イギリスゆめだより

日本の外に出ることは自分自身を見つめ直すこと

辞書を引かない学習者

2019-09-09 15:16:17 | 外国語
 英語教育に関わってはや25年ほどが経過したが、よく言われるここ30年のいわゆる「コミュニケーション英語重視」の政策(愚策)の結果、日本人の英語力の低下とともに、低下していることがある(感じられる)。「辞書を引かなくなった」ということである。技術の進歩により、「電子辞書」なるものが登場し、発展するのと比例してという感じがする。
 外国語学習者の電子辞書使用については、教える側にも賛否両論がある。そして、その機能が向上するにつれて、徐々に「電子辞書いいんじゃない?」という擁護者が増えてきているような気がする。まあ、こちらとしては「しっかり調べられさえすれば」別にどちらでもいいのだが、電子辞書愛好者のほとんどが、それをきちんと使いこなすことができないのが実情だ。単語は引けるが、熟語は引けない。「それは、指導者側の問題であり、その辺もしっかり教えさえすれば、学習者も有効に使えるようになるはずだ。」という、意見もありそうだが、最終的に使う(引く)のは「学習者」である。スマホもそうだが、有効に使えれば本当に大きな学習資源になると思うのだが、私の周りの学習者の中に、スマホを学習に有効に使っているものはほぼ皆無である。「学校で教えないからだ!」と言われても、スマホの他の機能や、アプリなどは別に教わらなくても使えるのに、google 検索さえ学習に有効に使うことができないのだ。
 「電子辞書」以前の問題のほうが大きいのかもしれないが、それは今回は考えないことにしよう。
 「電子辞書」には何百もの辞書が入っていて、しかも紙の辞書ほど重くなく、持ち運びも便利なので重宝されている。しかし、こと肝心の「学習にどれほど使えているか」と問われれば、「単語」の意味を調べ、一番最初に書かれている意味、せいぜい「スクロール」する前の画面に見える意味を「見て」、引いたつもりになっているのだ。多義語の場合、適切な意味を探すのにわざわざスクロールしないといけない。「そんな面倒なことをするくらいなら、適当に上のほうの意味だけで済ませておこう。」というのが大して学習動機がない消極的な学習者の心理だろう。さらに、例文を見るにしても、「1回の画面では出てこない。」=「調べられない」となる。
 こういう点では、「紙の辞書」のほうが明らかに優れている。スクロールの必要もないし(ときどき、ページを1,2ページめくらないといけないが・・・)、ほぼそのページに例文を見つけることもできる。「電子辞書」より重いかもしれないが、価格はほぼ10分の1。いろんな種類の辞書はついていないが、そんなに何百冊も引きますか?って。
 そういえば、もうひとつ。「電子辞書」のほうが、「速く」引けるらしい。そりゃ「紙の辞書」は引き慣れないと「速く」引けるようにはなりません。でも、1回引いてしまえば「いろんな情報」が一目瞭然なのです。「電子辞書」はさっきから書いているように情報は「隠れている」ため「引いてから探さなければ」いけません。どっちが「速い」かは火を見るより明らかです。
 どうしても「電子辞書」を使いたければ、「紙の辞書」を使いこなしてからにしなさい、と言っているが、一度「電子辞書の魔法」に取りつかれると、なかなか「紙」には戻らないようです。かわいそうに・・・。「紙の辞書」を苦労しながらでも使ったほうが、絶対語学が楽しくなると私は信じて疑わないため、学習者にもそう伝えている。(苦労するのは最初だけで、引き慣れると「速く」引けるようになるのに・・・)
 「電子辞書」には履歴機能とか、保存機能もあり、一度引いた単語を残して置ける。学習者にはできれば、自分の頭に中に残して欲しい。たぶん、そのうち「電子辞書」が「人間の脳」に代わる日が来るのだろう。実際、どこかの会社の電子辞書は、その名も Brain だ。笑いしか出ない。
 最後に、「電子辞書」だけを使っている人で、英語ができる若い学習者にほとんど出会ったことがないんですけど・・・(併用者はいる)。「辞書」の使用に関しては、文科省も何も意見を持たないどころか、彼らにとっては「高価な」電子辞書をどんどん買ってもらい(それで学習者の語学力が別に上達しないとしても、語学への興味が高まらないとしても)、業者を儲けさせ、税金をガッポリ取るほうがそりゃいいに決まっている。彼らの思考はすべてそこに行きつくように見えるから、最後はいつも「ためいき」しか出てこない。

