MY LIFE,MY SPIRIT by Masato

今までの人生で感じたこと、自分の考え方を率直に語ります

二人の過去世とカルマ

2006-10-28 15:17:17 | Weblog
前の彼女とはもう自分の中で整理がついているので、原因がわかればそれで十分だった。それより僕にとって今片思いの女性との関係の方が重要課題だった。この女性との前世との関係が知りたかった。

先生は彼女の写真をじっと見ると、「オーラの色はあなたと同じ黄色ですね、きっとあなたと話が合うでしょう」と言った。
当たっている。彼女とは話が良く合うし、一緒にいて楽しい。

また「あなたとは過去世でも会っていますね。」と言う。写真だけで本人を目の前にしていないのではっきりとはわからないようだが、僕がヨーロッパでプロテスタントだった時代に会っているという。

それを聞いてうれしかった。彼女に初めて会った時、強いインスピレーションがあった。これほど女性を好きになったのはTちゃん以来だった。その後彼女には振られてしまったのだが、それでもなぜか胸の奥から込み上げてくるような感情が沸いてきて、どうしても諦めきれない原因がわかった。やはり過去世で会っていたのだ。
だがプロテスタントの時代では二人は結婚していないらしい。原因はわからないが、二人に何らかの結婚できない事情があったのだろう。

僕が想像するに、彼女の過去世は修道女ではないだろうか。修道女であれば結婚は不可能だ。彼女の自分の気持ちを抑えようとするストイックな性格は、過去世で修道女をやっていた経験から来ているような気がする。だがあまりにも自分を抑え込み過ぎて、いつも見ていて痛々しく感じる。
彼女はどこか僕と似たようなカルマを持っているように思える。

或いは当時二人に信仰上の問題があったのではないだろうか。彼女は今と違ってカソリック教徒だったかもしれない。今でこそメジャーなプロテスタントだが、当時は異端扱いだろう。教会を批判するだけで命の危険があった時代だ。二人の間に信仰上の対立や葛藤があったのかもしれない。
だがこれは僕の想像の域を出ない。

先生に「彼女とはいい感じだったんですが、直前で断られてしまったんです。」と言うと、「おそらく守護霊さんが止めたんじゃないですか。」と言う。

確かにそうかもしれない。あの状況ではそうとしか考えられない。
Tちゃんとの恋愛でも、僕の守護霊が止めたとしか思えない事件の連続だった。僕はいつも守護霊に見守られているような感覚があるのだが、僕の守護霊が何かしようとするときは、てこでも動かないような強さがある。Tちゃんとの件だけは僕が行きたい方向には壁を作り、行きたくない方向に道を開けた。彼女との件でも守護霊が止めたとしか思えないような感覚がある。

だが今考えると止めてもらって良かったようにも思える。もしあの時点で付き合えたとしても、最初はうまくいったと思うが、今頃はきっと信仰上の問題が表面化してきたと思う。

彼女には幼少の頃から大切にしている伝統的な信仰がある。
僕にはスピリチュアリズムという新時代の信仰がある。

僕は形骸化した古い宗教観を今更受け入れることはできない。それは過去世で十分勉強したし、今ではその教義の誤った箇所や弱点までありありとわかってしまう。
だから教義の内容の話になったら我慢できず、つい正しい解釈はこうでしょう、真実はこうでしょう、と指摘してしまうかもしれない。

だが彼女は大切にしている信仰を批判されたらきっと傷つくだろう。お互いどちらが正しいかで言い争いになるかもしれない。
しかし僕は自分の信じる道を心の奥にしまって我慢していたら本当の自分を出せないし、ずっと仮面をかぶっていなければならない。
彼女にしてみても、家族も含めてずっと信じてきた教義や儀式や習慣を捨て、スピリチュアリズムを受け入れることは難しいと思う。

前の彼女とは「無神論者、唯物主義者」と「スピリチュアリスト」の違いを埋められずに失敗した。
今度は「伝統的宗教の信奉者」と「スピリチュアリスト」の違いがある。

だが決して強制はしたくないし、できない。人は真理を自ら受け入れる準備ができるまでは決して受け入れることはない。
非常にデリケートな問題だと思う。

だからいつかはお互いの心に隙間風が入り、うまくいかなくなったかもしれない。お互い好き合っていたとしても、信仰上の問題で別れざるを得ない辛さを味わうのは今より遥かに辛いことになると思う。


先生は「彼女には彼女のカルマがありますよ。」と言った。
その通りだ。どんなに好きな人であっても、その人の人生を代わりに歩むことはできない。彼女は彼女自身で自分の問題を解決していくしかない。

僕が出来るのは出来る範囲でその手助けをすることだけだろう。



自分のカルマ

2006-10-27 20:29:12 | Weblog
僕には4年前に結婚を考えて5ヶ月ほど一緒に住んだものの、どうしても合わなくて別れた女性がいる。彼女は二度の離婚歴があり、付き合い始めた時は2歳の女の子がいた。

前夫との離婚が成立して間もなかったので、法律上すぐには結婚できなかったが、彼女の要望で付き合うのと一緒に住むのが同時にスタートした。彼女はどうしてもすぐ子供が欲しいと言い、1ヶ月目に妊娠した。
だが2ヶ月目には彼女の唯物的な価値観や経済観念の違いがあまりにも大きいことに気がついた。彼女も僕の信じるスピリチャリズムを毛嫌いしていた。お互いどうしても合わず、出産する少し前に別れざるを得なかった。

結局女の子が産まれたが、この事件は僕にとって深い心の傷となり、子供を見捨てて別れた罪悪感にずっと悩まされ続けてきた。まさか男と女の関係に保守的な自分がこんなことになるとは自分でも信じられなかった。
だがあの時あの状況ではこれしか選択肢はなかった。彼女とこれからの人生を一緒に歩むことは絶対に考えられなかった。それでもどうしてあんな短期間にこんなことになったのか、いくら考えても答えが出なかった。
だからどうしてもスピリチュアルな観点から原因を知りたかった。カウンセリングでまず聞きたかったのは、前の彼女とのカルマ的な関係だ。彼女とは前世で何か関わりがあったのか、あるいは新しいカルマをここで作ってしまったのかということだった。

彼女の写真を見せると、隆光先生は「あなたの守護霊さんがこう言っていますよ」と前置きして、彼女と前世での関係やカルマ的な関係はないと言った。この事件が起こった理由は、霊的レベルが低い彼女は僕と関わることで学び、僕は彼女と関わることで学ぶために引き合わされたのだという。レベルの違うもの同士が出会うことでお互いが学んでいるとのことだった。

