新入社員や部下に求められる資質として、様々ある要素の中で、重要なものの一つが、主体性であるらしい。
言われてから動く、指示を待つ、言うとおりにする、という態度よりも、自分から考えて動ける人が重宝されるらしい。
そう言われてみれば、確かにそうなのだろう。
だが、私はこういう言葉ほどプロレタリアートが奴隷のように搾取されている姿をイメージさせる。
主体性というのは結局労働者を言いように解釈して働かせるための装置として機能してしまっているのではないかと疑ってしまう。
主体性とはなるほど聞こえが良い。
しかし、その実体は、経営者たちにとっての、都合の良い主体性であって、それは名ばかりの主体性であることがほとんどだからだ。
例えば会社にプラスになるような提案やブレイクスルーをもたらせる主体性は、文句なしに評価されるだろう。
けれども、逆に会社にマイナスになるような主体性はそれは「わがまま」として切り捨てられる。
休日を増やすべきだ、手当を充実させるべきだ、働きやすい環境を企図すべきだ。
こういう労働者の目線にたった提案はことごとく主体性として評価されないのが常だ。
もちろん会社によってその事情は異なるだろう。
けれども、本来の主体性は誰かに押しつけられたものではなく、主体の自発的な行動によるものであるはずだ。
だが、世間で求められるのは、評価する側にとって都合の良い主体性だ。
それはもはや主体性ではない。
むしろ従順であること、盲目的であること、それでいてそれを積極的に自分で選択できる極めて都合の良いロボットのような人間像だ。
それでいて「自分が働くことに対して肯定的である」ことという人間性を要求する。
ある意味ではロボットよりも過酷な要求だ。
問題はこうした評価が教育現場まで見事に浸透しているという点だ。
私の子どもの小学校のテストには、しっかりと知識技能、思考判断表現、主体性が明示されている。
世界に通用する人材を、というのは聞こえは良いが、小学校でさえ奴隷的労働者になることを義務づけている。
もはや子どもたちが差し出すのは明るい未来や可能性ではない。
心根まで従順に、個人の主体性まで搾取される時代である。
自分たちが何をさせられていて、何をしているのか、自覚しなければこの国全体が奴隷になる日は近い。
それは政府や官僚、国家権力さえ奴隷なのだ。
自分が何者の奴隷か主人を見失ってしまう。
主人なき奴隷国家が日本という国の近未来の姿だ。
言われてから動く、指示を待つ、言うとおりにする、という態度よりも、自分から考えて動ける人が重宝されるらしい。
そう言われてみれば、確かにそうなのだろう。
だが、私はこういう言葉ほどプロレタリアートが奴隷のように搾取されている姿をイメージさせる。
主体性というのは結局労働者を言いように解釈して働かせるための装置として機能してしまっているのではないかと疑ってしまう。
主体性とはなるほど聞こえが良い。
しかし、その実体は、経営者たちにとっての、都合の良い主体性であって、それは名ばかりの主体性であることがほとんどだからだ。
例えば会社にプラスになるような提案やブレイクスルーをもたらせる主体性は、文句なしに評価されるだろう。
けれども、逆に会社にマイナスになるような主体性はそれは「わがまま」として切り捨てられる。
休日を増やすべきだ、手当を充実させるべきだ、働きやすい環境を企図すべきだ。
こういう労働者の目線にたった提案はことごとく主体性として評価されないのが常だ。
もちろん会社によってその事情は異なるだろう。
けれども、本来の主体性は誰かに押しつけられたものではなく、主体の自発的な行動によるものであるはずだ。
だが、世間で求められるのは、評価する側にとって都合の良い主体性だ。
それはもはや主体性ではない。
むしろ従順であること、盲目的であること、それでいてそれを積極的に自分で選択できる極めて都合の良いロボットのような人間像だ。
それでいて「自分が働くことに対して肯定的である」ことという人間性を要求する。
ある意味ではロボットよりも過酷な要求だ。
問題はこうした評価が教育現場まで見事に浸透しているという点だ。
私の子どもの小学校のテストには、しっかりと知識技能、思考判断表現、主体性が明示されている。
世界に通用する人材を、というのは聞こえは良いが、小学校でさえ奴隷的労働者になることを義務づけている。
もはや子どもたちが差し出すのは明るい未来や可能性ではない。
心根まで従順に、個人の主体性まで搾取される時代である。
自分たちが何をさせられていて、何をしているのか、自覚しなければこの国全体が奴隷になる日は近い。
それは政府や官僚、国家権力さえ奴隷なのだ。
自分が何者の奴隷か主人を見失ってしまう。
主人なき奴隷国家が日本という国の近未来の姿だ。
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