secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

12モンキーズ(V)

2022-07-20 14:11:34 | 映画(た)
評価点:85点/1996年/アメリカ/130分

監督:テリー・ギリアム

SF映画の金字塔。

2035年、地下の収容所にいたジェームズ(ブルース・ウィリス)は、行くと帰ってくることができないという選抜者に選ばれた。
言われるがまま廃墟になった地上に向かった彼は、そこで「我々がやった」という落書きを見つける。
この世界は原因不明のウィルスによって人類の全人口の99%以上が死滅した死の惑星となっていた。
その原因を突き止めるべく、科学者たちはジェームズを発端となった1995年の過去へとタイムトラベルさせて、主犯格とされる12モンキーズと名乗る謎の集団を調べさせることにする。
タイムトラベルには脳に負担がかかるとされ、強靱な精神をもつジェームズが選ばれたとのことだった。
気づくと見知らぬ場所にいて、そこは1990年だとわかったが……。

ブルース・ウィリスとブラッド・ピットが共演している。
監督はテリー・ギリアム。
多くの作品に影響を与えただろう、SFの金字塔的な作品だ。

私がおそらく学生の頃に一度みて、面白かったという印象だけが残っていた。
それからずいぶん経ったが、少し時間があったのでアマプラで鑑賞した。

大筋はほとんど忘れていて、最初と最後だけを覚えていた。
それまであまりSF映画を見ていなかったこともあったあまり理解できていなかったのだろう。
そして、それでもまだわかっていないところが多いのだろうと感じている。
それくらい様々な謎やつながりが隠されている。
破綻しているようには感じないので、おそらく見落としているだけだろう。

他のサイトでもおそらくたくさん解説は出されているだろうから、詳細な考察は控えよう。
不完全であっても、私なりの視点で批評をしてみようと思う。


▼以下はネタバレあり▼

この映画は難解で、わかりにくい。
それはタイムトラベルものである、ということもそうだが、物語の結構としてもわかりにくものになっている。
だから状況の整理と、心情の把握が同時に必要であり、そしてジェームズという男に感情移入すればするほど物語は複雑になってしまう。
強い感情移入を求める展開になっているが、映画として楽しむなら同時に冷静に状況を整理する必要がある。

タイムトラベルを繰り返すと精神に支障を来すものがこの映画の設定のようだ。
だから精神病棟に入れられてしまった1990年からずっと彼は夢を見ているようであり、現実との区別がつきにくくなっていく。
しかし、物語に一貫して描かれるのはジェームズの体験なので、状況をつかみにくくなっている。

有り体にいえば、ジェームズは狂言回しにすぎない。
彼はこの物語の舞台である1996年から始まるウィルス蔓延にほとんどかかわっていない。
ほとんどかかわっていないからこそ、それを究明するためにタイムトラベルを強いられる。
もし彼がその事件の本質にかかわっているようなら、彼はおそらく違った形でタイムトラベルをしているはずだ。
少なくとも記録に残るような形ではかかわれなかった。
実際の主人公は、ラストでウィルスを蔓延させたとするピータース博士(デビッド・モース)といえるかもしれない。
「かもしれない」というのは、もともとはジェフリー・コリンズが犯人だったが、ジェームズが追い込むことでピータースに改編された可能性もあるからだ。

少しだけタイムトラベルの話をしておこう。
過去の出来事を変えるために未来からやってきた者が干渉し、過去を改ざんできるかといういわゆるタイムパラドックスがある。
実際にそれを行った者が確認できていないので、できるかどうかはやはり机上の空論になってしまう。

けれども、一つの考え方として、干渉したとしても結果は同じになる、というものがある。
もし干渉して大きな変更が可能であった場合、未来が改編され、過去に送り込むというタイムトラベル自体が存在しなくなってしまう。
そうなると決定的な矛盾を生み、元の過去や新しい過去、その未来はどのようなものか決定されない。
それらの矛盾が起きないためには、結果どんなにあがいても過去は(大きくは)改変されずに、同じ結果になる、というものだ。

だから、ウィルスの蔓延は避けられずに、その行動を起こすのがジェフリー・コリンズではなくピータースに改変されたのだ。
いや、もしかしたらジェームズの最初の夢も、またジェームズの思い込みかもしれない。
結果的には同じことであり、運命は変えられない。

少なくともこの運命のウィルス蔓延に立ち会うことができても、ジェームズは変えることはできず、さらに言えば彼は「何もできない」わけだ。
何もできない、ということが結論であり、だから彼はその場に立ち会わせただけの「狂言回し」ということになる。

その意味ではピータースもまた主人公としてはその役割を果たしているとは言えない。
むしろこの映画は、この破壊的なウィルス蔓延そのものが主人公と言えるかもしれない。

優れた映画というものは、その映画の中に明確な倫理が存在する。
それが一見、通常我々が一般的に倫理と呼ぶものでないものであっても、倫理が存在する。
この映画も同じように、倫理が存在する。
それは、人類は滅ぶべき種族であり、そこに救いはない、というものだ。
主人公が人でないとすれば、この映画はあらゆる角度からその一つの倫理を描き出そうとしている。
だから、この映画はぶれないし、整合性がとれない印象から免れている。

この映画の中に登場する人間はことごとく虐げられている。
どの時代の人間も同じだ。
1990年には精神病棟で繰り広げられる無意味とも思えるやりとりも、虐げる人々も、救いはない。
1995年の年末、いよいよ「計画」が実行に移されるという段になっても、人々は希望を抱くような描写はない。
現在とされる2035年の様子は、もちろんである。
この映画では、人間が希望を持って世界をよりよくしていくことなど、描きようもないくらい負の側面ばかりが映し出される。

だからウィルスを「だれが」ばらまいたのか、という点はどうでも良い。
誰かが必ずばらまくようになるし、それは必然で、決定事項だ。
そこから我々が逃れられるとすれば、ウィルスに冒されても生き延びるための耐性をつけることしかない。
それは人工の1%にだけ許された特権だ。

ラストで科学者の一人が、ピータース博士の隣に座り、「私は保険業者です」というようなことをにこやかに宣言して握手を交わす。
「私はウィルスから守られている、安全を保障された人間だ」という意味だ。
黒幕がいるとすれば、科学者たちだったということが明かされる。
このウィルスを開発したのも、コリンズ博士だった。
この映画を貫く倫理には、科学者への鋭い批判も含まれている。
最終的な「黒幕」と言えるのは、科学者かもしれない。
先にも述べたが、首謀者をだれか押さえればすべてが解決するというようなレベルの話ではない。
むしろ、世界全体が人類を破滅に向かわせているかのようだ。
それがこの映画の倫理であり、真の主人公である。

人類を救うべき男が銃で撃たれて、その姿を幼少期の自分が目撃する。
それは物語の構造で言えば最初と最後がつながる、円環になっているということだ。
メビウスの輪のように、完全に閉じられた世界。
その中で描かれるのは、人々を救うべき科学者が、破滅を肯定し、その中での自分の保障を得る物語である。
だからタイムパラドックスという点だけではなく、物語のメッセージとしても出口がない。
救いがない。

その透徹した構造に、私たちは何年経っても引きつけられるのだろう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« エルヴィス | トップ | 主体性の正体 »

コメントを投稿

映画(た)」カテゴリの最新記事