MY LIFE,MY SPIRIT by Masato

今までの人生で感じたこと、自分の考え方を率直に語ります

スピリチュアリズムについて

2006-12-29 16:02:24 | Weblog
12月はクリスマスにちなんでキリスト教にテーマを絞り、スピリチュアルな観点から、イエスの位置づけやキリスト教の問題点について書いてみた。僕はクリスチャンではないので多少的外れなこともあったかもしれない。しかし決して敬虔なクリスチャンの皆さんを侮辱しているつもりはないのでお許しいただきたい。

今回はキリスト教をテーマに書いてみたが、いつか仏教についても同じような観点から書いてみたいと考えている。

時々スピリチュアリズムとは何なのか、質問されることがある。でもなかなか説明するのが難しい。スピリチュアリズムという宗教団体があるわけではないし、イエスや仏陀のような教祖がいるわけでもない。
僕個人は、「スピリチュアル(霊的)な法則や価値観をベースに、正しい生き方をする」という思想だと捉えている。

ではスピリチュアル(霊的)な法則とは何か。これは様々なスピリチュアルな書籍が発行されているので、それらを参考にして欲しい。

クリスチャンの方であれば、キリスト教系のスピリチュアル書籍が馴染みやすいと思う。
前述した高級霊からのメッセージをまとめた「シルバー・バーチの霊訓」、モーゼスの「霊訓」、アラン・カルデックの「霊の書」がお勧めだ。幸いこれらの書籍の内容は、WEB上に無料で公開されている。
http://www5e.biglobe.ne.jp/%7Espbook/
また19世紀に書かれたアラン・カルデック氏の「天国と地獄」という本が最近邦訳されて話題になっている。フランスでの初出版から140年も経って日本で話題になるというのもスピリチュアリストにはうれしい限りだ。
しかしこれらの本は宗教的な思想のベースを持たない人には難解に感じるかもしれない。

最近の本であれば、1980年代にアメリカの女優のシャーリーマクレーンが、自らのスピリチュアルに目覚める体験を書いた「アウト・オン・ア・リム」という書籍がミリオンセラーになった。当時大変話題になり、ビデオ化もされている。僕もこの本にある霊媒師が、来日してテレビに出たのを見たことがある。
また以前書いたが、1990年代に書かれたアメリカの精神科医のブライアンLワイス博士の「前世療法」のシリーズも有名だ。
どれもスピリチュアル入門にはいい本だと思う。

これらの書籍はヨーロッパやアメリカで生まれたので、キリスト教的にスピリチュアリズムを説明していて、クリスチャンの皆さんには馴染みやすいと思う。

また仏教系の方であれば、大川隆法さんが仏教的な視点からスピリチュアル思想を展開している。仏教用語を使い、仏教的な思想をベースに説かれているので、仏教徒の方には馴染みやすいだろう。

どちらでもないという方であれば、福島大学教授の飯田史彦さんが、「生きがいの創造」という書籍を出している。大学教授らしく、アカデミックな視点からスピリチュアルなテーマをまとめているので、宗教的なものに抵抗感のある人にお勧めできる。

また最近流行りの江原啓之さんの書籍も、日本人の感性に合わせて書かれているので、馴染みやすいだろう。

このようにキリスト教的、仏教的、学術的、様々な視点からいろんな本が出ているが、「霊的な視点から人生を捉える」という点についてきちんと書かれていれば、スピリチュアルな本と言っていいだろう。僕はみな読んでいるが、それぞれ自分の受け入れ易いところから入っていけばいいと思う。みなベストセラーかロングセラーになっているので、アマゾンのサイトで検索してみれば出てくるはずだ。
http://www.amazon.co.jp/

どちらにせよ、真理を学ぶのに何もわざわざ2000年も2500年もさかのぼる必要はないと思う。
教祖を神格化する必要もないし、十字架や仏壇に祈りを捧げる必要もない。賛美歌を歌う必要もないし、写経する必要もない。
そうしたいと言う人はすればいいが、スピリチュアリズムではそれらはみな形式的なことであって、本質とは関係ないと説いている。

