secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

武士の家計簿

2010-12-09 21:11:31 | 映画(は)
評価点:53点/2010年/日本

監督:森田芳光

現代の日本を象徴するような邦画。

幕末の江戸時代、金沢城で「算用者」として城の経理を担当する部門に代々使えていた猪山信之(中村雅俊)とその子直之(堺雅人)は、慎ましい生活を送っていた。
ある日、金沢城主からのお救い米を巡る騒動に巻き込まれた直之は、自らの足でその不正を暴こうとしたが、上司に咎められ口をつぐむことにする。
結婚を控えていた直之は、その実直な性格が災いして、能登へ飛ばされることになる…。

実際に残っていた武士の家計簿を元に構成されている「異色時代劇」。
主人公の算用者に堺雅人を起用し、その妻役には仲間をあてている。
どちらも映画にドラマにと引っ張りだこの二人で、派手な映画ではないが、映画を引き締めている。

予告編は随分前から流れていて、スタイリッシュな印象を受ける一方、結局どういうストーリーなのかイマイチ見えてこない。
大きな不安と、「そろそろ映画観ないとここのアクセス数も下がる一方だし」という焦りを抱えて二日酔いの頭を抱えて映画館に向かった。

▼以下はネタバレあり▼

まさに邦画、まさに日本。
そういう映画に仕上がっていて、非常に残念である。
なんとも、邦画の閉塞感と、現代の日本を余りにも上手く描かれているので、終盤は眠ってしまった。

どの当たりが邦画的、日本的、現代的なのか。
まず家計簿という考え方そのものだ。
そもそも家計簿の目的は様々だが、それは手帳に似ている。
自分の生活を見つめ直すための、あるいはそれを元にして計画的に過ごしていくための羅針盤となるものだ。
記録することで、自分の生活を律するという考え方は、まさに現代の日本人が最も不得意としていることだろう。
先日、何かのニュース番組で手帳の達人なる人たちの特集が組まれていた。
何を食べたか、いつ寝たか、そして恋人との関係をどうしたいのか。
見ていて異常に感じたのは僕だけなのかもしれないが、そのストイックさには頭が下がる。
自分について、いかに客観視するか、自分生活を記録していくか。
そういう病的な要請が現代人にはあるらしい。
だから、猪山家が家計簿をこまめに付け、それを子供にも要求するのは、生きる術だったからというよりも、ちょっと違う気がする。
それを敢えてこの時期に取りあげたのは、興味深い。

また、この猪山直之という人物がまさに現代を象徴するように設定されている。
徹底した算用者で、曲がったことが嫌い。
世渡り下手で、算用しか興味がない。
世渡り上手で、打算的な軟弱者しか居なくなった現代日本で、失われた全ての要素を持っているわけだ。
借金がわかると彼はその性格を爆発させ、家財道具の一切を売り払ってしまう。
どこかのバラエティ番組を見ているかのような貧乏暮らしをして、観客にも倹約は美徳、と言わんばかりに勧めてくる。
なにせ、「工夫と思えば」とまで妻に言わせてしまう始末だ。

しかし、もっと問題なのは、この映画に始まりと終わりがないということだ。
設定は幕末でも、物語がなかなか始まらないし、終わらない。
結局大きな山場もなく、そのままなし崩し的に終わってしまう。
日常を淡々と描いていくだけで、そこに多少の笑えない笑いがこめられるだけで、何にもない。
斬り合うのが時代劇だとは思わないし、感動がなければ映画でないなどと言う気は毛頭無い。
けれども、そこに物語がないのなら、映画として成立しがたい。
息子の下手な語りが終始挿入されるが、なぜ息子が語るという構造をとったのかさえ、よくわからない。
見終わって感じることは、結局何が言いたかったのだろう、というテーマ不在の徒労感だ。

家族の交流?
それならただのホームビデオだ。

終始展開するのは、どこかでみたことがあるような設定やシークエンスばかり。
お役所仕事や倹約、父子との対立、厳しい教育、何から何まで、〈同化効果〉のみを狙った、陳腐でチープなエピソードばかり。
どこかで聞いたことがある、ある意味安心感のある展開に、満足する人もいるのかもしれない。
あまりにも陳腐すぎて笑えない笑いを積極的に狙ってくるあたりが、見ていてイラっとするのは僕だけだったのかもしれない。
観客の年齢層は高く、所々で笑いが起きていた。
僕はその安定した展開に安住して冒険に出ない監督に、イライラさせられるばかりだった。
それは冒頭のテロップで登場人物名を説明しようとする安直な態度にも象徴されている。

新たな知見やおもしろみを見いだそうとすることなく、とりあえず映画を作りました、これくらいで十分あなたたちは楽しめるのでしょう? と馬鹿にされているのではないかと疑うほどだ。
その映画のあり方そのものが、現代邦画業界のあり方そのもののような気がしてならない。
それなりの展開で、それなりの映画を作れば、それなりの収益がある。
そこには商業的に売り出し続けなければならないという意図が見え隠れする。
勿論、儲けるなということではない。
ただ、メッセージ性のない映画を、僕は〈表現〉であるとは考えない。
「異色」ではなく「無色」時代劇だ。

結局、全てにおいて日本映画の汚点を描ききってしまったように思う。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 映画という表現、批評という営み | トップ | ノルウェイの森 »

コメントを投稿

映画(は)」カテゴリの最新記事