secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ドーン・オブ・ザ・デッド

2008-11-09 16:25:47 | 映画(た)
評価点:77点/2004年/アメリカ

監督:ザック・スナイダー

名作「ゾンビ」のリメイク作。今度のゾンビは走ります。

ナースのアナ(サラ・ポーリー)は、いつものように夫と共にベッドに寝付く。
夫の絶叫で目覚めたアナは、ルイスが隣の家の娘ヴィヴィアンに襲われているのを目の当たりにする。
驚いたアナは、ヴィヴィアンを引き離し寝室のドアを閉じて、ルイスを救出するが、今度は、そのルイスが彼女に襲い掛かってくる。
なんとかルイスを振り切り車に乗ると、街中が混乱の中にあった。
道中に出会った警察官のケネスらと共にショッピング・モールに逃げ込んだ5人だったが、そのテレビに映し出されていたのは、次々と生きた死体が人々を襲う、地獄絵図だった。。。

子どもの頃、近所のお兄ちゃんたちに「騙され」て初めてみた「ゾンビ」。
僕は、その衝撃が未だに忘れられない。
そして、「1」「2」とやり込んだ「バイオ・ハザード」。
やはりどんなホラー映画よりも、身に迫ってくる恐怖感が大きい。
そして、この「ドーン・オブ・ザ・デッド」は、僕の期待を、完全に「恐怖」と「興奮」へと変えてくれた。
「非常に面白い」。それでこの映画を語るには十分すぎる。

▼以下はネタバレあり▼

ストーリー展開は、非常にありきたりである。
ゾンビに襲われ、閉鎖的な環境に逃げ込み、そこもやがて囲まれて、脱出を試みる。
使い古された、陳腐な展開ではある。
しかし、それを上回る恐怖感が、この映画にはあるのである。
それはゾンビが襲ってくるという「生」の恐怖である。

先を読む楽しみが、昨今のホラー映画にも浸透してしまっている。
アザーズ」などはその典型だといっていい。
あの衝撃のラストがなければ、映画の評価は間違いなく下がっただろう。
また、「ホーンテッド」という少し前のホラーも観に行ったが、こちらは、全く怖くなかった。
それについての詳しいことは、また書きたいと思うが、その理由は、「生」ではなかったからである。
もちろん、その「生」とは、人間という「生」さのことである。
CGで作られた恐怖(或いはその対象)は、こちら(観客)側に迫ってこない。

この「ドーン~」はそうではない。
こちら側に迫ってくるほどの、「生」の恐怖なのである。
もちろん、CGを使っていないわけではない。
引いたアングルなどは、違和感があるほどにCGを使っている。
(それは間違いなくマイナス点。閉鎖感をもっと出すなら引いたアングルは要らなかった。)

しかし、襲ってくるゾンビは、さっきまで生きていた事を容易に想像させるほど、正に「生きている」。
そして、その恐怖は、先の展開などどうでもいいと思わせるくらい、その瞬間、瞬間に襲ってくるものなのである。

「恐怖」を感じさせるために、いくつかの手法がある。
例えば、突然化け物などを出すことで観客をびっくりさせるという手法。
シックス・センス」で観客をビビらせたのは、このびっくりさせるという手法の繰り返しによって、観客を不安定な心理状態にもっていった。
また、残酷描写によって、観客に「死」の恐怖を与えるという手法もある。
「エクソシスト」なんかは、この残酷描写で成功したタイプだろう。
なにせ、女の子の首が回るのだから、観客は恐怖を感じてしまうのである。
そして、所謂パニック映画としての手法である。
原因不明、もしくはその原因を取り除く手段を持たない登場人物たちが、いかにしてその状況を打開していくか、という状況の中で感じさせる恐怖である。
「エイリアン」の一作目などがこの手法によっている。
(註:「2」はまた少し違う質の映画になっている。)

本作は、最後のパニック・ホラーに属する。
主人公たちは、最初から最後までその原因を取り除くすべを持たない。
彼らは否応なしにトラブルに遭遇し、そしてそのトラブルから脱出するための手段を実行に移していくだけである。
残酷描写も、あるにはある。
冒頭の少女ヴィヴィアンが襲ってくるシーンなどは、残酷に描いている。
また、一人一人(?)のゾンビのメイクも抜かりはない。
しかし、恐怖をあおる殆んどは、パニック・ホラーとしての恐怖感であり、絶望的な状況が恐怖を与える。
残酷描写は、その恐怖を増徴させるためのスパイスに過ぎない。

このあたりで、ホラーに何を求めるかによって好き嫌いがうまれそうだ。
ホラーとは残酷描写である、と自負するマニアにとっては、「怖く」なれなかったかもしれない。
僕は残酷描写よりも、こちらのほうが「怖く」なれるので、僕にとっては、正に恐怖のかたまりだったのである。