現代の実情に合わせて、より真実に近い内容が、よりわかりやすく説かれている。後は先入観や偏狭な精神を取り払い、個人個人が心を開いて受け入れるかどうかだと思う。




キリスト教とスピリチュアリズム

2006-12-27 17:31:21 | Weblog
19世紀に生まれたスピリチュアリズムだが、こうした高級霊からの霊的なメッセージは19世紀に始まったことではない。イエス自身も高級霊からのメッセージを受けながら悟りを開いたし、イエス以降も昔から綿々と続いている。

キリスト教にも昔はそうした霊的なものを認める宗派があったのだが、キリスト教会は悪魔の教えだとして宗教裁判に掛け、異端として弾圧し、処刑してきたという歴史がある。

近代以降はさすがに死刑にすることはなくなったが、それでもスピリチュアリズムが始まった頃、キリスト教会はスピリチュアリズムの書籍を公の場で焚書にするなどの弾圧をしてきた。

キリスト教会のスピリチュアリズムに対する姿勢は、2千年前のイエスの時代と良く似ている。
イエスは当時形骸化したユダヤ教の律法学者達に対し、単純で素朴な真理を訴える。しかし彼らの反感を買い、十字架に架かって死ぬ。現代におけるキリスト教とスピリチュアリズムの対立の構図も基本的に同じである。

歴史は繰り返すというのをつくづく実感する。宗教というものは千年、二千年経つうちに肝心の中身がなくなって儀式や形式ばかりを重んじるようになり、人の心を救うことができなくなってくる。そして末期になるとリニュアルされた新しい教えが説かれていく。

だが新しい教えがすんなりと受け入れられるわけではない。大抵は既得権を守ろうとする伝統的宗教から非難を受ける。新しい教えは斬新なので必ずといっていいほど伝統的宗教とぶつかっていく。キリスト教会の聖職者達は自分たちがイエスの時代の律法学者になってしまっていることに気付いていない。

新しい教えの内容を見てこちらの方が正しいと判断できる人はよほど進化した人であって、人数的には少ない。大抵の人々は既存の宗教は伝統があるからとか、他の大勢の人が信じているからとかという理由で、古い宗教にしがみついて離れない人がほとんどだ。

自宅には時々キリスト教系宗教団体の人が、布教のために小冊子を持って訪問してくる。敬虔なクリスチャンの方に失礼なことはできない。
「ありがとうございます、読んでおきます」とは言うものの、いつもこの人達が気の毒になる。
小冊子の内容を読むと、「目覚めよ!」とかのタイトルで、大昔の中東の砂漠のイラストに、聖書の物語や解説が載っている。現代の日本人にとっては遥か遠い古代神話の出来事のようで、現実感がまるで感じられない。果たしてこの小冊子を読んで入信しようという人がどれだけいるのか、いつも疑問に思う。
この人達がせっかく足を棒のようにして多くの家庭を回ってもほとんど効果はないはずだ。小冊子はほとんどごみ箱に直行しているに違いない。布教の効果を上げるなら、もっと日本の土壌に合った写真なり、解説なりを入れて日本人が親しみやすい冊子に変更すべきだろう。
僕はいつもこの人達が気の毒で、スピリチュアリズムの本を渡して、「時間があるときで結構ですので、一度読んでみてください」と言いたくなるが、この人達なりに真剣に信じているのだろうし、余計なことをしなくてもいいかなと思って止めている。

でも一度、牧師さんや神父さんに「シルバーバーチの霊訓」あたりの書籍を渡して、どんな反応があるのか見たいと思うことがある。僕はなんとなく以下の3パターンを想像している。

①「教会の教義とは違う、これは間違いだ」と言って全面否定する。
②「なかなか良いことを言っていますが、やはり教会の教えが正しいのです」と半分認めながらも否定する。
③「これは素晴らしい教えですね、ぜひ新しく教会の教義に組み入れましょう」と全面的に賛成する。

