東浩紀の「訂正する力」を読んで以来、変化することの難しさを意識するようになった。
私の子どもの頃は、カメラがフィルムによって機能する時代だった。
だから、子どもの頃の写真は、それほど多くない。
フィルムは私の両親にはコストが高かったし、機器にうとかったこともある。
父や母の写真なら、もっと残っていない。
それはとても残念なことだが、今は逆に残りすぎていて、「忘れる」ことができなくなっていることも、また問題なのではないかと思うようになった。
過去を忘れられないということは、過去に縛られるということであり、変わっていく自分を肯定できないということだ。
私は至極保守的な(思想ではなく、頑固という程度の意味で)人間だが、あるときから「変わる自分」を肯定できるようになった。
今では幼なじみと言える人と連絡を取ることもないのだが、そういう人たちともし再会したら、その頃の私と今の私では全然違う、と驚くだろうと思う。
だが、もし変わることができなければ私は社会的な場で生きていくことさえできなかったと思っている。
写真をはじめとして、過去の記録が残り続ける現代では、「変わっていくこと」にブレーキをかける要素が多すぎる。
昨日と今日でさえ、同じ人間はいないのに、細胞でさえ6ヶ月でほとんどすべて入れ替わってしまうのに、私たちは幼い頃からの自分を大事に守ってしまう傾向を、技術によって手に入れてしまった。
デジタル・タトゥーなんかも、その典型だろう。
人は失敗する。
時には取り返しの付かない失敗をすることもある。
それでも生きていかなければならないし、その過去を掘り出して批判しても、生きづらさが増すだけだろう。
まったく苦手だと思っていたトマトが、今では大好きになったりするように、人は変わるからおもしろい。
矛盾に満ちた人生で、何も悪くないと思うのだが。
私の子どもの頃は、カメラがフィルムによって機能する時代だった。
だから、子どもの頃の写真は、それほど多くない。
フィルムは私の両親にはコストが高かったし、機器にうとかったこともある。
父や母の写真なら、もっと残っていない。
それはとても残念なことだが、今は逆に残りすぎていて、「忘れる」ことができなくなっていることも、また問題なのではないかと思うようになった。
過去を忘れられないということは、過去に縛られるということであり、変わっていく自分を肯定できないということだ。
私は至極保守的な(思想ではなく、頑固という程度の意味で)人間だが、あるときから「変わる自分」を肯定できるようになった。
今では幼なじみと言える人と連絡を取ることもないのだが、そういう人たちともし再会したら、その頃の私と今の私では全然違う、と驚くだろうと思う。
だが、もし変わることができなければ私は社会的な場で生きていくことさえできなかったと思っている。
写真をはじめとして、過去の記録が残り続ける現代では、「変わっていくこと」にブレーキをかける要素が多すぎる。
昨日と今日でさえ、同じ人間はいないのに、細胞でさえ6ヶ月でほとんどすべて入れ替わってしまうのに、私たちは幼い頃からの自分を大事に守ってしまう傾向を、技術によって手に入れてしまった。
デジタル・タトゥーなんかも、その典型だろう。
人は失敗する。
時には取り返しの付かない失敗をすることもある。
それでも生きていかなければならないし、その過去を掘り出して批判しても、生きづらさが増すだけだろう。
まったく苦手だと思っていたトマトが、今では大好きになったりするように、人は変わるからおもしろい。
矛盾に満ちた人生で、何も悪くないと思うのだが。
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