわけでもない。
また、映画のあと、松岡が「シーラカンス」を目指したとしても、実現するかどうかは全くわからない。
しかし、彼は現実の中に夢を見ることを捨てなかったのだ。
松岡は彰子に尾崎のアルバムを「子どもにはわからないだろう」といった。
それは同時に、「オトナにもわからない」ということだろう。
彰子がみた現実は、残酷なものであった。
「なんとなく」では生きていけない残酷さがあった。
彰子はこの出会いにより、アルバムにこめられた「夢」の意味を知り、そして孤独を知ったのかもしれない。
いずれにしても、彼女は「わからない」「子ども」ではなくなったのである。
この映画では、尾崎豊が直接的に描かれることは無い。
それは、尾崎豊の歌詞やメッセージを、額面通りに受け取っていない、という象徴でもある。
また、尾崎豊の歌詞の表層的な表現だけではなく、そのアルバムが存在することの「力」を描きたかったからではないか、と僕は思いたい。
また、尾崎が残したメッセージを問い直そうという監督の想いが、そこにはあるのではないだろうか。
こんなふうに僕と同じように尾崎豊を解釈していてくれる人がいて、ほんとうにうれしい。
最後に、この映画のタイトルは「LOVE SONG」である。
しかし、これは「恋愛の歌」ではなく、「愛の歌」だと解釈したい。
(2004/1/2執筆)
監督:佐藤信介
尾崎豊のファースト・アルバム「17歳の地図」をめぐる物語。
1985年、北海道。
彰子(仲間由紀恵)はレコードショップでかかっていたアルバムを、その店員・松岡(伊藤英明)から借りる。
数日後、二人はレコードショップの前で再びあう。
その時、松岡は自分の夢を彰子に語り、問う。
「夢に生きていこうなんて、甘いかな」
「そうは思わない。」と彰子は答える。
その後、彰子がそのレコードを返そうとレコードショップを訪れると、松岡は東京に引越ししたと告げられる。
二年後、進路に迷う彰子は、レコードショップに張ってあった松岡の写真を見て、
友人の哲也とともに東京のその店を訪れることにする。
尾崎豊のアルバムをモティーフにした作品。
公開当時、あまり話題にならなかったが、個人的にはとても観にいきたかった作品でもある。
「profile」にも書いているけれど、僕はとても尾崎豊が好きだ。
生前に発表されたアルバムは全て持っているし、関連の書籍もいくつか持っている。
そんな僕としては、「またまた、そんな映画なんて撮るなよ」と思ってしまう。
尾崎豊の音楽をみんなに聴いてほしいという気持ちはあるけれど、いたずらにブームを再来させようとはとても思えない。
「流行に乗らない」というのが、尾崎豊の音楽だと思うから。
▼以下はネタバレあり▼
それはさておき、映画の出来は、とても不安だった。
映画館に行かなかったのは、その不安を吹っ切ることができなかったからかもしれない。
そして、映画を観終わったあと、僕はかなりうれしかった。
率直に、うれしかった。
おそらくこの映画はそれほど評価されないだろう。
多くの人は理解できないで終わるのかもしれない。
けれど、尾崎ファンの僕としては、充分に納得できる出来だったと思う。
この映画は、尾崎豊のアルバム「17歳の地図」がキーワードになっている。
そのアルバムを借り、返すまでが物語である。
しかし、このアルバムは、殆んど背景のような描かれ方をする。
それは、「このアルバム下さい(彰子)」
「子どもにはわからないだろうな(松岡)」と言ったりするだけで、
冒頭では全く音楽をかけないし、尾崎豊という固有名詞も出さないことでもわかる。
この出し方が、僕はすごく上手いと思う。
それは映画全体のテーマとも深く関わっている。
アルバムを返すため、また松岡に再会するため、東京を目指した彰子らは、つぶれてしまったレコードショップ「シーラカンス」を見つける。
それでもあきらめきれない彰子は、届いていた催促状を下に、松岡を探しはじめる。
一方、松岡はレコードショップの失敗から、昼夜を問わずずっと働いていた。
彼は同じビルにいる、転勤を控えた友達に「そのままでいいのかよ」と
しきりに問いただしたが、彼自身は、「このままでいい」と考えるほど臆病になっていた。
彰子は、「シーラカンス」を立ち上げた松岡の友人を転々としていくうち、松岡が吉村という親友と恋人を取り合い、その後吉村がお金を持ち出したことを知る。
そして、松岡は夜中向かいのビルでディスプレイをするちえという女性に出会う。
ちえは、松岡のことを「俺はこのままでいい」という人間だと言い当てる。
このように、彰子は、大人になるために、「現実」を知っていく。
松岡は、昔の自分を見つめなおすために、「夢」を知っていく。
そのキーワードになるアルバムが、尾崎豊なのである。
よく人は「夢か現実か」という二者択一を迫られ、選択をする。
しかし、この映画の登場人物は、決して二者択一をしない。
「自分を好きでいられるか」という命題を持つのみである。
それはまさに尾崎豊が言いたかったことのひとつではないかと思うのである。
「卒業」のなかに、「生きるために計算高くなれというが、人を愛すまっすぐさを強く信じた」という歌詞がある。
この歌詞だけをみれば、夢のために愛のために生きていくことが人の生きる道であるかのように説いているように聞こえる。
しかし、尾崎豊はこんなことも言っている。
「束縛があるから自由を夢見られるのだ」
尾崎豊にとって、無責任に夢を見ろ、ということは夢を見るな、といっているのと同じだったのだと思う。
現実がクソだ、と歌う一方で、それでも「求め続ける」と歌ったのは、そのためだろう。
僕がこの映画を高く評価したいのは、その「責任」をきちんと捉えていると思えたからだ。
ただアメリカ映画のように夢がいい、愛がいいという映画なら、僕は酷評しただろう。
しかし、この映画に流れている哲学は、夢か現実か、という二者択一ではない。
夢と現実だ、という両者のバランスである。
映画の話に戻そう。
松岡の友人は、病気の妻を置いてアメリカへ転勤するという。
松岡が出会ったちえは、「世界中が私をきらいになってもいいの。私は自分が好きだから」という。
彼らは夢に生きているわけはない。
現実に虐げられているわけでもない。
また、映画のあと、松岡が「シーラカンス」を目指したとしても、実現するかどうかは全くわからない。
しかし、彼は現実の中に夢を見ることを捨てなかったのだ。
松岡は彰子に尾崎のアルバムを「子どもにはわからないだろう」といった。
それは同時に、「オトナにもわからない」ということだろう。
彰子がみた現実は、残酷なものであった。
「なんとなく」では生きていけない残酷さがあった。
彰子はこの出会いにより、アルバムにこめられた「夢」の意味を知り、そして孤独を知ったのかもしれない。
いずれにしても、彼女は「わからない」「子ども」ではなくなったのである。
この映画では、尾崎豊が直接的に描かれることは無い。
それは、尾崎豊の歌詞やメッセージを、額面通りに受け取っていない、という象徴でもある。
また、尾崎豊の歌詞の表層的な表現だけではなく、そのアルバムが存在することの「力」を描きたかったからではないか、と僕は思いたい。
また、尾崎が残したメッセージを問い直そうという監督の想いが、そこにはあるのではないだろうか。
こんなふうに僕と同じように尾崎豊を解釈していてくれる人がいて、ほんとうにうれしい。
最後に、この映画のタイトルは「LOVE SONG」である。
しかし、これは「恋愛の歌」ではなく、「愛の歌」だと解釈したい。
(2004/1/2執筆)
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