MY LIFE,MY SPIRIT by Masato

今までの人生で感じたこと、自分の考え方を率直に語ります

前世リーディング14-インドでの転生と霊的進化

2007-07-02 17:20:34 | Weblog
リーディングでは次にインドでの転生を語りだした。

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紀元3、4世紀の頃のインドにも生きていました。

あなたは凝り性で、物事にのめり込む人でした。物事のやり方にやかましい人で、やや形式ぶったところがありました。あなたは理屈っぽかったり、くどい性格の人でもありました。しかし真面目にきちんと行う人でした。人に説明するのが好きな人でした。宗教の儀礼にも凝っていて、秘伝とかやり方にも事細かい人でした。

バラモン教や仏教など、様々な宗教に関心がありました。聖典なども読んだり声を上げて読述しました。
儀礼などにも凝る人でした。また時に礼儀作法やしきたり、人との関わり方にも事細かいところがありました。それでなんとなく周りの人から見ると窮屈な感じを与える人でした。
しかしただ生真面目で堅い人ではなく、いろんな人生上の楽しみや遊びにも精通している人でした。

バイデラ・バーシン、略してビィラティなどと呼ばれていました。

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インドはそれほど関心がある国ではなかったが、長い転生の歴史ではインドに生まれたとしても不思議ではない。仏教はどこかの時代で学んだと想像していたが、インドで学んでいたのかと納得した。またバラモン教(古代ヒンズー教)も学んでいたという。

しかしインドの前世は、好きではない。物事のやり方にやかましく、形式ぶっていて、理屈っぽく、くどい性格の人間など、僕の嫌いなタイプの人間だ。こんなタイプの人は誰でも敬遠すると思う。儀礼、儀式、秘伝などにもこだわったそうだが、今の自分はそういったものは無意味だと思っている。

自分がこんな人間だったとは正直恥ずかしいが、多分性格が真面目過ぎたのだろう。それ故に礼儀作法やしきたりに事細かったのではないだろうか。今の自分は物事の形式や教義に対しては全く違った考えを持っている。

現代でも宗教の世界においては儀礼、儀式、秘伝が必須である。仏教であれ、キリスト教であれ、お経の唱え方、祈りのやり方、礼拝のやり方、賛美歌、いろんな作法や教義が事細かに決められている。その他長年の伝統で作り出されたしきたりや様々な教義が数多くあるだろう。

しかし宗教の本質はあくまでも人の心のあり方を説くものである。儀礼や儀式、教義は後世の人が勝手に作り上げた形式的なものに過ぎない。近代スピリチュアリズムは、それらはほとんど無意味だと説いている。

学生時代、友人に騙されて大きな仏教系宗教団体の集会に連れて行かれた。そこでは全員正座して大声でお経を唱えていた。僕も半強制的に唱えさせられた。全く意味もわからないお経を朗読したところで、何の意味もないと思った。しかし友人は両親がその団体の信者だったので、小さい頃からそうすることが大事だと教え込まれているから盲目的に信じ込んでいる。狭いアパートにも仏壇を入れて毎日お経を唱えているという。それで気持ちが落ち着くとかいう効果はあるだろうが、そんな形式的なことをして悟れるわけがない。どう考えてもおかしいと感じた。

しかしその数年後にスピリチュアリズムと出会い、儀式や形式が無意味なことをきちんと説明していていた。その時の直感は正しかった。

細木数子などは、芸能人のカウンセリングで、よくなくなった誰それのお墓に行ってお参りしなさいとよく言っているが、これもあまり意味がない。故人がお墓に住んでいるわけではない。わざわざお墓に行かなくても、故人を思えばそれでいいのである。

ある宗教団体では、単なる普通の仏壇だのご本尊だのが、ご利益がある素晴らしいものだとかいって法外な値段で買わせている。ある人に聞いたら、その団体のペンダントが20万円、教祖のでかい写真のご本尊が何と100万円もして、それを会員に買わせているという。またそれらの売上額によって支部長のランクが決まるらしい。またその団体では常に教祖の写真に向かって両手を合わせて合掌しているそうだ。全く言語道断で、そんな物質的なものや教祖に対する崇拝など全く意味がない。

スピリチュアリズムでは、物質的なものに大した意味はなく、霊的、精神的なものが最も大切だとしている。また教祖を崇めたててはいけない、法そのものに忠実であればいいと説いている。


現代の宗教界では大して意味もない儀式や儀礼を重視したり、誤った教義を唱えているケースが多く、これが宗教の発展を阻害している。

キリスト教の教義では、生まれ変わりを否定している。しかしイエスが生まれ変わりを否定した記述はどこにもない。生まれ変わりの否定は後世の神学者が勝手に作り上げたに過ぎない。しかしキリスト教の信者に対し、生まれ変わりがどうこう言うと、それは仏教徒やヒンズー教徒の異教徒の思想だと、大抵がけげんな表情を浮かべるだろう。

またキリスト教では死んだら天国か地獄に行くというだけで、霊的世界の存在についての説明があいまいである。世界最大の宗教であるキリスト教が、霊的世界の説明があいまいで、生まれ変わりを認めていないため、世界中の何十億人もの人々が霊的真実を知らずにいる。

この穴を埋めるため、近代以降、スウェーデンボルグ、アランカルデック、エドガーケイシーやシルバーバーチなどの霊媒師が西欧諸国において活躍し、霊的真実を伝えた。彼らが説いた霊的信実はキリスト教の教義と違うので、世間から大変な非難を浴びた。最初は彼ら自身も信じられなかったくらいである。

しかし伝統ある教義の悪影響は大きく、まだまだ霊的真実を知らない人々が圧倒的多数を占めている。しかしどちらが正しいかは、全員が死ねばわかることである。

21世紀にもなるのに、まだまだ宗教界は遅れているなと悲しくなる。しかしそういう僕も、紀元3、4世紀頃には、まだまだこの程度レベルだったのかと思った。しかし当時のインドはそうした礼儀作法やしきたりが大切だとされていたのだろう。インドという国や時代背景を考えれば、仕方なかったのかもしれない。当時の本人にしてみれば、ただ真面目に生きたつもりだったのかもしれない。人はどうしても生まれた国や時代の習慣や価値観に影響を受けるものだ。生まれた時からそう教え込まれれば、どうしても盲目的に信じ込んでしまうものだろう。

今の自分は儀式や形式に対してインド時代の自分とは全く逆の考えを持っているが、1700年という長い年月を経て、やっとここまで進化してきたのかと感じた。

以前ブログに書いた、ジョーマグモニーグル氏の「未来を透視する」の本では、1000年後の未来の地球の宗教は、儀式的なことはほとんど亡くなっていると書いてあった。当然そうあるべきだと思うが、そんなことは現代のスピリチュアリズムでとっくに説かれている。スピリチュアルな思想はある意味で1000年先を行っているといえるが、あまり進み過ぎると現実社会では理解されない。イエスキリストなどは、進み過ぎてその時代には理解されず、罪人として十字架に掛かって死んだ。彼の死後、その評価が認められるのに数百年はかかったという。2000年経った今では神格化が進みすぎ、これがまた弊害をもたらしている。

人類が進歩するには、大変な長い年月の忍耐が必要だなと思う。


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