イギリスゆめだより

日本の外に出ることは自分自身を見つめ直すこと

心にあること

2019-09-06 12:15:19 | 外国語
 またまた久々にブログを書こうとしている。いやブログを書くということがしたいわけではなく、自分の考えを言葉にしたいという思いのほうが大きいかもしれない。なので、手始めに何ということもないようなことを書く。特に、これについて書こうとかではなくて。まあ、しばらくはリハビリみたいなものだろうから。
 最近読む本は、現在の日本のさまざまなシステムについて、「大丈夫なのか?」と疑問を呈している本である。自分の意見と合うからだろう。特に教育。英語教育かな?新大学入試に英語の検定試験を利用するということになり、現場は本当に大混乱である。実際に、検定試験を運営する業者のほうも大混乱だろう。もっとも混乱していないのは、このような試験を入試に使うことに対して、ろくに大した考えももたずに、(つまり自らの思考を「混乱」させることもなく)、何らかの経済的な、特権的な利益を得る(あるいは「得させる」)ことだけを考えて、方針を決定した方々だろう。だいたい、英〇なんてのは、たかが「遊び」(もう少し言葉を選べば、「趣味」)として英語を勉強していて自分の英語力を何らかの「数値」で確認したいと思う人々のためのものだったはずなのに、なぜこんなのが生徒の人生を左右する「入試」に使われ、英語「力」を図るために使われるのか?本当に疑問である。長年英語教育に携わっているが、英語学習を始めてこのかた、この英〇なんてものは受けたことがない。あ〇か、と思っていたからだ。
 とにかく、現場は混乱している。これも、文科省がしっかり音頭取りをせずに、民間に「丸投げ」している証拠だ。来年度にはスタートするのに、いまだにはっきりしたことがほとんど分かっていない。おそらく失敗に終わるだろうと思う。こんな調子で日本人の英語力が上がるはずもないし、そもそも、民間試験を課したからといって、文科省が求めている、「日本人の英語コミュニケーション能力」が上がるわけないのである。どうして、そのような力をつけさせたい=民間試験 という発想になるのか本当に理解不能である。どうぜ一部の教育関連企業との癒着があり、その企業を儲けさせ、その分税金をがっぽりとってやろうぐらいの打算しかないのではないかと、ずっと思っている。
 文科省が「英語コミュニケーション能力の向上」を目指し始めて30年近くになるようだが、その間、日本人の英語力は低下していると言われている。まあ政策を考える人たちは、頭の良い人たちだろうから、英語でのコミュニケーションも朝飯前だろうが、そんなに簡単に外国語運用力がつくわけないではなきいか。何事も「上達」するものというのは、「まずは興味が持てて、自発的に取り組める」ものだ。日本人の若者みんなが「英語」に興味があるのか?そんなことはないよね。
 本当に「英語を話せる人」をたくさん生産したければ、いろんな外国を選択制で選ばせて学習させればいいと思う。(当たり前のことだ)。英語に興味がある者は英語を選択するだろうし、中国語やロシア語をしたい生徒はそれらを選択するだろう。そうすれば、べつに「英語なんか勉強したくないのに・・・」と思っている多くの生徒を相手にする英語教師のストレスの軽減にもつながり、お互い楽しく授業ができるだろう。授業が楽しければ、生徒の「力」ももっとつくのではないか?しかし、実際には大学でさえ、外国語は英語一辺倒になってきているらしい。国際理解教育なんて掲げても限界がありますね。よく、外国語=英語と思い込んでいる中学生を目にするが、文科省も大して変わらないのではないか?頭が固いのか、柔らかすぎるのか・・・
 ああ、ここまで書いたら少し心が落ちついた。文章は、何を書こうかと思い悩んで時間を過ごすよりも、まずは書き出してみるのがいいんだと改めて実感した。このテーマならいくらでも書けるな。


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