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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

めぐりあう時間たち

2008-11-09 16:17:14 | 映画(ま)
評価点:83点/2003年/アメリカ

監督:スティーヴン・ダルドリー

アカデミー賞主演女優賞(二コール・キッドマン)受賞作品。

物語は1941年、ロンドン郊外リッチモンド、小説家ヴァージニア(ニコール・キッドマン)が自殺してしまうところから始まる。
時はさかのぼり1923年、ヴァージニアは重い筆が動き始めた。
その小説(「ダロウェイ夫人」)は、ある女性を主人公とし、ある朝から始まる物語だった。
1951年、フィラデルフィアのローラ・ブラウン(ジュリアンムーア)は夫の誕生日の朝、息子とケーキを作り始める。
彼女の傍らには小説「ダロウェイ夫人」があった。
2001年、ニューヨーク。目覚めたクラリッサ・ヴォーン(メリル・ストリープ)は、詩人リチャード(エド・ハリス)の授賞式のための花を買いに行く。
そうして時代を隔てた三人の女たちは、それぞれの特別な一日を迎えるのだった。

2002年のアカデミー賞作品賞はこちらの作品ではないか、という呼び声も高いという。
確かに完成度は高い。
しかし、一般ウケするかどうかは、疑問が残る。
むしろ、全ての人が共感できないところに、この映画がすごさがあるのだろう。
この映画がいいかどうかの個人の評価の分かれ目は、感覚的に主人公に感情移入できるかどうかだ。

▼以下はネタバレあり▼

三つの女性の話が三つ編みのように絡み合い、それぞれ独立しながらも関係しあうという形で構成されている。
物語はそれぞれの朝から始まり、そしてやがて夜へと展開されていく。
「ダロウェイ夫人」というヴァージニアが書いた小説が、それぞれの一日のプロット的なつながりを持ち、描かれる。
物語自体が難しいというよりも、その「一日」にいたるまでのそれぞれの人生(経緯)が、示唆的にしか提示されないために、それぞれの主人公に感情移入しにくいので、この作品が「難しい」と思ってしまうのだろう。

ニコール・キッドマン扮するヴァージニアは、都会の生活に疲れ精神的なバランスを失ってしまった小説家。
二度の自殺未遂も経験している。
医者の勧めで田舎のリッチモンドに引っ越してきた。
心配した夫の取り計らいで田舎に引っ越してきたのだ。
常に小説を書くことを意識して生きているためか、姉のネッサにも奇異の目で見られている。
召使を恐れてしまうほど人間になじめない性格を持っているが、彼女としては、都会という喧騒の中で身を置きたいと思っている。
極度に人を恐れるが、その大きさと同じだけ人恋しいと考えている。

ジュリアン・ムーアのローラは、裕福ではないが、子供がいて、夫もいるという恵まれた環境にいる。
しかし、彼女もまた人生に「生」を見出すことができていない。
妊娠中であるためか、少し憂鬱な状態であり、「ダロウェイ夫人」という小説を読んでいるのもそのためだろう。
夫との関係性を証明するためにケーキを作るが、不器用な彼女はうまく作ることができない。
それはあたかも夫を愛していないということを暗示するかのようだ。
生を感じられない彼女は、ホテルで自殺しようにも自殺できない。
自分の可能性を捨てきれないのだ。
「いつでも死ねる」、それは「いつまでも死ねない」ことと同義だ。

メリル・ストリープは雑誌の編集者クラリッサ・ヴォーンを演じる。
昔愛したリチャードは、ローラの息子であり、エイズに感染しながらも詩人として認められ始めている。
そんな彼を世話し続け、かつて実感として味わった本当の幸せを探し続けている。
人工授精で子供を生み、母親となったが、やはり男性を愛することができず、
サリーという女性と同棲生活をおくる。
過去の幸せをまぶしすぎる思い出として胸にしまっている彼女にとって、現在はそれを確認するための時間に過ぎず、
それを理解しているリチャードは彼女の世話になることで、彼女の「慰め」につきあっている。

彼女たちに共通しているのは、「女」ではないということである。
ここでの「女」とは、男性に対しての「女」であり、社会的に求められている一般的な「女」である。

周りは彼女たち三人を「女」として扱おうとする。
だから、精神病を治したり、ケーキを作るように「要求」したりする。
しかし、彼女たちが求めているのは、「女」としての一般的な理想ではない。
その象徴として、三人とも同性愛という共通項を持っている。
(ここで注意が必要なのは、彼女たちが同性愛であったとしても、それは「象徴」としての意味しかない。言い換えれば、モティーフ(=題材)としての「同性愛」である。「同性愛」というテーマ、「精神病」というテーマの作品ではないのである。そもそも、ヴァージニアにとってそれは、「病」ですらなかった。)

よき妻、よき母、よき恋人。三人はそう生きるように周りから要請される。
彼女たち自身も、そう努力する。
しかし、本当の、彼女たちの求める幸せは、そういった一般的な「理想」とはかけ離れていたのである。

この物語はニコール・キッドマンの死で始まり、メリル・ストリープが手にする「答え」で終わる。
リチャード(エド・ハリス)との過去の関係性や、それぞれの細かいいきさつに対して過剰な神経を使うと、おそらく感情移入する前に終わってしまう。
三つの時間軸を同列的な軸として捉えると混乱するだろう。
プロットとしては、ローラとクラリッサ、特にクラリッサの軸が一番大きく、それらを包む、もしくは操るのがヴァージニアの軸になっている。
それぞれの悩み、それぞれの物語が、同列的に提示されるので戸惑うかもしれない。

メリル・ストリープが手にした「答え」とは、自分自身の「幸せ」をきちんと見つめる事である。
彼女は、ずっと「言い訳」している。
リチャードの面倒をみることで、自分自身を納得させ、喪失した自分に「言い訳」しているのである。
だから、新たな出発に踏み切る事が出来ないで、幸せは「過去」の中に閉じ込められたままなのである。
それを直感的にわかっているリチャードは、彼女を解放するために死を選ぶ。
それは同時に、自分の母親への理解でもある。
捨てることでしか得られない「幸せ」が存在する、という理解である。
そして、リチャードもまた、普通ではない「幸せ」像を描いていたのであろう。

「幸せ」は非常に個人的なものである。
人によってその差は大きく違う。
「普通」といわれている事が、「幸せ」でない場合もあるのである。
ヴァージニアはそれを手に入れることができなかった。
だから「ダロウェイ夫人」という小説にしたのである。

自分の「幸せ」と、その「普通」と呼ばれる「幸せ」が一致するような人には、理解しがたい映画かもしれない。
しかし、少しでもそれに疑問をもった経験のある人なら、きっと涙がこぼれるだろう。
また、語弊があるかもしれないが、この映画は、若い人や男性には共感できない映画かもしれない。
僕も、おそらく完全な共感はできていない。(点数が低めなのはそのため)
だからこそ、何度も観たいと思う。
そして観てほしいと思う。

「なんだ、この映画のどこがオスカーなんだ!」と思う人がいるなら、これを読んだあと、もう一度観てほしいと思う。

最後に、邦題と音楽について。
この「めぐりあう時間たち」という邦題は、非常に気に入っている。
上手い邦題だとおもう。
「the hours」という原題よりも、僕はいいタイトルだと思っている。
また、美しいピアノの旋律を基調とする焦燥感と不安感をあおる音楽が、この映画の隠れた功労者だと僕は思う。

(2004/5/23執筆)

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