多分①か②のパターンがほとんどで、③はまずいないだろう。

まあ無理もない。スピリチュアリズムでは大司教の礼服や教会のステンドガラスなどの装飾品には何の意味もないとか、イエスを神格化する必要はないと言い切っている。
更に人間は永遠の生命を持つ霊的な存在であり、地上に何度も生まれ変わりながら進化していく存在だと説いている。
キリスト教の教義に反することも多いので、これを公に認めるわけにはいかないだろう。

今でもキリスト教会は正式にはスピリチュアズムを認めていない。もしかしたら彼らも内心は薄々認めているのかもしれないが、そうすると今までの教義を全面的に変えなければならない。2千年の歴史を破ってそれができる度胸のある牧師や神父はいないだろう。第一そんなことをしたら教会を破門されるに違いない。それほどキリスト教2千年の歴史は重いと言える。

企業は新しい事も積極的に取り入れなければ競争に負けて倒産してしまう。だから他社のやっていることをどんどんを取り入れて吸収して変わっていくのは良いことだ。
僕も変化の激しい企業にいた経験から、常に自分自身を客観的に見つめ、良いことは柔軟に吸収し、自分をいつでも変えようと心がけている。

ところが宗教の世界は全く逆になってしまっている。どんなに社会情勢が変わっても変化できないどころか、どんどん形骸化、硬直化が進んでいく。

しかしこうした悪しき硬直性の問題は、キリスト教に限らずどんな宗教にも言えることだろう。
もう21世紀に入ったことだし、現代の宗教界はもっと柔軟になってもいいのではないだろうか。



キリスト教と転生輪廻

2006-12-25 16:51:38 | Weblog
以前テレビでアメリカでの生まれ変わりの特集があった。3歳の息子が自分は第二次世界大戦の日本との対戦で死んだパイロットだと語りだし、あまりもそれが具体的でリアルなので父親がそれを調べようと関係者に協力を依頼した。しかし関係者達は「生まれ変わりなどあるはずがない」と全然取り合ってくれないというシーンがあった。

このテレビであるように、実際にキリスト教国で生まれ変わりの話をしても通用しないと思う。ほとんどの人は「何をばかなことを言っているんだ、そんなことがあるはずがない」と言うだろう。
キリスト教では転生輪廻を認めてはいないから無理もない。クリスチャン達にとっては転生輪廻などは異教徒(仏教、ヒンズー教)の思想か迷信であって、自分たちには関係ないという認識なのだろう。

僕も以前生まれ変わりについて、クリスチャンの女性と話をしたことがある。彼女は「生まれ変わりはないと思っている」と語っていた。それを聞いて「そうか、やはり彼女もキリスト教会の教義の影響を受けているんだろうな」と感じた。
牧師に生まれ変わりはないと教わったのか、或いはキリスト教の教義にないから最初から否定しているのかどうかはわからない。聖書のどこにも生まれ変わりを否定している記述はないが、キリスト教会の教義の見解が正しいと盲目的に受け入れてしまうのかもしれない。
自分はその時「生まれ変わりはある」と言った記憶があるが、証明できるものでもないのであまり深くは話をしなかった。

しかしキリスト教でも初期の福音書には生まれ変わりについて書かれていたが、後に削除されたという説がある。
実際にイエス自身は人間が生まれ変わることを悟っていたらしい。生まれ変わりについてイエス自身が説いたこともあったそうだが、仏陀のようにあまり詳しくは説かなかったという。

それは前述したように、当時のイスラエルの人々の意識が低く、転生輪廻について説明したとしても無学の彼らには理解できなかったという背景がある。
また転生輪廻も正しく理解されれば有益な思想だが、間違って理解されると「人間が生まれ変わるなら人を殺しても構わないだろう」という理屈に転換されてしまう可能性があった。
イエスはそれを危惧してあまり転生輪廻については詳しく語らなかった。それよりも非常に社会情勢が乱れていたので、イエスはまず「殺すなかれ、悔い改めよ、人を愛せよ」と言って人間としての正しい生き方を優先的に説かざるを得なかった。ここにもイエスの時代的背景の限界があったとスピリチュアリズムでは説明している。