これは意外だった。僕にとってこんな大事件が、前世とのカルマ的関係がないとは考えていなかった。前世でお互い憎しみあった二人ではないかと考えていたからだ。

また先生は「彼女には幸せな家庭を築きたいと思ってもそれができないというカルマがあります。」と言った。
その通りで、彼女自身も少し複雑な家庭に育っている。だから本当は父親のいる暖かい家庭が築きたかったと言っていた。
だったらなぜ些細なことでヒステリーを起こしたり暴力を振うのか、暖かい家庭を築きたいなら自分を変えるべきではないかと思った。だがそれに気が付かず同じ過ちを繰り返してしまうのも、彼女の人生のテーマなのかもしれない。

それから二人の子供の写真を見せて、子供と僕との関係について見てもらった。上の子と僕は血はつながっていないが、魂の上では関係ある場合も多い。
先生は上の子の写真を見ると、「この子はおそらく魂的にお母さんと似ています。将来お母さんと同じように離婚再婚を繰り返す可能性があるでしょう。」と言った。
確かにその通りで、上の子は美人だが少し自分中心でおもちゃを欲しがるなど物質欲が強い。先生の言うような人生になる可能性はあるなと思った。

下の子を見てもらうと、「下の子のオーラの色は黄色で、あなたと関係があるようです。彼女は片親でも構わないのでどうしても生まれて来たかったようです。この子は強いので成長したらお母さんの生き方に疑問を感じて、お母さんの手には負えなくなる時期が来ると思います。その時が来たらあなたの出番があるでしょう」と言った。
確かにそうかもしれない。下の子はおとなしくてあまりはしゃいだりはしないが、一度言い出したら聞かないところがある。性格的にも僕に似ている。いつか僕が彼女の手助けを来る時期が来たらできるだけの事はしてあげたいと思う。

そして僕のカルマについても見てくれた。先生は「ああ、どうやら結婚に関するカルマがありますね」と言った。
江戸時代の蘭学者、中国の浄土宗の僧侶、ヨーロッパのプロテスタントと、3代すべて男性で生まれているが、どの人生でも結婚していないとのことだった。
「子どもが欲しくなくてもできてしまうというのも、今回の人生ではやりたくないことをやらなくてはならないようです」と言われた。
つまりどの人生も自分を捨てて人のために生きた人生らしいが、清く生きた反面、男と女の関係や、結婚して家庭を持ち、子どもを育てるという、一般の人達が普通にやっている勉強ができていないとの指摘だった。

納得した。道理で女運がないわけだ。Tちゃんの件といい、前の彼女との件といい、僕は女性関係ではいつも辛い経験ばかりしている。
大体出会ってスムーズに結婚し、ずっと円満な家庭を築けるような人達は結婚に関するカルマを持っていない。過去世でも夫婦だったような慣れ親しんだ者同士は、お互い慣れているので夫婦の問題はそれほど起きない。

ところが僕のように3代にも渡って独身を貫いてきたような魂は、地上に生まれたらそろそろ男と女の問題や、家庭を持って子供を育てるといった勉強をしなくてはならない。ところがそういう魂は経験が足りないので不慣れだし、今までのカルマを取り返さなくてはならない分、辛い経験をする必要もある。

先生が言うには、「清い川の中を泳ぐのではなく、あえて汚い川の中を泳ぐのも学びのうち」だという。なるほど、いい譬えだなと思った。
仏教には「泥沼に咲く蓮の華の譬え」という話もある。汚い泥沼の中で美しい蓮の華が咲いている。泥沼の中で咲いているからといって蓮の華が汚いわけではない。むしろ汚い泥沼の中で咲いているからこそ、蓮の華の美しさが光る。
地上に生まれて来た以上、泥沼の中のような嫌な経験もしなければならないこともある。その中でも美しい蓮の華のように心を美しく保たなければならないという意味だ。長い転生輪廻の中では、あえてこうした汚い経験を積んで成長する必要があるのだろう。

どちらにせよ、前の彼女とは過去世でのカルマがあったわけでも、今生で悪いカルマを作ったわけではなかった。生まれた子供もこういう家庭であることを承知の上で生まれてきたことがわかった。

今まで重くのしかかっていた罪悪感がなくなり、すっと気持ちが軽くなった。

自分の過去世

2006-10-26 13:12:11 | Weblog
今年の4月下旬、カウンセリングを受けに相模大野の駅ビルにある隆光先生のところへ行った。一見お坊さんのような風貌の人だが、信頼できる人だなというのは直感的にわかった。

まずは僕のオーラの色と前世を見て欲しいと隆光先生に頼んだ。先生は僕の頭の上のあたりを見ながら「オーラの色は黄色ですね」と言い切った。聞けば黄色は知性とか調和を示す色らしい。そういえば25歳の頃、オーラが少し見えるという女性からも僕に黄色いオーラが見えると言われたことがある。
その後僕の前世を見てもらった。先生は頭の上のあたりを見ながら、いくつかの過去世を教えてくれた。

一代前は江戸時代の武士だという。時代はおそらく1700年代頃、身分上は武士だが、泰平の時代なので実際にやっていたのは学者。西洋の学問を教えていたというからおそらく蘭学だろう。この人が僕の直前の過去世でもあり、守護霊を務めてくれているという。
二代前は中国の浄土宗の僧侶だという。当時の中国で浄土宗は念仏を唱えることで極楽浄土へ行けるという、一般の人々向けの仏教だったらしい。
自分の個人主義的性格からしておそらくヨーロッパの過去世だと思っていたので、最初は本当かな?と思った。
だがその三代前はヨーロッパでのクリスチャンで、プロテスタントを信奉していた過去世があるという。プロテスタントが生まれた創成期の頃、プロテスタントを広める仕事をしていたそうだ。
ヨーロッパではイギリス、フランス、ギリシャでの過去世があるという。元々はヨーロッパでの転生を多く繰り返し、その後中国、日本と転生して来たらしい。どの過去世に共通しているのは、その時代で新しいものを学び、教える仕事をしていたそうだ。

それを言われて自分らしい過去世だなと納得した。
江戸時代の蘭学者というのは自分らしい。学生の時から英語は好きだった。また10年前、パソコン講師を初めてやった時も、講師の経験など全然ないのになぜか教える仕事に胸の奥からこみ上げるような強い情熱があり、自分に向いていると感じた。これは過去世の記憶から来ていたのかと納得できた。

また僕は仏教もキリスト教も、その教えの本質についてなぜか以前からよくわかった。仏教の言葉や聖書の内容もなぜか最初から知っているような気がしていた。それは仏教徒やキリスト教徒だった過去世の経験から来ていたのかと改めて納得した。

