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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

インサイド・マン

2009-06-21 11:05:11 | 映画(あ)
評価点:73点/2006年/アメリカ

監督:スパイク・リー

あと「もう少し」の上乗せ。

ダルトン(クライヴ・オーウェン)は、ニューヨークのマンハッタン信託銀行に四人で強盗に入る。
人質を地下につれていきなり着替えさせ、全員同じ犯人の服装をさせる。
警察がいち早く事件に気づき、包囲する中、彼らは「ジェット機とバス」を要求する。
刑事たちは、相手の動向を探りながら交渉を進めていくが、状況は改善しない。
そんな中、敏腕弁護士ホワイト(ジョディ・フォスター)が呼ばれ、銀行の支配人であるアーサー・ケイス(クリストファー・プラマー)は、押し入られた銀行の貸金庫に絶対に触れられたくない物があり、それを守って欲しいと告げられる。
こうして三者の攻防が始まるが……。

人質に犯人の格好をさせる!
という何とも魅力的な設定につられて観てしまった。
デンゼル・ワシントン、ジョディ・フォスターと有名どころを取りそろえた本作は、かなりの完成度である。
僕の活動地域ではあまり上映されていないことが残念だが、観に行っても損はない出来だ。
特にミスディレクションの映画や、犯罪映画が好きな人にはたまらない映画である。

逆にややこしい映画が嫌いな人には向かない。
脳内トレーニングと思って謎の解明に挑戦してみよう。
さすが「25時」のスパイク・リーである。
 
▼以下はネタバレあり▼

いきなり意味ありげな独白から始まる。
「俺の名前は……」
「ここはどこか?」
「俺は銀行強盗をする。理由は簡単だからだ」
などと、狭い密室から独白する男は銀行強盗を予告する。
しかし、具体的にそこがどこなのか、どういった手口なのか、全く説明はない。
これは映画的な伏線にすぎない。
観客はこのシーンを観て、推理することになる。
この映像はいつの時点なのか。
その手口とはどういうものなのか。
何より、刑務所に似た暗い部屋はどこなのか。

この冒頭が終わるとすぐに事件から始まる。
四人の銀行強盗犯が、いきなり押し入り、人質に覆面させる。
非常に手並みが鮮やかでスムーズに進む様子から、緊迫感が急に高まっていく。
ここからは警察と銀行強盗犯とのやりとりが中心の展開となる。

リアルタイムに進みながらも、所々に挿入されるシーンでは、デンゼル・ワシントンが救出された人質に対して取り調べを行っている。
リアルタイムで起こる事件を追いながら、すでにその時間軸は「過去」のものとして扱うシーンが挿入されるわけだ。
観客はこの演出により、ますます謎が深まっていく。
どうやって事件をやり遂げたのか、と。

犯行の模様が事細かに提供されるわりには、犯人達の思惑が一向に見えてこない。
倉庫の中で穴を掘ったり、金庫にあったお金に座り込んだりするものの、結局犯人は何を盗もうとしているのか、あるいはどうやって切り抜けようとしているのか、見えてこない。
すべてを見せているようにみえて、実は巧みに情報制限されているのだ。
しかも、犯人達が相談する様子を見せないことにより、計画の全貌を覆い隠してしまう。
観客が参加できるような展開でありながら、全く先読みできないのは、犯人達の目的をひた隠しにしたからだ。

逆に警察官の方はあの手この手で犯人達をおびき出そうと考える。
その様子を逐一見せてくれるので、余計に犯人への謎が深まる。
しかも、刑事達には感情移入させるように、様々な裏情報や、思惑などを事細かに描いていく。
観客は、両者共にのぞける状況にありながら、犯人がどのように欺くかよりも、どのように犯人達を捕まえるかに注目させられる。