スピリチュアリズムは19世紀のヨーロッパで高級霊からのメッセージで始まり、現代まで様々な霊媒師が綿々と高級霊のメッセージを伝えている。
19世紀フランス人のアラン・カルデック氏、20世紀イギリス人のモーリス・バーバネル氏やアメリカ人のエドガー・ケイシー氏などの霊媒師が有名だ。だがそれらのメッセージを受けた霊媒師の多くは、キリスト教の教義と反する部分があるので皆最初驚く。特に転生輪廻の肯定はクリスチャンにとって驚愕的なことらしい。

だが面白いことにキリスト教国で始まったスピリチュアリズムにも関わらず、すべて生まれ変わりはあると様々な高級霊のメッセージがはっきりと語っている。まともな高級霊のメッセージで生まれ変わりを否定するものは一つもない。キリスト教会が否定しようとも、転生輪廻の法則は人類すべてに共通する法則であるとスピリチュアズムでは説いている。

これは実際に生まれ変わりの法則が綿々と続いているのにも関わらず、古い教義の影響で未だに生まれ変わりを頑固に認めないクリスチャン達をなんとか変えようと霊界からの配慮があるためらしい。

しかし最近になってやっとキリスト教国でも生まれ変わりについて認めるような傾向にあるようだ。

医療業界に詳しいスピリチュアリストの友人に聞いたのだが、アメリカの精神医学の世界では既に精神科のカリキュラムの中にスピリチュアルという項目が正式に入っているという。
これを聞いた時には、キリスト教国のアメリカで既にスピリチュアルが精神医学の世界に正式に踏み込んだのかと驚いた。

これは精神科医であるブライアンLワイス博士の「前世療法」の影響があるのだろう。
アメリカでは催眠療法を使って精神患者の精神的疾患の原因となる幼児期までさかのぼって原因を探っていくことが広く行われている。
しかし現世ではその原因はどうしても見つからず、前世にまでさかのぼらなければわからないケースはどうしても出てくる。近未来の精神医学では、前世にまでさかのぼって精神病の原因を特定し、処方箋を出すことまで踏み込む必要があるだろう。それによって患者自身が精神的疾患の原因が前世にあることを理解し、救われていくことは素晴らしいことだと思う。
今後は精神医学的観点からも、正しい転生輪廻についての研究が進んでいくのではないだろうか。

こうしたスピリチュアルカウンセリングは本来宗教が担当すべき分野だろう。しかし古い教義に縛られて抜け出せない伝統的宗教には、こうしたスピリチュアルなアプローチは望めないという現状は残念に思う。

キリスト教と転生輪廻について語ったが、転生輪廻の思想を持つ仏教でも似たような状況だ。仏教徒ですら人間が動物や虫に生まれ変わるなど間違った考えを持っている人がいるし、霊界の存在や転生輪廻自体を認めていない宗派も多い。もはや現代仏教では形骸化して転生輪廻の正しい理解がされていないし、教えの主流とはなっていないのが現状だ。

こうした状況の中、これからは医学界などの別の業界から風穴を開けることも、スピリチュアル思想の普及には有益だと思う。

国や宗教や民族に関係なく、より多くの人々に正しい転生輪廻の思想が広がっていくことを願っている。



キリスト教の誤り

2006-12-23 14:39:38 | Weblog
聖書が改ざんされたことは前述したが、それ以外にも後世の神学者がイエスの思想を誤った解釈をしたり、イエスの思想とはかけ離れた教義を付け加えた部分がある。
スピリチュアリズムではキリスト教の誤りとして、原罪説、贖罪説、転生輪廻の否定が代表的な誤りとして指摘している。

まずキリスト教の原罪説では人間がもともと罪を持った子だとしているが、この思想には問題がある。
イエスの時代は社会情勢が乱れ、非常に犯罪が多かった。そのためイエスは人々にまず「殺すなかれ、姦淫するなかれ、悔い改めよ」と説いた。つまり人々に反省を促すための一転語として罪の子と説いたのであって、人間が元々罪を持った存在であるという意味ではない。
イエスが「神は自分自身の中にある」と言った通り、人間は誰しも本質的に神と同じ性質を宿している。もともと罪を持った人などいない。