後で調べたところ、中国で起こった浄土宗は大衆向けの仏教だったらしい。有識者には禅宗が支持されたが、修行が厳しい禅宗は一般大衆向けではなかったそうだ。学問を知らない一般大衆には仏教用語のあまり難しいことを言っても理解できない。だから念仏を唱えれば極楽浄土へ行けるという単純な教えで大衆を救うのが浄土宗の目的だったらしい。
僕は以前パソコン教室の仕事をしていた時期、パソコンに苦手意識のある年配者や主婦の人達に対して、なるべくやさしく、わかりやすく教え、学ぶことの楽しさを理解してもらおうと努力したつもりだが、この時の過去世に起因するのだと思う。

プロテスタントの信奉者というのもうなずける。当時ヨーロッパではカソリック教会が免罪符を買うことによって罪が許されると宣伝し、一般大衆に販売するなどして腐敗化していた。プロテスタントはカソリック教会の腐敗にマルティンルターが反対してできた宗派だ。そのプロテスタントを広める仕事をしていたのも、形骸化、伝統主義、形式主義を嫌い、物事の本質を貫きたいと願う今の僕の性格に共通すると思った。

隆光先生が言うには、僕はプロテスタント、浄土宗、蘭学、どれもその時代では最先端の学問で、今はスピリチュアリズムを学んでいるという。

確かに常に新しいものを求める僕の性格からいって過去世と同じことをやるのは絶対あり得ない。仏教やキリスト教は過去世で既に十分学んだし、どちらも現代では完全に形骸化して時代的適応性を失っている。せっかく新しい時代に生まれるからには、その時代の先端のものを学べなければ意味がない。

その後、隆光先生は僕のカルマ、過去世から引きずっている人生の問題点について教えてくれた。



スピリチュアル・カウンセリング

2006-10-25 13:06:53 | Weblog
最近テレビの江原さんや美輪さんの影響で日本にスピリチュアルブームが訪れている。今や20代、30代の女性で江原さんを知らない人はほとんどいないだろう。
江原さんは以前は一般の人々のカウンセリングをしていたが、相談者が質問をする前から回答を出すというすごい霊能者がいるという評判をテレビ局が聞きつけ、今や超売れっ子の霊媒師である。
「オーラの泉」では芸能人のスピリチュアルカウンセリングが話題を呼んでいる。江原さんが芸能人の前世からの問題点や守護霊からのメッセージを伝え、時に出演者が涙し、前向きな人生を歩めるように変わっていく。
「天国からの手紙」では、一般の人々が肉親を失い、悲しみのどん底でどうにもならない相談者に対して、江原さんが亡くなった人のメッセージを伝える。時に家族間でしか知らないようなことも伝えられ、そのメッセージが本物であることを確信する。そうして彼らの悲しみを癒し、亡くなった人も成仏させる様子がお茶の間に放映されている。

こうした健全な霊的な番組が放映されるとはつくづく時代も変わったものだと実感する。
昔は心霊番組といえば心霊写真だの、怨念だの、おどろおどろしくて気味が悪いものばかりだった。あんな番組を見た後は幽霊が出るんじゃないかと鳥肌が立つような気分になったものだ。
前世とか守護霊の話をしようものなら、「この人ちょっと頭がおかしいんじゃないの?」というような顔をされるのがほとんどだった。

しかし江原さんの番組は暖かくて慈愛に満ちている。愛する人の死で悲しみに打ちひしがれた人達が救われ、立ち直っていく姿は、こちらにもひしひしと伝わってきて感動を誘う。うちの母に見せたら思わず泣いていた。おそらくこの番組を見た日本中の人々が感動の涙を流しているに違いない。

上記の番組を見ると、近未来の宗教のあり方を予感させる。愛する人の死で悲しみに打ちひしがれた人達にとって、形骸化した宗教はほとんど役に立たない。牧師がイエスのみを信じなさいと説教しようが、意味のわからないお経を何回読もうが、彼らの心が救われるはずがない。
江原さんのように故人のメッセージを伝えることによって、肉体は亡くなっても故人の魂が生きているということを確信し、前向きな人生を歩めるのは素晴らしいことだと思う。
また自分の過去世から抱えている問題を知ることで、自分自身の問題解決のきっかけになることも素晴らしいことだと思う。

近未来の宗教は、お寺に行って願をかけるとか、神社に行って厄払いをするとか、教会で賛美歌を歌うとかの形式的なスタイルではなく、こうした信頼できるスピリチュアルの専門家が悩み苦しんでいる人の相談に乗り、具体的に問題解決のきっかけを作ってあげることが必要ではないだろうか。それは別に宗教という形でなくて構わない。むしろその方が一般の人々の抵抗感がない。要するに人々の心が救われればいい。きっとそうなっていくと思う。

僕はもちろん霊能者ではないが、スピリチュアルな法則については20年以上学んでいるので知的に理解している。だからテレビで江原さんの語る内容はほとんど知っていることばかりだ。
だが自分自身の前世がどんなものだったのかはずっと知らなかった。知りたいとずっと思っていたが、信頼できる霊能者を知らなかった。
だが今年の4月に友人の紹介で知り合った人が、江原さんと同じようにオーラや前世を見ることができるスピリチュアルカウンセラーを知っているという情報を教えてくれた。隆光さんという人で、彼のブログを読んだらしっかりしたスピリチュアルの思想を身に付けているというのはすぐにわかった。この人なら信頼できると確信した。
http://plaza.rakuten.co.jp/ryuukousoul
ちょうど恋愛問題や仕事の将来についても悩みを抱えていた時期だったので、早速カウンセリングを受けに行くことにした。



転生輪廻の理由

2006-10-24 13:40:58 | Weblog
先日の前世の記憶のコメントでいい質問があったのでにそれに答えたいと思う。
まずなぜ最初からシンプルに霊的存在のまま鍛錬が行われないのかとの質問だが、そう疑問に思うのも無理もないと思う。確かにわざわざ肉体をまとって記憶まで消して経験や鍛錬をしなくてはいけないのは非効率的ではないかという意見もあり得る。
だがそれは霊的な世界がどんな世界なのかを知らないがために出てくる疑問なのだと思う。これは既存の宗教では教えてくれないが、これは非常に大事な知識だ。霊的な世界の法則を知らない限り、転生輪廻の謎を解くことはできないからだ。

