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日々のこと記してます。

今、ここにある至福を指し示す。

2024年08月22日 | タケルくん

 

冷房を付けてお風呂から上がるとタケチンはよく赤い座椅子で寝てます。

冷房を付けてないと、赤い座椅子で寝ると暑いので寝ません。

 

 

「また、そこで寝てんのん。」

 

 

涼しい。

 

西田幾太郎のいう純粋思考とは、思うに言葉を話すまえの赤ちゃん、犬とか猫とかは「純粋経験((思考、想念がない))」で、主客が分離していない、思慮分別がない。だけど人間も危機状態のときはすごい火事場の馬鹿力というのが発揮されたりする。

危険が危ないときは考えてなくても身体が自然に動いたりする。

思考とか自覚は後付けとして来る。

だから、純粋経験ってどこからどこまでなのかは、よくわからない。

 

西田幾太郎は、知識が主体で対象が客体で、「純粋意識」とは知識と対象が合一しているというのであります。つまりは「あ、タケルちゃんだ。花だ。あれだ〜。これだ〜。」と言っているうちは主客が分離しているということです。

西田哲学では自己がない。

純粋経験をしている自己がいないんです。

自己というのは後から自己意識(物質現象も意識現象であると説く)として現れるのであって、それを経験している自己は無いのです。だから西田の言う唯一実体の自己は後付けの知識としての自己意識として現れるだけであって、それを経験している自己などは無いのです。

西田のいう自己意識は「自意識、自我意識」でもあります。

 

だけども、インド哲学では、純粋経験(知識と対象は合一)をしている意識現象を客体として自己を主体としているのです。

 

 

仏教メモ

五感(視覚聴覚触覚味覚嗅覚)でとらえられる一切、自己が後付けで立ち上がってくる。

色(肉体 色カタチ)

受(感覚 感受作用)

想(思考 識別作用(イメージ力))

行(意志 想起作用(照合、形成力))

織(意識 判断作用)

 

現代の仏教は、釈迦の説いた原始仏教とはほど遠く、原始仏教は、神々への祈願や犠牲や祭祀、護摩焚き、占い、などの神秘的な力によって授かるような信仰は否定してました。

なので真言宗(密教)、空海の教えなどは原始仏教とは程遠いと思われます。

 

原始仏教は、托鉢をして己の心を内観して彼岸に至れ。という教えです。

だから神々はいないのです。

 

釈迦は経典(スッタニパータ 中村元訳)のなかで、「神々も人間も、ものを欲しがり(人々のエネルギーを欲しがる)、執着にとらわれている。この執着を越えよ。神々でさえも解脱できていない。」と説いてます。経典の中にも実は神々(インド)は登場してるんですが、そのような解脱さえできていない神々はいない方がましと釈迦は説くのです。

 

釈迦は、経験(認識)の対象となり得ないインド哲学でいうところの自己(アートマン、プルシャ)のとこは説かなかった。

なぜかというと、民衆は理解し得ないと思ったからで、心身である自我を自己(わたし)と勘違いして執着することの愚かさを説いたのであります。

 

それに、釈迦は形而上学的なことには沈黙したのに、後の仏教徒は無我説を説くようになり形而上学的な議論を徹底的にやるようになった。

論破論破論破・・・です。

無我説が登場すると、自己を認めないことになるので、自業自得は無いし、因果応報もないし、輪廻もないことになる。

 

インドの聖者マハリシは、「それゆえに仏陀は虚無主義者と呼ばれた。事実、仏陀は神、その他についての学問的な議論よりも、求道者に、いまここにある至福を指し示すことの方にかかわっていた

マハリシは沈黙の聖者といわれたけれど、仏陀もマハリシも実は、自己(アートマン、プルシャ)を体現していたのです。だから沈黙してそれを表現したのです。くれぐれも沈黙して思考してないからって犬猫じゃないんです。

 

このブログの「仏教」のカテゴリーに過去に学んだことを忘れないように記したけれど、すでに忘れているんで、ちょっとまた整理整頓して理解してみようと思います。

感謝💓。