またキリスト教ではイエスは全人類の罪を背負って死んでいったという贖罪説がとなえられている。しかしスピリチュアリズムでは自分の責任は自分が負うのが神の法則であると説いている。イエスも自ら播いたタネは自らが刈りとると言っている。イエスは生贄のヤギや羊ではない。イエスが人類の罪を償うために磔になったというのは誤りであるとスピリチュアリズムでは説明している。

またキリスト教では「イエスは神の一人子であり神が使わされた神に最も近いただ一人の人物である」と説明しているが、これもキリスト教中心の極端な考えである。
世界の思想の中心になった人物は他にもいる。仏教を興し東洋文明の基礎となった仏陀、中東でイスラム教を興したムハンマド、中国で儒教を興した孔子のように、世界的に大きな思想の源流となった人々もイエス同様、神に近い人物といえる。イエスとキリスト教が地球上のすべての宗教をカバーしているのではなく、それぞれの地域や民族の特性に合わせて特色のある教えが説かれているというのが実情である。

それからキリスト教会ではイエス・キリストを信じた者だけが天国へ行くと説いているようだが、これが真実ならキリスト教徒を除いた世界中の何十億人もの人々は全員天国へ行けないということになる。常識的に考えてこの教義が誤りであることはわかるだろう。

これらはまだ地球が丸いということを知らず、ヨーロッパが世界のすべてだと理解していた中世期の価値観の時代に後世の神学者が考え出した教義といえる。キリスト教にはイエスの思想とは関係ない、中世期からの遺物のような間違った教義が混在している。

現代のクリスチャンの皆さんはイエスの思想そのものと、こうした後世の神学者が作り上げた教義とをきちんと区別できているのだろうか。盲目的に受け入れてしまってはいないだろうか。

しかしこうした偏狭な思想はキリスト教に限らず、仏教でもイスラム教でも現代の宗教界全体に共通した誤りである。
「自分達の信じる教義こそが最高かつ真実であり、それ以外はすべて邪教である」といった偏狭な思想が宗教戦争を引き起こしてきたのは歴史が証明している。

21世紀になって科学が発達し、世界が小さくなった現代にもかかわらず、宗教界だけはこうした大昔の遺物のような偏狭な教義の影響で遅れている。現代の宗教界はもっと謙虚に、そして寛容になるべきだろう。


イエスの時代的限界

2006-12-20 15:15:32 | Weblog
前述したようにイエスは知識人ではなく、社会的に虐げられた貧しい人々、無学の人々に対して教えを説いたため、彼らはあまり難しいことを言っても理解できなかった。
それは12弟子も同じで、彼らは現代のように教育を受けているわけではない。そのため弟子たちの理解にも限界があり、イエスの思想をすべて理解できた弟子はいなかったという。師は弟子に合わせて法を説くと言うが、イエスも自分の思想をすべて語ったわけではない。あくまでも弟子たちにわかる範囲でしか説けなかったのである。

また弟子達を養成するのにも時間がかかるが、イエスが教えを説いた期間はわずか3年間と短かったので、十分養成することができなかった。
仏陀は長生きして弟子達を多く養成し、小乗から大乗へ導くことができたが、イエスには段階的に弟子達を教え導くだけの時間がなかったという。

さらに3年間に説かれた教えもすべて残っているわけではない。弟子たちはイエスが再び復活すると信じていたのでイエスの言葉を書き留めていなかった。死んでかなり経ってからやっと諦めて福音書を書き始めたので、弟子たちも思い出しながらうろ覚えで書いていたのである。

イエスの言葉がもっと多く残っていたらと残念に思う。だが無学な人が多く、本も高価でテープもビデオもない時代であれば仕方ない。これがイエスの時代的な限界だったのだろう。

イエスの死後、弟子たちがイエスを意志を継いでローマやギリシャに伝道し、次第に人々に広がっていく。初期のキリスト教は非常に純粋で霊感に満ちあふれた宗教だったそうだ。弟子たちも霊能者のようになっていて、心霊治療による病気治しもできたという。