エイリアン」のリドリー・スコットは、映画評論家から、「人物描写が不十分」という批判を貰ったらしい。
この映画も、そうした批判をいただくかもしれない。
というのは、登場人物全体が、〈方法論〉的な人物形象しか与えられていないからである。

〈方法論的な人物形象〉とは、言い換えれば、ドラマを盛り上げるための人物描写しかない、ということである。
例えば、妊婦ルダとその夫アンドレの一連のエピソードは、非常にわかりやすく、感情移入しやすいように描かれている。
「俺はワルだった。だけどうまれてくる子どものために頑張りたいんだ」
「妊婦がいるんだぞ!」
「大丈夫、ルダは元気だよ」
「女の子だ……」
彼の言動一つ一つが、妊婦のために仲間を裏切ってしまう、という先の展開の伏線になっている。
逆に言えば、全ての言動が、伏線となるためだけに用意されているのである。
だから時に違和感を生む。
例えば、トイレで警察官のケネスに言う娘への愛情は、彼にしては「素直」すぎるのである。

それは全ての登場人物についてもいえる。
とんでもないメに遭わされながら、クールに「チームワークのいい連中だ」などと言ってのけるインテリ風のスティーブは、後に裏切る事を暗示する。
冒頭のヴィヴィアンの愛くるしい姿を見せるのもそう。
後にゾンビになるという伏線に他ならない。
CJの「フォア・ザ・チーム」への心理変化も、「エイリアン2」の換気口で手榴弾のピンを抜く戦士のように、戦死してしまうことの伏線である。

このように、全てが一人一人の結末への伏線になっている。
その意味では、非常に丁寧に作られている。
伏線(予兆) → 本線(結末)という綺麗な展開になっているのである。
特に、上手いと思えたのは、冒頭のテレビに映る「緊急事態発生」という臨時ニュース。
これは、どんどん悪化していく情勢をたくみに、示唆している。
しかし、これもやはり「わかり易すぎる」。

「人物描写がたくみ」なのではなく、「人物描写があざとい」のである。
だから、感情を次に引きずることがない。
ものすごく「切り替え」がはやい人物がそこに存在する。

それは、この映画がエンターテイメント性を前面に押し出していることと、無関係ではない。
全ては観客を楽しませるため、である。
残酷描写が少ないのも、多くの人に楽しんでもらうための配慮だろう。
また、アメリカでも残酷描写についての自主規制の流れがある。
前作のマニアに通用するような映画ではなく、皆に楽しんでもらえるような映画にしたのであろう。

僕は、それはそれでよかったと思う。
というのは、マニアもニヤリとするような演出があったからである。
屋上からゾンビ射撃を楽しんでしまうブラック・ユーモアにあふれる場面や、決してハッピー・エンドに終らせない悲壮感など、一連のゾンビ映画を踏襲している流れがあるからである。
(そもそも、僕はマニアでもないしね。)

「生」のパニック・ホラー。それがこの映画の肝であり、それにノレるかノレないかが、本作の評価の分かれ目だろう。
すくなくとも言えることは、見終わったあとに示唆的なことはなにも残らない、ということである。
(それでも構わないとは思うけれどね。)

ゾンビ化することは、人間社会の象徴的な恐怖である、とそんな事も考えた。
ゾンビ映画が支持される理由の一つに、都市化してしまった人間社会ということが言えるだろう。
都市とは自然界から見れば非常に特殊な空間である。
人間以外いないという空間なのである。
同種族以外にいない広大な空間、そんな空間は人間の作った都市にしかない。
そんな人間が描く一つの「たられば」の欲望。
この平和な空間が、一変戦場と化したら、という人間の潜在的な欲望なのである。
もちろん、それは「敵」を求め続ける生物のサガでもあろう。

そして同時にそれは、人間は全て敵なのだ、という疑心暗鬼にも似た対人恐怖でもある。
自身以外は皆、「生ける屍」である。
隣人を、合理的かつ正当な理由で撃ち殺す理由 = ゾンビ化。
そこには単なる「悲しみ」だけではない、「撃ちたい」という一つの願望もあるのではないか。

そう思い描いてしまう人間の潜在意識にこそ、本当の〈ホラー〉があるのかもしれない。

余談だが、主人公のサラは、「死ぬまでにしたい10のこと」に主演していた女優、とポスターに書いてあった。
確かにゾンビに襲われるまでに何がしてみたいか、考えておくのは、あながち愚かなことではないだろう、と思ってしまった。
例えば、「ゾンビ化したらどうしてほしいか伝えておく」とか。

(2004/5/27執筆)

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