我々はいずれ全員が死んで霊的な世界に還って行く。霊界では波長同通の法則といって、基本的に同じ精神レベルの人同士としか一緒に住まない。つまり現世と違って嫌な人と会う必要はなく、自分と気の合う人とだけ会えばいい。人間関係で苦労する必要は全くない。
またもう肉体がないから食べる必要も眠る必要も子どもを産むこともない。要するに肉体を維持したり家族を養うために働く必要は一切ない。だから金銭や物質的なことは全く意味を持たない。思うことは簡単に実現でき、自分の好きなことだけやっていればいい自由自在の世界である。
霊界はこうした光に満ちた本当に素晴らしい世界なのだが、こうした自由な世界に何百年もいると進歩が止まってしまうのも事実である。
光だけの世界にいては光の良さはわからない。光の存在が認識されるのは闇があるからだ。
幸せだけの世界にいては幸せのありがたみはわからない。不幸や試練を経験して初めて幸せのありがたさを知る。人生はこうして相対的に悟っていくものだ。

そこで数百年に一度、前世とは違った環境で地上に生まれて来る。記憶を消し、不自由な肉体をまとって生まれて来る。
生まれる前には皆人生の計画を立てる。どの親に生まれてどんな仕事をして誰と結婚するか位は大体決めてくる。新しい人生ではどういう人生を送り、何を学ぶのか、人それぞれテーマは違う。
前世で一緒になれなかった男女が今世ではなんとか一緒になりたいとか、仕事でやり残したことをどうしてもやり遂げたいとか、過去世でいがみ合った者同士が再び出会って仲良くなれるかとか、人それぞれのテーマがある。
それがうまくいくかどうかはその人の努力次第である。計画通りうまくいく場合もあるし、過去世と同じような失敗を繰り返す場合もある。失敗した場合には次の人生に同じテーマを持ち越すことになる。

また現世は精神レベルの全く違う人達が一緒にいる世界でもある。違いがあるために人間関係で苦労するが、その分学習効果が高いのも事実だ。低い人は高い人の態度から学ぶ。高い人は自分より低い人達を指導することによって学ぶ。

一見不合理に思われる過去世の記憶を消して生まれてくるのも理由がある。
例えばあなたが前世で殺人者だったとしてそれを覚えていたらどうなるだろうか。その罪の意識に生涯悩まされることになるだろう。
あるいはあなたが前世でどこかの国の王様だったとしてそれを覚えていたらどうだろうか。自信過剰になり、不遜な態度を取るような人間になってしまう可能性がある。
過去世の記憶を持っているとどうしても過去世に引きずられ、同じような過ちを犯してしまう。過去世でどんな人生を送ったとしても、ゼロからやり直す機会が与えられるのは大いなる神の配慮であると言えるのではないだろうか。

人生はトレーニングジムのようなものだ。トレーニングジムではなぜわざわざ苦しい思いをして走ったり、筋肉を鍛えたりする必要があるのか。それは苦しい思いをする代わりに体力がついたり、達成感を味わうことができるからだろう。人生もそれに似たところがある。

確かに現世では不自由な肉体をまとい、嫌な人と会い、好きな人には会えず、お金を稼ぐために働き、様々な悲しみや苦しみを経験しなくてはならないのは辛い。だがそれによって鍛えられ、強く成長していく。自由な霊界に還った時、不自由な地上で経験したことが自分を成長させてくれたことに誰もが感謝するに違いない。


宇宙人からの通信の本がないのかとの質問だが、それもあるにはある。だが個人的にはあまり勧められない。
興味本位の域を出ないし、あまりそっちの方向に走ると変な方向に行ってしまい、奇人変人の扱いをされかねないからだ。宇宙人通信に限らず、ヒーリング、チャネリング、超能力等の世界も同様だと思う。スピリチュアリズムの正道を勉強してから参考程度に読むのは問題ないと思うが、そうでないと一歩間違えば危ない世界に入ってしまう危険性がある。

正道的なスピリチュアリズムを学んでいればおかしな人間になることは絶対ない。人生を正しい視点から見つめ、人格を向上させることができる。スピリチュアリストはスピリチュアルな話を全くしなくても、誰から見ても偉大なる常識人であるべきだと思う。


前世の記憶

2006-10-20 12:33:44 | Weblog
昨日フジテレビで前世のトキュメンタリー番組がやっていた。まじめなスピリチュアルな番組は少ないのでなるべく見るようにしている。

番組の内容はこうだ。アメリカのある家庭で、3歳位の男の子が突然前世の記憶を語りだす。自分は第2次世界大戦の日本との戦争で、戦闘機に乗っているときに打ち落とされて死んだという。乗っていた戦闘機や戦艦の名前や特徴、戦友の名前も語りだす。両親はこれはもしかして本当かもしれないと事実関係を調べると、子供の言った戦闘機や戦友が実在し、全部つじつまが合う。子供の前世と思われる人物も確定し、子供はまだ生きていた戦友や前世時代の姉との再会を果たす。

この番組を見た人はどんな感想を抱いたのだろうか。そんなもの信じられないという人もいるだろうし、もしかしてあり得るかもしれないという人もいるだろう。人によって反応は様々だと思う。

僕の感想はこの程度の現象はごく当たり前で、別に驚くにも値しない。子供はあの世から来たばかりでまだこの世の色に染まっていないから、子供が前世の記憶を語るケースはよくある。
昔アメリカの精神科医のイアンスティーブンソンという人が、「前世を記憶する子どもたち」という本を出版し、科学的アプローチから世界中の前世の記憶を語る子どもたちの事例を紹介している。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4531080610/sr=8-1/qid=1161309863/ref=sr_1_1/503-6264881-8406359?ie=UTF8&s=books
この本以外にも前世の事実を証明するような事例を紹介した本は沢山ある。

この番組では前世の記憶を持つ子どもの事例を紹介しただけだが、その背景にあるスピリチュアリズム的な観点から見た生まれ変わりの法則について述べてみたい。

スピリチュアリズムでは生まれ変わりは全人類に共通した法則であると説く。人によっても差があるが、大体平均して300年周期位の間隔で生まれ変わってくる。だがこの事例のように戦争で早く死んだような人は前の人生でやり残したという感覚が強く、どうしてももう一度生まれ変わってやり直したいという気持ちが強いので、再生のサイクルが短くなる傾向にある。
また生まれると前世の記憶は消されてしまうのが原則なのだが、一部の人は前世の記憶を残して生まれてくる場合がある。これは人間には生まれ変わりという法則があるというのを示す神の配慮でもあるだろう。

また生まれ変わりが事実だとしたら、なぜ一度切りの人生ではなく、何度も生まれ変わってくる必要があるのか。
それは人間が一度だけのわずか数十年の人生では完全な人生は送れないからだろう。誰しもやり残したことを後悔して死んでいくのではないだろうか。そのために何度も生まれ変わってやり直すチャンスが与えられているのと言われている。