だが初期の頃は迫害の嵐だった。歴史にあるように弟子達の多くは殉教し、初期のキリスト教徒も迫害を受けた。イエスの死後、約100年間はイエスの評価は固まっていなかったという。今のように神格化された存在ではなかったのである。

しかしイエスの教えは次第に全ヨーロッパに広がっていく。イエスの思想には儀式的、形式的、民族主義的な部分が全くない。常に人間の正しい生き方を説いていて普遍的である。
そしてその言葉は美しく、単純でわかりやすく、誰にでも理解できる。真理は決して難しいものではなく、常に単純であると言われる。この普遍性と単純性が後にキリスト教を世界宗教へと拡大させる要因となった。

考えてみればわずか33年の生涯を送った人物の言葉が2千年も残り、今も世界に影響を及ぼしているのには驚く。

だがコンスタンティヌス帝がキリスト教を承認し、西暦325年にニケーア公会議が開かれ、異端とされる一派が追放されるが、ここから既にキリスト教の形骸化が始まっている。後の教会はイエスの思想とはかけ離れた思想を付け加えていく。
次回は後の教会が付け加えた箇所についてコメントしてみたい。


人間・イエス

2006-12-18 15:02:10 | Weblog
今年ローマカソリック教会が映画ダヴィンチコードを批判したことがヨーロッパで話題になった。皮肉なことにそれが映画の前評判を高め、興行収入を上げたそうだ。

この映画ではイエスに子孫がいるという秘密をめぐって殺し合いをしている。しかしイエスの子孫がいたとしても、イエスとの関連は全くない。イエスの子孫がずっと愛の教えを説いているわけではないだろう。人間の本質は肉体ではなく、魂なのだから当たり前だ。わずかにイエスの遺伝子が続いているからといって何の意味もない。
こんなバカバカしいテーマで殺し合いをする必要はない。僕にはスピリチュアルな法則を知らない愚かな人々が、茶番劇を演じているくだらない映画としか思えなかった。

だがこの映画はキリスト教国においてイエスがそれだけ神格化されているということを意味している。教会の反応を見ると相変わらずガリレオの時代と同じような過ちを繰り返し、全然進化していないなと思う。映画を批判するならスピリチュアルな観点から批判するなら大したものだが、伝統的教義に縛られた教会には望めないことだ。

キリスト教会は2000年という長い年月の間、聖書を改ざんし、教義や儀式や伝統で埋めつくし、イエスを神格化して誰も手が届かない所に祭り上げてしまった。従来とは違ったイエスの解釈はキリスト教の信仰を脅かすというのがローマカソリック教会の立場なのだろう。

スピリチュアリズムはキリスト教会とは違ったイエスの解釈をしている。
イエスは我々と同じように生まれ、悩みや苦しみを抱え、女性を愛し、人間としての経験を積んでいた。様々な宗教を学び、修行をし、それから教えを説き始めた。霊能力を使って人々を癒し、愛の教えを説いた。そして十字架に架かって死んだ後、霊的に復活して弟子たちに布教を命じてこの世を去っていった。

これがスピリチュアリズムの説く人間・イエスであり、そこには何の奇蹟もミステリーも矛盾もない。合理的でクリスチャン以外の現代人にも十分納得できる内容で、なおかつイエスの価値を認めている。スピリチュアルな法則を理解すれば、イエスの真の姿が浮かび上がる。

僕はクリスチャンではないから現代の日本の教会でイエスを何と説明しているのかはわからない。だが以前僕のブログにコメントを書いてくれたクリスチャンの人のブログを読むと、やはりイエスは神聖化された存在だということがよくわかる。日本でも教会から綿々とそう教わっているのだろう。
だからおそらくスピリチュアリズムが説くイエス像は、現代日本のクリスチャンにもなかなか受け入れられないと思う。