旅に出たい…

2019-09-09 09:44:39 | 外国語
 もうしばらくの間、「旅」というものをしていないなあ。独身時代は、たまに独りで(もちろん!)ヨーロッパとか韓国とかに行ってたし、結婚してからも、妻と2人で行くこともあるけど、「独りで行ってきてもいいよ」と言ってくれるので、何度か「旅」をしたことはあるが、ここのところめっきりそういうことがない。
 年齢のせいにしようとしている。もう「旅」なんかする年でもないだろうしと。あるいは、若いころと比べて「怖いものを知ってしまった」からかもしれない。確かに若いころは「怖いもの知らずだった」と今振り返ると思う。(ただし、それほど危険な地域に行ったこともないし、危険な目にあったとすれば、パリでスリとひったくりに合計4回(未遂も含めて)あったことくらいだ。そういえば、イギリスの田舎町で、貸し切りバスに乗せていた電子辞書を奪われたこともあったな。今、旅先で出会うかもしれない「怖いもの」は予想できないようなテロとか、日本でもあるが「通り魔」てきなものかな。そういうのは勘弁してほしい。そういう面では、韓国はまあまあ安全かもしれない。
 今は、再び日韓関係が厳しい状況にあるが、これはおそらく一部の例外を除けば、「国と国」の間の問題であり、政治家が捌けないから、こうなっているのであって、民間レベルでは特に問題は生じていない(韓国人男性に暴行された日本人女性のニュースは聞いているが)。それよりも日韓関係のぎくしゃくさが今もろに影響しているのは、韓国人観光客を相手にしている、主に地方の経済状況だ。この意味でも、早くよい方向に持っていってほしいが、いったい今回はいつまでこの沈滞ムードが続くのだろうか?
 さて、話は戻るが、「旅」に出たいのは、「現実逃避」をしたいというサインでもある。この問題山積の現実にはほんとうに「閉塞感」を感じる。この前も書いたが、日本における外国語教育の姿勢には、ほんとうにうんざりなのだ。こんなに「英語を話せる日本人」を作るために一生懸命教育ばかりを変えようとしているが、まずは、マスメディアを変えるべきではないのか。テレビだ。こんなにどの局も毎日毎日凝りもせずに、同じような番組を作って、同じようなコメンテーターや、芸能人をわちゃわちゃ騒がせて終わるくらいだったら、キー局の1つを完全「英語」局にして、英語で番組を作ったり、日本人が好きな「アメリカ」の番組やドラマを流せばいいのではないかと、ここ20年くらいずっと考えているが、そういうことは「国」は考えないのだろうか。韓国に行けば、ケーブルテレビかもしれないが(韓国のテレビ局やチャンネルの仕組みがよくわからないので)、英語専門もチャンネルやアリランTVのように英語でニュースを流すような局もある。この点で、韓国に後れを取っているのではないだろうか?いや、別に日本人みんなが英語を話す必要はないと個人的には思っているので、「国」もそう思っているんだったらいいんですけど、「国」は英語の第2言語化を目指してるんでしょ?だったら、そういうことをしたら(あるは既存のテレビ局に話を持ち掛けてみては)どうだろうか?ということです。
 わあ、気づいたらこんなに書いてしまった。タイトルは「旅に出たい」なのに。結局、英語教育改悪が中心となってしまった。なるほど、これが「旅」出たいと思わせる最大の要因なのかもしれません。