また転生輪廻にはカルマの法則というのもある。
よく言われるように、ある人生で自分のことしか考えなかった人、他人に対して悪事を行った人が、その罪を償うために次の人生では自分が他人から被害を受けるような人生を歩むケースは実際にある。
しかしカルマというと前世で悪いことをした罰のようなイメージがあるが、そうとも限らない。例えば前世で一生懸命学んだことは、次の人生でその才能を発揮できるとか、前世で善行を行った人が次の人生では幸せな人生を送れるといった良いカルマもある。
原因があればそれ相応の結果が出るというのがカルマの法則である。仏教的に言えば「因果応報」、キリスト教的に言えば「蒔いた種は自ら刈り取る」と同じ意味である。
カルマの法則は誰かから罰を受けるのではなく、人間の魂にはバランスを取ろうという法則が埋め込まれていて、自らバランスを取ろうとするためと考えた方が正しい。

また人によって個性の違いがあるのも転生によって説明できる。人間は永遠の生命を持つ霊的な存在だが、何千年、何万年という長い年月の間、様々な時代や地域を変え、何度も生まれ変わって経験を積んでいく。その経験が違うために個性が違ってくる。人によって音楽が好きとか、運動が好きとか、絵を書くのがうまいとか、好むものが違い、才能が違う。それは前世でそうしたことをやっていた経験が魂の奥底に秘められていて、成長するに従ってその記憶がにじみ出てくるためである。

また初対面なのになぜか前から知っているように感じてすぐに仲良くなる友人や、会った瞬間にお互いインスピレーションを感じて結婚するような夫婦のケースはよく聞くと思う。これも前世でも友人だったり夫婦だったり肉親だったりするケースが多い。もちろん前世の時とは顔も名前も変わっているが、魂の奥底では決して忘れてはいないのだ。

スピリチュアリズムの説く転生輪廻やカルマの法則は僕にとっては実に合理的で理性的に見ても自然に受け入れられる思想なのだが、人によって信じる人と信じない人がいるのが現実だ。
だが信じないという人は、物質的なもの、科学的なものがすべてであって霊的なものは古代の人々の迷信だと最初から決め付けている人が多い。あるいは現代の形骸化した古い宗教の教義に縛られていてそこから抜け出せていない人も多いだろう。
学校で教えてくれるものでもないので仕方ない面もあるが、こうした人々は一度も上記のような本や番組を見たり読んだりしたことがないのだろう。スピリチュアリズムを少しでも学べば、心の開けた人であればそれが事実であることを確信するように変わっていくだろう。

「生まれ変わりなどない、人間は死んで灰になったらもうすべてがなくなる」という人の発言を聞くと、僕は正直言ってこの人は一体いつの時代の人間なのかと思う。中世期ではあるまいし、なんと遅れた人なのかと呆れ果てる。
そう言う人は僕から見ると「世界は平らになっていて太陽と月が空を回っている。海の向こうは断崖絶壁の滝が流れている」という中世期の世界観を言っているのと同じように聞こえる。

15世紀にコロンブスの功績で地球が丸いということが証明されたが、その前にも地球は丸いのではないかと推測する先進的な人々は一部いたはずだ。だからスペイン女王もコロンブスに資金を提供したのだろう。
17世紀にはガリレオは地動説を発表し、教会から弾圧を受けた。だが科学は後にそれが正しいことを証明した。20世紀終わりになってようやくカソリック教会はガリレオに対する裁判が不適切だったと謝罪した。謝罪までになんと3世紀もかかっている。

今の時代もそれと同じことが起こっている。
現実のこの世がすべてであり、自分が実際に見て証明できなければ霊的な世界など一切信じないという唯物的な人々が多く存在する。僕はこうした唯物論には真っ向から反対する。
また形骸化した宗教の教義に縛られ、それ以外の考えを受け入れられない人々も多く存在する。僕は古い教義の呪縛から抜け出せない人達を気の毒に思う。

そうは言ってもこの世に生きている間はそれを証明することはできない。だから議論をしてもずっと平行線のままだ。これは仕方がない。同じ時代に生きていても、転生の歴史が違うのだから悟りのレベルも違っていて当然だ。彼らが自らの間違いに気付くのは彼らが死んだ後になるだろう。

しかし数世紀先には霊界の存在や転生輪廻の法則が科学的にも証明される時代が来ると思う。
その時、唯物論を唱える人や形骸化した古い宗教を信じる人はどんな顔をするのだろうか。


近未来交通システム

2006-10-18 18:07:09 | Weblog
先週ブログで書いたお掃除不要のトイレはちょうど昨日松下から発表になった。素材が陶器から有機ガラスに変わり、掃除が3ヶ月不要だという。
http://national.jp/sumai/toilet/alauno/index.html
あと1年位はかかるかと思っていたけど意外と早かった。いずれお風呂も同じような商品が発売されるだろう。これが日本中に普及すれば家庭でお風呂やトイレ掃除を誰がやるとかやらないとかの喧嘩もなくなる。掃除が不要になって余った時間を創造的な仕事に回せる。
僕も喉から手が出るほど欲しいが、トイレを代えたらお風呂も代えたいし、IHクッキングヒーターもエコキュートも欲しい。家中全部電気にして太陽光発電システムも入れたい。そうなるとかなりお金もかかるのでしばらくは無理だろう。時期が来るまで我慢するしかない。

だが僕が新しいものを欲しがるのは所有欲ではなく、知識欲や好奇心から来る。物を所有して悦に入ることは絶対にない。自分が実際に使ってみてその効果を確かめたいという気持ちが強い。

僕は新しい物が大好きだ。自分でも呆れるくらい新しい物好きである。
歴史は好きだが、骨董品とかの古いものは全く関心がない。そんなものを持っていても生活を便利にしてくれない。壺でも絵画でも掛け軸でも、どんな高価な骨董品であっても自分一人でながめて悦に入っているのは単なる自己満足に過ぎないと思う。良いものであれば独占せず、美術館や博物館に寄付して多くの人々に見て知ってもらった方が社会の役に立つと思う。


最近はITや生活家電の分野では順調に進化が進んでいると思うが、進化が進んでいないと感じるのは交通システムだ。
特に車がその代表だろう。エアバックやABS等の安全装置や、カーエアコンやカーナビ等の付属品は発展してきたものの、発明以来、燃料がガソリンで何十年も進化が止まってしまっている。
各自動車メーカーでは燃料電池自動車の開発を進めているが、現在1台あたり1億円というコストが問題となっている。更に燃料電池自動車が普及するためには水素を供給するスタンドが全国に必要だ。スタンドも燃料電池自動車が増えないと多額の投資を回収できないから普及にはかなり時間がかかるだろう。

