メガヒヨの生息日記

メガヒヨ(観劇、旅行、鳥好き)のささいな日常

メガヒヨ、与儀公園に行く

2009年05月06日 | メガヒヨのホリデイ
与儀公園。
大抵の方はその場所がどういうところなのか、ご存知ではないかも知れない。

その公園はメガヒヨが子供時代を過ごした沖縄県那覇市にある。
とはいえ家から離れた場所にあったので、決して遊び場所だった訳ではない。
しかしその名前と光景は、長いこと自分の記憶に留まっていたのである。


それは小学一年生の秋だった。
メガヒヨの描いた絵が学校代表として、めでたくも沖縄県の展覧会に出品されることになった。
その会場は与儀公園近くの小学校だった。

当時は昭和50年台。ゆいレールなんてまだ着工さえしていない時代だった。
交通手段はもちろんバス。母に連れられて出掛けた。

車窓を眺めていたメガヒヨ。
とつぜん、6歳児を惹きつける光景が目に飛び込んできた。
木馬の形をした多人数型ブランコを設置した公園の前を、ちょうど通り過ぎたのだ。

今迄これほど魅力的な遊具を見たことが無かった。
冒頭の絵は、記憶を元にして描いたものである。
かなり簡略化したけれど、一度に十数人は乗れる様なブランコだった。
バスは「与儀公園前~」とアナウンスが流れた。

そしてメガヒヨは母に懇願した。
「あの与儀公園に連れてって。」
「そうね。あとでね。」
母にとって「あとで」とは即ち「却下」の意味である。
まぁ三人を育児していたら、子供の言う事をいちいち聞いているわけには行かないだろう。

それでも与儀公園に行ってあの馬ブランコに乗るという、かすかな希望を抱き続けていた。
しかし結局叶わず、父の赴任期間も終わり一家は神奈川県に戻ることとなった。


それから長い年月。
メガヒヨは与儀公園のことを滅多に思い出すことはなかったが、忘れることも決して無かった。
そこに行くことは人生にとって必要なことでも無いのだけど、一度行きたいと思った気持ちを捨てるのも口惜しかった。

成長後、沖縄に行くことも何度かあった。
しかし友人や姉妹が一緒だったので、観光地でも無い与儀公園に相手の時間を割いてまで行きたいとも言えず、機会を作れなかった。

そしてこの2009年のゴールデン・ウィーク。
妹との沖縄旅行だったが、彼女が仕事の関係で一日遅れてくるため、旅の前半は一人旅となった。
本島南部にある世界遺産、斉場御嶽に向かう路線バスでのこと。
何気なく車窓に目をやると、あの6歳の頃に似た光景が飛び込んできた。
それはまさにあの思い出の与儀公園なのであった。
しかし車窓からはあの馬のブランコが確認出来なかった。

斉場御嶽からの帰り。
メガヒヨは迷わず与儀公園で途中下車した。
長年の願いを今叶えるときなのだ。

いや、ちょっと大げさだけどね。
でもここで見ておかないと将来天に召されるときに、
「あ。そういえば与儀公園に行かなかったなぁ…」と後悔するに違いない。

感慨深く、公園に足を踏み込んだ。




今も昔も市民の憩いの場のようだ。
ブーゲンビリア、デイゴが花の季節を迎えている。

 

売店を過ぎたガジュマルの樹の向こうに子供の広場があるらしい。
馬ブランコがあるとしたらそこかな?

 

残念ながら、馬のブランコは無かった。
長い年月が経っているので当たり前といえばそうだ。
よく考えてみると、当時はバス通りからブランコを見たのだった。
その場所は現在バスケットボール練習場となっている。
時代の流れとともに、公園の姿も変わるわけね。

しかし、馬ブランコの形跡を発見。



…これは何のジャンルに属する遊具なのだろうか。
ジャングルジム?にしては低すぎる。
メリーゴーランド?にしては回転しない。

しかし中のお馬さんはまさしく、記憶の中のブランコと同じタイプのものだった。
色が赤ではなく黒だけどね。

憧れの光景と再会出来たメガヒヨはとても幸せな気持ちになった。
かなり自己満足の世界だけど、達成感を味わった。



ところで…。
思い出の馬ブランコ。
形を説明するのに、似たタイプの遊具の画像をネットで探したけれど
なかなか見つからなかった。
少子化時代、そんな多人数型のブランコなんて製造していないのかも知れない。

そんな訳でイメージ画像を描いてみた。
しかし、学校代表になった画力はひとかけらも残っていなかった(笑)
子供の頃のまぐれなんて当てにならないことを、自分の執念深さと共に世間に立証してしまった。