心にあること

2019-09-06 12:15:19 | 外国語
 またまた久々にブログを書こうとしている。いやブログを書くということがしたいわけではなく、自分の考えを言葉にしたいという思いのほうが大きいかもしれない。なので、手始めに何ということもないようなことを書く。特に、これについて書こうとかではなくて。まあ、しばらくはリハビリみたいなものだろうから。
 最近読む本は、現在の日本のさまざまなシステムについて、「大丈夫なのか?」と疑問を呈している本である。自分の意見と合うからだろう。特に教育。英語教育かな?新大学入試に英語の検定試験を利用するということになり、現場は本当に大混乱である。実際に、検定試験を運営する業者のほうも大混乱だろう。もっとも混乱していないのは、このような試験を入試に使うことに対して、ろくに大した考えももたずに、(つまり自らの思考を「混乱」させることもなく)、何らかの経済的な、特権的な利益を得る(あるいは「得させる」)ことだけを考えて、方針を決定した方々だろう。だいたい、英〇なんてのは、たかが「遊び」(もう少し言葉を選べば、「趣味」)として英語を勉強していて自分の英語力を何らかの「数値」で確認したいと思う人々のためのものだったはずなのに、なぜこんなのが生徒の人生を左右する「入試」に使われ、英語「力」を図るために使われるのか?本当に疑問である。長年英語教育に携わっているが、英語学習を始めてこのかた、この英〇なんてものは受けたことがない。あ〇か、と思っていたからだ。
 とにかく、現場は混乱している。これも、文科省がしっかり音頭取りをせずに、民間に「丸投げ」している証拠だ。来年度にはスタートするのに、いまだにはっきりしたことがほとんど分かっていない。おそらく失敗に終わるだろうと思う。こんな調子で日本人の英語力が上がるはずもないし、そもそも、民間試験を課したからといって、文科省が求めている、「日本人の英語コミュニケーション能力」が上がるわけないのである。どうして、そのような力をつけさせたい=民間試験 という発想になるのか本当に理解不能である。どうぜ一部の教育関連企業との癒着があり、その企業を儲けさせ、その分税金をがっぽりとってやろうぐらいの打算しかないのではないかと、ずっと思っている。
 文科省が「英語コミュニケーション能力の向上」を目指し始めて30年近くになるようだが、その間、日本人の英語力は低下していると言われている。まあ政策を考える人たちは、頭の良い人たちだろうから、英語でのコミュニケーションも朝飯前だろうが、そんなに簡単に外国語運用力がつくわけないではなきいか。何事も「上達」するものというのは、「まずは興味が持てて、自発的に取り組める」ものだ。日本人の若者みんなが「英語」に興味があるのか?そんなことはないよね。
 本当に「英語を話せる人」をたくさん生産したければ、いろんな外国を選択制で選ばせて学習させればいいと思う。(当たり前のことだ)。英語に興味がある者は英語を選択するだろうし、中国語やロシア語をしたい生徒はそれらを選択するだろう。そうすれば、べつに「英語なんか勉強したくないのに・・・」と思っている多くの生徒を相手にする英語教師のストレスの軽減にもつながり、お互い楽しく授業ができるだろう。授業が楽しければ、生徒の「力」ももっとつくのではないか?しかし、実際には大学でさえ、外国語は英語一辺倒になってきているらしい。国際理解教育なんて掲げても限界がありますね。よく、外国語=英語と思い込んでいる中学生を目にするが、文科省も大して変わらないのではないか?頭が固いのか、柔らかすぎるのか・・・
 ああ、ここまで書いたら少し心が落ちついた。文章は、何を書こうかと思い悩んで時間を過ごすよりも、まずは書き出してみるのがいいんだと改めて実感した。このテーマならいくらでも書けるな。