何年も前からずっと考えていたのだが、なぜ自動車メーカーはもっと電気自動車の開発に力を入れないのだろうか。電気なら各家庭まで引いてあるから家庭用コンセントから充電できる。車のルーフにソーラーパネルを付ければ補助的な充電もできる。騒音も排気ガスも出さない。燃料電池車よりメリットが多い。
電気自動車では電池容量の問題があったが、ニッケル水素から容量の大きいリチウムイオン電池の開発が進み、めどがつきつつあるらしい。
トヨタ自動車の次世代ハイブリッド車ではプラグインハイブリッドといって、家庭電源で充電できて80km位は電気だけでも走れる車や、ソーラーパネルを搭載したハイブリッド車を開発中らしい。
三菱自動車でも軽自動車をベースにした電気自動車を開発中らしい。これが発売されれば、地方のセカンドカーとしての用途を中心に売れるだろう。電気自動車が普及するとガソリンスタンドの多くは倒産するだろうが、それは仕方ない。次に車を買い換える際はハイブリッド車か電気自動車にしてみたい。

だがどんなに今の車が進化したとしても、地上を走ることには変わりない。日本中いたるところで渋滞があり、年間8千人もの人が交通事故で亡くなっている。これでは戦争状態のようなものだ。経済損失も大きい。もっと安全で効率的な交通システムにするため、空を飛べる車を開発できないものだろうか。

映画のバックトゥザフューチャーやスターウォーズの世界のようだが、近未来の世界には実現すると思う。よく言われるUFOが空で静止したり高速で移動できるのは、反重力装置のようなテクノロジーが開発されているに違いない。反重力装置があれば空を飛ぶ車の開発も可能のはずだ。
空を飛べれば出発地から目的地まで直線で結ばれる。渋滞もほとんど関係なく、道路を整備する必要もない。目的地に着くのは今の10分の1程度の時間になるだろう。目的地をセットすれば運転しなくてもあっという間に目的地に到着するナビシステムや、車同士が接近すると自動的に避ける安全装置も開発されるに違いない。
空を車で飛べればどんなにか気分がいいだろう。通勤範囲も広がって、北海道の自宅から東京の職場に通うこともできるようになるかもしれない。週末には空を飛ぶマイカーで気軽に海外まで行けたらいいと思う。

反重力装置のようなテクノロジーは、誰か天才的な物理学者のインスピレーションによって物理式が発表された後、その物理式を元に応用して作った機械によって実現するのではないか。実現されれば交通だけでなく、高層ビルの建築を容易にするテクノロジーとしても役立つだろう。

空を飛ぶ車が発明されたら、蒸気機関車や車の発明に匹敵する交通システムの革命をもたらすだろう。だがこれが発明されるのは僕が生きている間は無理で、まだまだ数世紀先になるだろう。次に生まれてくる時にあったらいいなと思う。

その頃の未来の人達は今の僕達の時代の車社会を歴史の授業で学ぶのだろう。地上をガソリンで排気ガスを撒き散らしながら走り、年間何万人もの人々が交通事故で亡くなっていたと知って、なんて遅れた時代だったのかとあざ笑うに違いない。
ちょうど僕達が馬車で移動するしかなかった時代を笑っているのと同じように。



形骸化する仏教

2006-10-16 18:31:22 | Weblog
10年ほど前、川崎に住んでいた僕の叔母が亡くなったときのこと。
お坊さんが自宅に来てくれて一緒に昼食をとる機会があった。40代位の恰幅の良い話好きなお坊さんでいろんな話をしてくれた。
彼が言うにはかなり厳しいお寺で若い時期に修行をしてきたらしい。当時は厳しい修行でガリガリに痩せていたが、今は檀家で食事をよばれてでっぷり太ってしまったと言っていた。
また彼の実家がお寺だったわけではなく、どうしてもお坊さんになりたくてこの道に進んだという。結局跡継ぎのいないお寺の娘さんの婿養子になる形で今の仕事をしていると言っていた。彼なりに好きでこの道に入り、やりがいを持ってやっているのはいいことだと思う。

しかしその時仏教についていろんなうんちくを語ってくれたのだが、その話を聞いてがっかりした。
例えばお箸を持つときは決して箸の先を相手に向けてはいけない、箸の先で相手を傷つけるという意味になるからだと言う。
一体どこの世界に箸の先で相手を傷つけようとする人間がいるのだろうか。修行したお寺でそう教わったのだろうが、そんな形式的なことよりももっと重要なことがあるだろう。その他いろんな話をしてくれたが、やはり形式的な話ばかりだった。
その有名なお寺でどれほど厳しい修行をしてきたのかは知らないが、このお坊さんは仏教の本質をまるでわかっていない。悪い人ではないと思うが、これでは僧侶としての資格はないと思う。だがこのお坊さんだけでなく、日本中のお坊さんが本質と形式を取り違えているはずだ。

日本の仏教はまずお経が形骸化している。インドで生まれた仏教がチベットを経て中国に渡る際に、サンスクリット語から中国語に訳されたのがお経だ。だが中国から日本に渡る際に、なぜ日本語に訳されないのだろうか。聖書が世界各国でその国の言葉に訳されているのに、なぜお経は日本で漢語のままなのだろうか。
あのお経を読んですぐに意味のわかる日本人が一体どれだけいるのか。お経を学ぶためになぜわざわざ漢語を勉強しなければならないのか。最初からわかりやすい日本語で書いてあればそんな労力は必要ない。わかりやすければ多くの人々に仏教の思想を理解してもらえるはずだ。どうしてお経の日本語化が行われないのか不思議である。

葬儀ではちんぷんかんぷんの呪文のようなお経を延々と何十分も正座しながら聞かされる。こっちは足がしびれて早く終わらないかとばかり考えている。
これが誰にもわかる日本語で読んでもらえれば、その話を聞きながら救われる遺族も多いだろう。或いは形式的なお経は数分程度で切り上げ、その後遺族に向かって仏教の教えをわかりやすく語ってもいいだろう。

「悲しんでいらっしゃる遺族の皆さん、亡くなったからといって故人がいなくなるわけではありません。人は誰でもいつかは死んで肉体は滅びます。しかし人間は永遠の生命を持っています。魂の存在になって天国に還ります。みなさんもいつか故人と会える日がきっとくるでしょう」

