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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

スパイダーマン:スパイダーバース(V)

2022-08-06 16:02:20 | 映画(さ)
評価点:65点/2018年/アメリカ/117分

監督:ボブ・ペルシケッティ、ピーター・ラムジー、ロドニー・ロスマン

ヒーローに欠かせないものとは。

ブルックリンに住む高校生マイルス・モラレスは、警察官である父親の考えで私立の寮制の学校に転校した。
しかし彼は勉強よりもアートに興味があり、考えが合わない。
そんな中彼が慕う叔父のアーロンに連れられて秘密の場所でアートを完成させる。
そのとき、謎の蜘蛛に刺された彼は、超能力を発現してしまう。
驚いたマイルスは、刺された蜘蛛を探すために、同じ場所を訪れるが、そこは秘密の研究施設で、スパイダーマンがグリーンゴブリンと対峙していた。

ずっと見たかったアニメーション。
スパイダーマンを題材にしているが、ストーリーはスピンオフのようなものだ。
MCUの流れとは直接関係ないだろうが、マルチバースを前提としているので違和感はないだろう。
映像がとにかく新しく、音楽と見せ方が秀逸だ。

こういうアニメーションが登場すると、いつまでも牧歌的な少女がピュアでキュアみたいな作品ばかり描いている日本の映画はおいてけぼりを食うだろう。
もはやCGとか実写とかアニメーションとかいう垣根よりも、映像や音楽、演出などをいかに総合的に物語に落とし込んでいくかという映画としての楽しさを表現できるかどうかにかかっている。
日本はアニメーションで世界をリードしているなんていうのはすでに時代遅れだと思わせるに十分な作品だ。

▼以下はネタバレあり▼

私の期待値が高すぎたのだろう、それほど面白みを感じることができなかった。
一つは先に「ノーウェイホーム」を見ていたこともある。
歴代のスパイダーマンが登場する、という発想はすでに私としては経験済みでそれほどの衝撃はない。
もし逆の順で鑑賞していたら、おそらく評価は多少変わったかもしれない。
むしろ「ノーウェイ」のほうが、「スパイダーバース」に影響を受けた可能性が十分にあるからだ。

だが、それを差し引いても、映画としてそれほど乗れなかった。
それはなぜなのか、ということを中心に考えて見よう。

警察官の父親に反発し、自分のやりたいことを優先しようとしているマイルスの人物像がいまいち見えてこない。
なぜ父親に反発し、叔父に惹かれるのか。
思春期特有のやつ、というのではあまりにも薄っぺらい。
だから父親との和解も表層的だし、叔父の正体が明かされたときのショックと克服もわかりにくい。

映像は確かに素晴らしいのだが、それをヒーロー映画として昇華できていない。
これがもっともこの映画が乗れなかった理由だろうと私は考えている。
それはテーマと少し関連があるだろう。
この映画には、誰にでもヒーローになれる、私だったあなただってスパイダーマンなのだ、というテーマがある。
マルチバースにして様々な次元のスパイダーマンが登場するのも、しかもそれが性別や年齢時代などが様々なであるのも、ヒーローという存在の普遍性、日常性を描きたかったからなのだろう。

だが、そのことと、マイルスという主人公が表層的に描けば良いということとは別の話だ。
普遍性を描くために、個としての特殊性を捨象されてしまえば、「どこにでもいそうなやつ」「何も個性がないやつ」になってしまう。
どこにでもいそうなやつ、というのは、実はどこにもいない。
それは何も描いていないのと同じなのだ。

少なくとも叔父に憧れた何かを描くべきだったと思う。

だから叔父が悪役だった、と聞かされても何も衝撃がない。
叔父もまたキャラクターが描かれていないので、怖さも悲しみも、執着も見えてこない。
なぜ手下に成り下がるという悪役に成り果てたのか、それが見えてこないと彼を失った悲しみから立ち上がれない。
黒幕のキングピンがその悲しみをしっかりと描かれていたことと対比的だ。
誰にでもヒーローになれる、というのなら、ヒーローではなくヴィランを選んだその内容をしっかりと描くべきだった。

ヒーロー映画に最も重要なのは説得力ある設定ではない。
むしろ、不条理なまでの熱さだ。
その熱量が描けなかったことが、この映画に私が乗れなかった理由だと思う。

その意味で表層的な紹介に終始してしまうスパイダーマンたちも同じだ。
マルチバースからどれだけ個性的な見た目のスパイダーマンを用意しても、結局最も根本的な個を描けなければ戦隊ものと変わらない。
(むしろ戦隊もののほうが個が描けている)
痛烈な言い方をあえてすれば、それは単なる数合わせなのだ。
この映画を元にさらにそれぞれのスパイダーマンを見たくなるような魅力あるキャラがいたかどうか。
あるいは、観客の予想を裏切るような魅力があるキャラクターだったかどうか。

22年間もの間スパイダーマンとして活躍してきたというパーカーは、いかにも若い頃は血気盛んだったけれども夢を失ってしまった中年、というありきたりなパーカー像でしかない。
それは、中年たちが思っている、自分はヒーローだったはずなのにいつの間にかそうではなくなり日常に追われてしまっているという私たちに重なるように描かれている。
けれども、それは予定調和なのだ。
いかにも私たちに寄り添っているように見えて、決定的な熱さが足りない。
意地悪な見方だが、「これくらいのキャラならあなたたちも共感できるでしょう?」というような設定に過ぎない。

もちろん設定に意外性があればすべてよし、ということではない。
そこに個が描かれなければ、物語としての核が見えてこない、ということなのだ。
強烈な個性があるほうが、むしろ普遍性を感じられるものだ。

ということで、かっこいい音楽と映像によってますます薄っぺらに感じられてしまったこの映画は、私には「う~ん、これじゃないんだな」という印象のままエンドロールを迎えてしまったわけだ。

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