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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

デイ・アフター・トゥモロー

2008-11-09 16:32:35 | 映画(た)
評価点:60点/2004年/アメリカ

監督:ローランド・エメリッヒ

これぞ「ハリウッド映画」の真骨頂!

気象学者ジャック・ホール(デニス・クエイド)は、南極の調査をしていると、巨大な棚氷が崩壊する場に遭遇する。
学会でそれが未来に大きな異常気象を起こすと警告するが、副大統領は意に介さない。
しかし、ジャックの予想に反して、その棚氷の影響で、水面が13度も下がり、大雨や竜巻など各地で様々な異常気象を誘発する。
事態を重くみたジャックは、様々な気象データを分析しはじめる。
その結果、じきに北半球が巨大な低気圧に覆われ、その低気圧は一瞬で物を凍らせるという「氷河期」ほどの強烈な冷気をもった、非常に危険なものであることが判明する。

「ID4」のローランド・エメリッヒ監督の、話題作。
「あらゆる天災を描きたかった」という監督のコメントの通り、この映画では、ありとあらゆる天災が起こる。
このような大規模の天災を描くことができるようになった、CG技術の進歩には、毎回のように驚いてしまう。
しかし、「ID4」のように、そのCGだけで映画を成立させてしまうのは、もはや過去の話である。
飽きるほど、ディザスター・パニック映画が発表されている昨今にあって、一体どんな「進歩」や「見所」があるのだろうか、そんなことを考えながら観た。

▼以下はネタバレあり▼

期待通り、というのか。
不安的中、というのか。
はっきり言って、「新たな発見は何もない」映画であった。

パンフレットには、「観客に根本的な問いかけができるのが、ディザスター映画の魅力だ」と大きな見出しで監督のインタビューが載っている。
確かにその通りだろう。
「ディープ・インパクト」「ダンデス・ピーク」「ツイスター」「ヴォルケーノ」などなど今まで数々の災厄の物語があったが、この映画は、それら選考する映画の「問いかけ」以上の問いかけはない。

また、こうした自然の驚異を世界的な規模で描いた、「ディープ・インパクト」でみせたような人間ドラマを越えるような、
あるいは、違った形で見せるような新しい人間ドラマも、またない。

この映画にあるもの、全ては先に発表された映画の中に既にあるものばかりである。
そればかりか、その先に発表されたものさえ超えていないのではないか、とさえ思わせる。

物語の大きな筋が、「ダンテス・ピーク」となんら変らない。
主人公の科学者が危険を予知、行政責任者に警告するが、彼らはそれに取り合わない。
そして異常気象発生。多くの犠牲者が出る。
いくつかの困難に立ち向かい、危機を脱する。
そして最後に、「これは我々に対する警告です」という台詞で終わる。
「ダンテス~」に限らないとは思うが、僕の印象に残っている映画なので例としてあげた。
しかし、そんなことは問題にならないほど、紋切り型のストーリーである。
それがただ世界規模になった、という話である。

なぜ「ダンテス~」と比べるかと言うと、「ダンテス~」は一つの街の火山が噴火するという、きわめて「小さい」パニックを描いた作品であるからだ。
この「デイ・アフター~」も同じく、きわめて「小さい」世界で起こったパニック映画なのである。

アジア、ヨーロッパ、アメリカの北半球の大きな大陸が、全て被害に遭う世界規模の異常を描いているという設定ではある。
しかし、実際の物語は、どれだけ数えても三つの物語だけである。
ニューヨークのサム、ワシントンの大統領、ワシントンのピーターと看護婦ルーシー、この三つの物語しか殆んど描かれない。
それ以外は、ニュースであったり、思いっきり引いたカメラ・アングルからのCGであったりと、「物語」は描かれない。
世界規模であることを示すのは、巨大な低気圧を見つめる宇宙ステーションからの映像など、「物語」のないシーンからである。
だからどうしても狭い世界という印象をぬぐえない。
また、CGは評価するに値するが、それ以外の人間が演じているシーンでは、スタジオであることがあからさまである。
CGがすごいため、逆にスタジオである事が目立たされてしまっている。
余計に、「箱庭」という印象を強くしてしまうのである。
CGとスタジオしかない「世界」は、どうしても広さがないのである。