こう語ってあげればどれほど遺族の悲しみが癒されるだろうか。だがそんなことをしている僧侶は少ないだろう。

それどころか戒名にランクをつけて売るなど、全く聖職者にあるまじき行為だと思う。値段の高い戒名をつけたところで故人が救われるわけでも天国に行けるわけでもない。僕は死んでも戒名などいらない。亡くなった後どの世界に還るかは生前のその人の想いと行いによってすべて決まる。これでは葬式仏教と言われても仕方ないだろう。日本の仏教の形骸化には目を覆うばかりだ。


日本には仏教系宗教団体が沢山あるが、どの団体もそれぞれなんとか教の教えが最高だとか、これのみが真理だとか主張して他を一切認めない。キリスト教をはじめとする他宗を非難するのはもちろん、同じ仏教系宗教団体同士でも非難し合っているような有様だ。近親憎悪なのだろうが、考え方が偏狭で、柔軟性と寛容性がまるでない。愚かな人達だなと思う。
全く仏陀の説いた寛容の教えは一体どこに行ったのだろうか。他宗の教えでもそれが良いものであれば柔軟に受け入れればいいと思う。

ビジネスにおいては他社がやっているよいことはどんどん真似をして当然だ。そうした競争が結果として消費者に利益をもたらす。だめな会社はつぶれて淘汰されていく。宗教においてはそうした健全な競争や淘汰の原理が働かないのが問題だ。それどこか時間が経てば経つほど儀式ばかりを重視するようになって形骸化が進んでいく。これでは宗教離れが進むのは当然だろう。

その昔インドで釈迦の説いた偉大な教えもさすがに2500年の歳月が経つと形骸化は免れない。現代の仏教は完全に末法の時代に入り、その役割を終えつつあるのだろう。

宗教とは形ではない。箸の向きでも袈裟を着ることでもお経を棒読みすることでもない。ましてや戒名でお金を取ることでも他宗を非難することでもない。

宗教とは人間の心を科学し、探求する学問である。そして人々に正しい生き方を教え、人々の心を救うのが宗教の役割だと思う。


読書の秋

2006-10-14 16:06:31 | Weblog
読書の秋だし、じっくり本でも読むのにいい季節になってきた。
仕事上、最低でも日経新聞、日経パソコン、日経ビジネス、日経トレンディといった日経関連の雑誌等は必ず読むことにしている。自分の専門分野はもちろんだが、それ以外の分野も一応勉強しておかないと社会的なバランス感覚が磨かれない。だがこうした雑誌はあくまでも情報収集の分野に入るので読書とはいえないだろう。
これらの雑誌を読んだり、家でもドキュメンタリー専門チャンネルを見たりしていると本を読む時間がなかなかとれないのが悩みの種だ。時間もそうだが、内容的にいいと思う本が少ないのも事実だ。年齢を重ねて経験を積むにつれて自分にとって新しいことが減ってくる。本を読んでも新鮮に感じることが少なくなってくる。
僕は斜め読みができるので、本屋で目次と内容をさっと読めば、どういう内容でどれくらいのレベルなのかは大体わかる。9割以上は買って読むほどでもないなと思う。
サスペンスや推理小説は小中学校時代は読んだが、今ではつまらなくて全然読まない。最近話題になった本やベストセラーでもあまりいいとは思えない作品が多い。

「ハリーポッター」は映画で見た方が面白いし、それも一度見れば十分だ。
今年話題になった「ダヴィンチコード」も、上巻を読んだがつまらなくて途中で辞めた。この本もストーリーが混み入っている割には物事の本質に迫っていないなと思う。
ヨーロッパではローマカソリック教会がこの映画に反対するなど、いろいろと騒がれていた。
だがイエスがマグダラのマリアを愛していたのは事実だと思う。彼女が娼婦だったというのは間違いで、弟子の中でも特別な存在だった可能性は高い。
だからといってなぜそれがいけないのだろうか。
ローマカソリック教会は伝統的な聖書の解釈しか認めておらず、それ以外の解釈は異端と決め付けている。彼らはイエスが超人か神の化身であるかのようにとらえているのだろうが、実際はイエスも人の子であり、女性を愛したとしても何の不思議もない。イエスがあれほど激しく愛を説いたのも、彼自身が女性を愛した経験があったからに違いない。だがイエスがマリアと結婚したとか、子供が出来たのが歴史的事実であるかどうかはどうでもいいことだろう。
たとえそうだったとしても、それによってイエスの価値が下がるわけでは決してない。重要なのはイエスの生き方や教えの内容そのものであり、枝葉のことで騒ぎ立てているのは滑稽に思える。ただ伝統的な聖書の解釈に一石を投じたという点では意味があると言える。

僕はベストセラーよりもロングセラーの方が質の高い本が多くて好きだ。
僕がお勧めなのは「ビジネスマンの父より息子への30通の手紙」だ。http://www.amazon.co.jp/gp/product/4102428011/sr=8-1/qid=1160805481/ref=sr_1_1/503-6264881-8406359?ie=UTF8&s=books
カナダ人実業家の父が、息子へ送った手紙をまとめた本だ。ビジネスマンとして、人間としてどう生きるかを厳しく、優しく、愛情を込めて語る。父親というのはこんなに暖かいものなのかと、思わず涙する。前述した上田さんが薦めた本で、実際読んだら本当に良かった。僕はこの本が好きで何度も読み返した。
この本は世界中でミリオンセラーになっている。著者はその他にも「ビジネスマンの父より娘への25通の手紙」も書いている。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/410242802X/sr=1-3/qid=1160805722/ref=sr_1_3/503-6264881-8406359?ie=UTF8&s=books
ぜひ一読してみることをお勧めする。

スピリチュアリストの僕はスピリチュアル関係の本はよく読むが、どこか変な方向に行っているのではないかと感じる本もあるので選択に注意した方がいいだろう。
スピリチュアル関係では前述した「シルバーバーチの霊訓」がお勧めだ。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4806313823/sr=1-1/qid=1160806006/ref=sr_1_1/503-6264881-8406359?ie=UTF8&s=books
スピリチュアリズム思想の基本を学ぶのに最適だが、宗教的な感性を持っていない人や今が十分楽しい人にとってはあまり良いとは感じないかもしれない。悲しみや苦しみで悩んでいる時に読んでみると良さがわかると思う。

