MY LIFE,MY SPIRIT by Masato

今までの人生で感じたこと、自分の考え方を率直に語ります

ついていくのが精一杯の大学1年

2006-08-07 18:34:29 | Weblog
なんとか東京の大学に合格し、カッコいいシティーボーイになること目指して上京してきた僕だが、簡単にそうなれるほど世の中は甘くはない。最初の1年間は東京の文化に慣れるので精一杯だった。

東京に来てまずやらなければならないのは東京弁をマスターすることだった。栃木の方言の語尾につける「だべ」は全部「じゃん」に代えればいいから簡単だ。問題はイントネーションである。平坦で語尾のトーンが上がる栃木独特のイントネーションから、洗練された東京弁のイントネーションに変えなければすぐに田舎者とばれてしまう。それだけは避けたい。
同じクラスの東京の友達に近づき、彼の話す言葉を耳をダンボにして聞いた。アパートに帰ってから彼の話したイントネーションを思い出し、何度も反復練習して身に付けた。お陰で1週間程度で東京弁は大体マスターできたと思う。

僕の入った法学部には500人ほどの学生がいたが、法学部には3割程度の女子もいて、男女が同じ教室で勉強するのがどうも恥ずかしくて違和感を感じたのを覚えている。今では女性の好みに対してうるさいことばっかり言っている僕だが、この時は同じクラスの女の子全員可愛く見えたものだ。

チャペルでの荘厳な入学式の後、上級生達が学内のあらゆる場所でブースを設けて、サークルの勧誘をしている。もう歩く先々でいろんなサークルから強烈な勧誘を受けた。男女問わず、先輩達の底抜けに明るく、みんな楽しそうで、洗練された雰囲気には驚愕した。何しろつい先月まで3年間、牢獄のような男ばかりのまっ黒な世界に浸っていたのだ。今こんな華やかな世界にいるのが信じられなかった。現実にこれから楽しい大学生活が始まるんだと期待と希望に胸を膨らませた。

あの頃は同じサークルのメンバーは全員同じスタジャンを着ていたので、どのサークルに所属しているのか一目瞭然だった。僕は当然テニスサークルに入ると最初から決めていた。当時テニスブームの影響で、学内にテニスサークルはもう数え切れない位あったが、人気のあるサークルは面接に合格しないと入れなかった。一番入りたかった関東テニス同好会連盟に入っている最も有名なPTAというサークルは面接で落ちてしまった。誰でも入れると思っていた僕は残念だったが、やはり僕は先輩から見てダサいと映ったのだろう。でもなんとかNEWFACEという上位サークルには入ることができた。

このサークルには明治学院高校のテニス部で高校の大会で優勝しためちゃくちゃ強い先輩や、学生モデルをしている綺麗な女子の先輩や、マスコミとつながりのある先輩など、個性の強い人達が多くいて、もうすごかった。僕も先輩達にテニスでは負けてはいなかったが、テニス以外の部分では圧倒されっぱなしだった。
遊びも六本木や渋谷でディスコだのダンスパーティーだの、学校帰りに気軽に行っていて派手だった。みんな家庭も裕福で着ている服も洗練されている。もうそれについていくだけでも精一杯だった。
周りの先輩達がどんな服を着ているのか観察し、とりあえずそれを真似る。当時はジーパンもニュースリムと言って腰のあたりはゆったりして、足元が細いデザインが流行りだった。僕もストレートからニュースリムに代えた。靴も皮のサンダル風とか、麻のざっくりしたデザインのシャツとか、サーファー風のファッションが主流だった。でも季節が変わると流行の服もすぐ変わる。春、夏、秋、冬と服の勉強で1年が終わってしまった。

都会の流行りの文化はホットドックプレスという若者向けの雑誌を読んで勉強した。世の中もオールナイトフジという深夜番組がヒットし、女子大生ブームで女子大生というだけでちやほやされていた。そんな中、とにかく大学1年の時は周りについて行けるよう、精一杯背伸びをしていた。

自分と一緒に東京に出て来た同郷の友人の多くは、みんな都会の雰囲気に馴染めず、暗い大学生活を送っている。そんな同郷の友人のようにはなりたくないと思った。性格も無口で内向的だったが、もっと明るく、軽く、元気で、みんなを笑わせる冗談をポンポン言えるよう、自分を変えていかなければならないと必死だった。

しかしせっかく入ったサークルだが、そこは華やかな反面、意地悪や人の悪口をいう人も多くいて、同期とも気が合わず、どうしても雰囲気には馴染めず、秋の学園祭が終わるとそのサークルを辞めることになった。

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