さらにその狭さを、紋切り型の演出、エピソードが拍車をかける。
例えば、伏線と本線の関係性。
オオカミ脱走 → オオカミ襲撃
ショッピング・モール → ガラス割れてロープ切る
図書館に逃げ込む → 本を燃やして「知」へのアイロニー
足を怪我する → 敗血症になる
などなど、あからさまな伏線が逆に展開の多様性や広がりを消してしまっている。

また、皮肉たっぷりの説教くさい、ステレオ・タイプの演出も「お約束」である。
「ハリウッド」を竜巻が襲う、自由の女神が凍りつく、先進国の多い北半球だけが被害にあう、大統領が最後まで実務に追われ脱出が最後になる
(注:その後に、一つの台詞だけで死んだことを告げるのは意外だった。ギャラなどのトラブルで出演拒否かなんかだろうか?)、
お約束の最後の演説、などなど、全てが「お約束事」で支配されている。
ここに意外性は全くない。
「ああ、いつものね」という「安心感」はあったとしても、そこに「ああ、やられた、うまい!」という感動的な演出はまるでない。
だから、狭い世界をより、無味乾燥な、新鮮味のない世界に仕立て上げてしまう。

人間ドラマも先ほど言ったように驚きがないので、感動できない。
また、感情移入する前に事件が起こってしまうため、一番盛り上がるシーンでようやく感情移入できる、というような、微妙なタイム・ラグがうまれてしまう。
特に、ショッピング・モールのシーンでは、かなり感動的なシーンなのに、「ヴァーティカル・リミットだね」ととても冷めた印象を与えてしまう(冷めていたのは僕だけではないはずだ)。

何よりも、人の「死」が描かれないのが痛い。
人の「死」が「物語」のなかで描かれる事がない。
極端な話、誰も死なないし、死んだとしても、その「死」の描写がない。
大統領にしても、フランクにしても、NYから南部に逃げ出した人々にしても、死んだことは示されるが、死んでいく様は描かれない。
だから、観客の心を動かさないのだ。
もちろん、死を描かないと感動させられない、という意味ではない。
そして、何でもかんでも死を描けばいいというものでもない。
しかし、他人の死を乗り越えてこそ、「明日」という希望があるはずである。
自己犠牲で命を落とした人も、その死が描かれない事によって、その意味が軽くなってしまっている。
「大量の死」しかない物語では、感情移入できない。
あれだけ多くの人が死んだはずの映画で、これほど死の描写が少ない映画もない。

肝心の異常気象についても、発生原理の説明があまりに少ないため、リアリティがなくなってしまっている。
だから、明日はわが身、という危機感が観客にせまってこないのである。
タイムマシン」でも言ったように、でたらめな設定でもいいから、それをある程度わかりやすい形で説明する必要がある。
そうでなければ、「とにかくそうなんだよ」というような押し付けを感じてしまう。
「塩分と潮の流れは密接な関係がある」という台詞に対して、「それは知っている」という相手の受け答えでは、いやいや、俺らは知らんから、というツッコミを入れたくなるのである。

モティーフとしては、非常に面白い。
一辺に起こったとしたら? という発想は、大いに買える。
しかし、そのアイデアや状況というものを活かしきれていない。
パール・ハーバー」の、「ゼロ戦の戦闘シーンがとにかく撮りたいんだ、だから物語を作ったんだ」という
「発想」とまでは言わないが、それに似た印象がある。
発想以外に、見るべき点は全くない。

ただ、一緒に観に行った友達はこんなふうに言っていた。
「なんかこういう映画みると、癒されるわ~」
なるほど、確かにハリウッド的な映画としての変な安心感はある。
これぞまさにハリウッド映画の集大成! と言えなくもない。

(2004/5/30執筆)

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