スピリチュアル入門にはアメリカの精神科医のブライアンLワイス氏が実話をベースに書いた「前世療法」という本をお勧めしたい。これも当時話題になった本で、今も単行本になって長く売れている。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4569569323/sr=1-1/qid=1160805939/ref=sr_1_1/503-6264881-8406359?ie=UTF8&s=books
彼がある患者を催眠療法にかけたところ、彼女の口から様々な前世の様子が語られる。クリスチャンの彼は最初は前世があることなど信じなかった。しかし彼女の精神的不安の原因がその前世にあることがわかり、彼女の病気が癒されていく様子を目の当たりにしてこれが真実であることを確信するようになっていく。
ちょうど先週フジテレビの「奇跡体験!アンビリバボー」で、前世の特集があり、最後にこの本の内容を紹介していた。10/19日(木)20時からも前世特集の続きがあるので興味のある人は見てみたらどうだろう。

生まれ変わりを認めていないキリスト教国でこうした本が出版されたことは興味深い。だが転生輪廻は仏教徒に限らず全人類に共通する法則だ。キリスト教国で転生輪廻の考えを広めるのに貢献した本だと思う。

他にも沢山あるが、長くなるのでこのあたりで止めておこう。

このブログの読者の皆さんはどんな本を読んでいるのだろうか。読書の秋にお勧めの本があったらぜひ教えて欲しい。



愛の赤十字の官僚主義

2006-10-13 12:14:17 | Weblog
事務所のある港南台駅前では、毎月のように献血車が来て献血の協力を呼びかけている。僕はなるべく協力したいと思っているので時間があれば献血をしている。
自分の血液が人の役に立てばうれしいし、献血のデータが健康管理にも役立つ。ちょうど先週やった検査結果が昨日来た。1週間酒を飲まず、体調を整えてのぞんだつもりだったが、肝臓の値を示すGPTとGOTの値がわずかに基準値を超えたのはショックだった。今までは基準値を超えたことは一度もなかったのに。
多分アルコールもそうだが、食事も原因だろう。最近好きなものばかり食べて体重も増えてしまった。これからは粗食に変えて少し減量しないといけない。ちょっと反省した。

自営業だから自分の健康は自分で管理しなければならない。万一病気で倒れても誰も代わってはくれない。献血のデータは事前に体調をチェックする意味でも役立つ。来月にでも再挑戦していい結果を出したいのだが、3ヶ月毎、1年に3回までという制限がある。今年はその制限に達してしまった。僕は毎月献血してもいいと思っているが、制度上来年にならないと次の献血はできない。それまで待つしかない。

それはともかく、何度か献血に行くとどうも赤十字の官僚主義が気に掛かるようになってきた。
献血車に入るとまず医師の血圧測定と問診がある。1、2分で終わる簡単なものだ。その後すぐに看護婦さんの事前チェックの採血がある。
この2人が車内で一番暇そうにしている。こんなもの1人で十分できるのに。献血車に医師が居ないといけない規定になっているのだろうが、医師が問診と採血も同時にやればいい。人件費の無駄に感じる。

また献血車が来ていても、時間の都合で献血できない時も当然ある。どうして予め献血車が来る日を地域の人々に知らせておかないのだろう。前もって知っていれば予定を空けておくのに。
ある日突然献血車が来ても、ほとんどの人が体調も時間も準備できていないはずだ。僕だけでなく予定がわかれば献血の時間を空けておく人も増えるだろう。

採血の看護婦さんに聞いたら「皆さんそうおっしゃるんですが、私たちもわからないんですよ」とか言っている。
そんなわけはないだろう。警察の許可をもらってやっているんだから、予定表くらいはあるはずだ。リーダーらしき人にもう一度聞いたら1ヶ月先までの予定表を持っていた。
予定があれば、駅前の公共掲示板にチラシを貼っておけばいいだろう。或いは今月の予定表を配るなり、予定を書いた看板を置くなりなぜしないのか。メガフォンで呼びかけをするよりやることはいくらでもあるだろう。
それを言ったら「そうですねー」という間の抜けた答えしか返ってこない。

せめてWEBに予定があるか調べたら、赤十字のサイトには載っていない。なぜ赤十字のサイトに献血車の予定を掲載しないのか。更に地方自治体のサイトにも掲載してもらうなり、リンクを貼ってもらうよう働きかけをしないのだろう。コストがかかるものでもないし、赤十字からの依頼であれば地方自治体も協力してくれるに違いない。全く怠慢としか言いようがない。

こうした宣伝活動で献血者が増えればメガフォンで呼びかけをする労力も減る。献血の呼びかけはどうせワンパターンなんだから録音してスピーカーで済ませてもいい。1台の献血車で4人位の呼び込みや事務スタッフがいるが、これも削減できるはずだ。

この人達は赤十字で仕事をしているだけに博愛精神のある人だろうが、まるで知恵がない。自分の仕事はメガフォンで呼びかけをすることだとしか考えていないに違いない。献血者を増やすためには今の仕事以外に何をしたらいいかとか、現場で聞いた住民の意見を反映させるとか、自ら考えて実行することは考えていないのだろう。

献血の最後にもらう粗品はいつも一緒だ。絆創膏、ジュース、ハンドソープの3点である。お陰で家には使いきれずに余った絆創膏とハンドソープが沢山ある。
これももっと魅力ある粗品に変更できないものだろうか。企業から協賛を募っていろんな品を出せばいい。献血しないともらえないオリジナルグッズがあればそれを目当てに献血をする人も増えるだろう。ディズニーランドやサンリオあたりからオリジナルキャラクターグッズを出してもらえば、子供のために献血をするお父さん、お母さんも増えるだろう。定期的に商品を変えれば更にいい。

グッズ目当てであっても、今まで献血をしなかった人が一度やれば抵抗感が減る。献血者も増える。献血データで自分の健康状況が把握できて病気の予防にもつながる。企業も献血に協力しているというイメージが上がる。いいことずくめだ。
しかし赤十字が商業主義に流れているとかの非難をする人が出るだろう。だがそんな的外れな非難より、血液を必要としている人に潤沢に提供する方が重要だろう。

日本赤十字社は知恵の出し方次第でもっと献血者を増やし、コストを削減することはできるはずだ。僕が外から見ただけでもわかるくらいだから、内部にはもっと官僚主義がはびこっているに違いない。

僕は官僚主義が大嫌いである。物事の本質を見ず、形式だけを重視するような組織になっていく。官僚主義の組織にいると組織の形式的な色に染まってしまい、自ら考えることを忘れてしまう。
自ら考えられない人は、人間というより猿が多少進化した程度と言わざるを得ない。

時折駅前に献血車が来て、「多くの血液を必要としている人がいまーす、皆さんのご協力をお願いしまーす!」の呼びかけを聞いても、猿の鳴き声のようにしか聞こえないのは僕だけだろうか。

厳しい事を言ったが、日本赤十字社が官僚主義を是正し、より良い献血システムを構築してくれることを願ってやまない。