その両者に割ってはいるのが支配人のケイスである。
彼は弁護士のジョディー・フォスターを呼びつけ、絶対に触れられたくないものがあるから、それを守るように取りはからってもらいたい、と依頼する。
これによって、犯人対警察という対立に微妙な要素が加わり三つどもえになる。
その銀行にまつわる秘密が明らかにされはじめたころから、映画的な敵―味方という対立が揺るぐ。
つまり、一方的に犯人グループが悪かった映画的な位置づけが、銀行創始者であるアーサー・ケイスの闇の部分を明らかにすることによって、ケイスが悪の位置づけにスライドする。
結果として、その映画的な位置づけの変化によって、犯人の哲学(犯行目的)を明らかにし、犯人側の正義さを示すことになる。

簡単に言えば、「悪もん」ぽかった犯人達が、「ええもん」になることによって、犯人達が勝つことを暗示するのだ。
結果として犯人は勝ち、しかもケイスは窮地に立たされることになる。
このあたりのすり替えは見事だし、完全犯罪を成立させた経緯は巧みだ。

結局犯人達は二重のトラップを敷いていたのだ。
一つは人質に犯人の覆面を着せることによって、自分たちの存在をわからなくさせたこと。
しかも上手に自分たちも人質のような扱いを意図的に受けることで、誰が犯人で誰が人質か、人質たちにもわからなくさせたのだ。
時々挿入されていた取り調べの様子はその伏線になっている。
主犯のダルトンのみが声を発し、指示するため、彼さえ隠せてしまえば人質か犯人かを錯覚させることは容易だったのだ。
これは、劇中の人質だけではなく、僕たち観客への「だまし」でもある。

そしてもう一つは盗んでも記録に残らないものを盗んだということだ。
人質を全員無事に帰し、全く誰も危害を加えない。
しかも、銀行が公に出来る被害もない。
盗まれたのは公表できない個人的な財産だけだ。
それなら被害届が出ないため「事件」にならない。
しかも犯人が雲隠れするという警察的には大失態を演じている。
迷宮入りにしてしまうのが、一番手っ取り早く、体面を保てる方法だ。

この二つの計画により、完全犯罪を完遂したのだ。
その中で重要になったのが、「インサイドマン」、つまり内側の男である。
主犯格が倉庫に隠れることによってほとぼりが冷めてから堂々と出ていく。
これで完全に犯人は探せなくなってしまう。
途中で意味ありげに穴を掘っていたのは、トイレを流すための下水だ。
どれだけ食料をため込んで潜んでいても、トイレだけは臭いが出てしまう。
そこで、穴を掘って簡易のトイレを作っていたのだ。
この伏線は誰も暴けなかっただろう。

ただ、本当にそれが可能かどうか、疑問ではある。
いくら倉庫でも一畳以上も狭めてしまうのだ。
従業員が「なんか狭い」と感じても不思議ではない。
説得力を増すためには劇中そういうシーンも入れて良かったのかもしれない。

以上のようにこの映画はかなり巧みに、緻密に作られている。
一つ一つのシーンに無駄は一切ない。
時間軸をあえてずらした取り調べも、三者の争いにした理由も、全ては犯人達の「勝ち」を演出する為のものだった。

だが、映画を見終わった後得られるカタルシスは、同じようなミスディレクションを利用した映画「ユージュアル・サスペクツ」に遠く及ばない。
なぜだろうか。
それは犯人が「覆面をしている」からだ。
犯人たちが映画的な自己肯定するべきお膳立てはそろっている。
だが、彼らがなぜそれが可能だったのか、あるいはどういうモチベーションでそれを行ったのか、という内面的な伏線や設定が皆無だったのだ。

だから「ああやられた」というよりも、「ああなるほどね」という印象の方が強い。
感情に訴えるようなミスディレクションではないからだ。
その点、刑事を通してひっくり返させる「ユージュアル・サスペクツ」は、「やられた」感が強い作品だったのだ。

誰にでも勧められる安定感のある作品だが、僕としては、もう少し。
この「もう少し」が、実はめちゃ難しい注文なのだろう。

(2006/7/2執筆)

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