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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

アドレナリン(V)

2008-11-09 16:41:04 | 映画(あ)
評価点:45点/2006年/アメリカ

監督:マーク・ネヴェルダイン、ブライアン・テイラー

アイデア一本勝負。

殺し屋のチェリオス(ジェイソン・ステイサム)は、目覚めると、一枚のDVDがおいてあった。
再生すると、そこには自分が映し出されて強力な毒を打たれるシーンを目の当たりにする。
医者に連絡すると、その毒は猛毒で解毒剤以外で直す方法はなく、死に至る。
進行を遅らせるにはアドレナリンを出し続けるしかない、と言われる。
なぜ狙われたのかを探るために麻薬を打ちながら復讐を誓うが……。

まだ観ていない「トランスポーター」などによって一躍トップアクション俳優にのし上がったジェイソン・ステイサムの作品。
「ローグ・アサシン」くらいしか思い出せないけれど、この人の人気は急上昇中だ。
タイトルと、設定を見る限り「B級映画」丸出しだったけれども、とにかく観てみようと思い、借りた。

ヒロインには「バタフライ・エフェクト」のエイミー・スマート。
やっぱりかわいいですね。彼女は。

▼以下はネタバレあり▼

アドレナリンを出し続けないと死んでしまう、というアイデアはとてもおもしろい。
それはずっと興奮状態に置かなければならないということであり、映画的には、ずっと見せ場が続くことを意味するからだ。
ある意味では監督や脚本たちに対するストイックな「課題」とも言える。
ずっと見せ場を作って観客を引っ張っていく、いわゆるクリフハンガーの映画であることを、タイトルが宣言しているのだから。

問題はその志やアイデアを生かし切れていないという点だ。
どう考えても荒削りな、アイデアのみで勝負するような映画になってしまった。

冒頭から、きっと多くの人が不安に駆られたはずだ。
それは物語上の設定によるものではなく、むしろ、画面の揺れによる。
意図的にだとは思われるが、画面が激しく揺れる。
あるいは、特殊なカメラで撮影されたのか、不安定な画面構成が多い。
よって、単純に見にくいし、疲れてしまう。

これは僕は意図的だと思っている。
画面がいつもと違うのは、主人公が置かれている状況を示唆している。
つまり、常にアドレナリンを出し続けるという不安定な状態、いつもとは違うような酔ったような状態を演出したかったのだろう。
それは納得できる。

だが、それに一貫性がない。
ただ気分が悪くなるためだけなら、そんな小手先の演出は不要だったのではないか。
あるいは要所要所だけで良かったような気がしてならない。
でないとストレスが大きすぎる。

一貫性がないのはそれだけではない。
結末である。
それまでの展開は、悪の限りを尽くしてもかまわないという強力な反体制の考えが映画を支配していた。
腕を落とすは、路上でやるは、生きるためには手段を選ばない主人公に感情移入させようと必死になっていた。
しらふである観客は、大いに違和感を覚えたはずだ。
そこまでやっていいんかい! という突っ込みは数知れずである。
その意味で勧善懲悪の既存の考え方を壊したい、それこそが「アドレナリン」なのだといわんばかりだった。
にもかかわらず、ラストでは勧善懲悪に成り下がってしまう。
つまり、悪の限りを尽くした主人公が死んでしまう。

悪を肯定する映画なのか、悪を否定する映画なのか、さんざん観客をつきあわせた挙げ句、手を引いてしまう。
まるで、はしごを登らせるように促していたのに、登りきったとたんにはしごを外すような、そんな裏切りだ。
アドレナリンを主人公ととともに出し続けていた観客は、一気に突き放されたような虚無におそわれる。
それはカタルシスとはほど遠い。

常に興奮状態に置くという、ストレスフルな展開なのに、その結末だとあまりにエイミー・スマートが不憫だ。
彼女は待ち続けるだろう。
彼が生きて戻るのを。

僕が観客で、映画館で見たとしたら、脱力感でしばらく立てないだろう。
あまりに自分勝手に展開させた、監督たちに。

けれども、それ自体が、この映画の狙いだったのかもしれない。
中途半端だとするか、そのズラシこそが最高の「異化」とするか、きわどいところだ。

僕はおもしろくなかったけどね。

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