クリスチャンの皆さんにお聞きしたい。
イエスが普通に生まれ、女性を愛し、自ら学んで教えを説いたからといって彼の価値は下がるのだろうか。
イエスの行った奇蹟が霊能力であり、復活が霊的な復活だったからといって何か問題があるのだろうか。

イエスが人類最高レベルの人物であるのは間違いないが、肉体を持って地上に生まれた以上、我々と同じように学び、悩み、努力し、女性を愛したとしても当然ではないだろうか。
そうした人生の中で、次第に悟り、普通の人以上の力を発揮し、教えを説いたと捉えてみてはどうだろうか。

スピリチュアリズムの説くイエスの人生が真実かどうかは誰も証明できない。映画ダヴィンチコードのように単なる一説に過ぎないかもしれない。

しかし僕はキリスト教会が説く神格化され、誰も手の届かないところに崇め立てられたイエス像よりも、スピリチュアリズムの説くイエス像を信頼している。

我々は世界史に残る偉大な宗教家であっても、こうした人間的な生き方を経て、次第に悟り、人々を救ったことに敬意を払うべきではないだろうか。

僕は人間・イエスの中に真の価値が隠れていると信じている。


イエス復活の意味

2006-12-16 16:32:43 | Weblog
聖書にはイエスの死後、信者達が死体を香で装おうとイエスの墓に行くと墓は空だったとある。
そしてイエスは十字架に架かって死んだ3日後、復活して弟子たちの前に再びその姿を現す。弟子たちは十字架に架かって死んだはずの救世主イエスを見て驚愕する。イエスは弟子たちと語り、食事をし、最後に世界に伝道に行くよう命じた後、天に昇っていく。

常識で考えればそんなことが起きるはずがない。これも後世の人がイエスを神格化させるために書いた作り話のように思える。だがイエスの復活もスピリチュアリズムでは歴史的事実だとしている。

イエスの復活に関しても様々な説があるようだ。クリスチャンもイエスが墓場から甦ったかのようにとらえている人がいるようだが、スピリチュアリズムではそれは誤りだとしている。

イエスはこの時肉体的には完全に死んでいた。イエスの墓が空だったのは、既に他の信者がもっときちんとイエスを埋葬したかったので別の場所に運んだためである。
イエスは肉体的に復活したのではなく、霊的に復活したのである。要するに幽霊として現れたということだ。
だがイエスの復活は巷でよく言われる幽霊のように、ぼんやりして足がないような姿で現れたのではない。イエスは生前と全く変わらないはっきりした姿で弟子たちの前に現れたという。聖書には一緒に食事をしたとあるので、物質化して現れたのだろう。十字架に架かった時の傷跡を弟子に見せたのは、イエスが弟子たちが信じられるように、傷跡も物質化して見せたに過ぎない。弟子たちがイエスが肉体的に甦ったと信じても無理もない。
だがその時のイエスが霊的な存在になっていたのは、最後に昇天していったことからも説明できる。

また一般的な幽霊は、この世に未練や恨みを残して死んだ魂が、成仏できずに物質化して現れるものだが、イエスの場合はきちんとした目的があって復活したという。ではイエスが復活した目的は何か。

当時のイスラエルでは、イエスが生まれる数百年も前から、「イスラエルに救世主が生まれる。そして救世主は十字架に架かって死んだ後、復活する」と、様々な預言者が予言していた。
イエスは昔からの予言通り、十字架に架かって死んだ後復活することで、救世主であることを証明するという目的があった。

もう一つは師を失ってばらばらになりかけた弟子たちを一つにまとめ、布教の力を強めるという目的があった。
もしイエスが十字架に架かって死んだだけであれば、弟子たちはこの時点でばらばらに散って解散となり、イエスの教えは消えていっただろう。
だがイエスの復活を自分の目で見た弟子たちは、イエスが救世主であることを絶対的に確信した。イエスの復活が契機となり、弟子たちが再び一つにまとまり、彼らが伝道する強烈なエネルギーとなった。
その後弟子たちはローマやギリシャに情熱的に伝道し、多くは殉教していくが、イエスの教えは人々の心から心へと伝わり、数百年かけて全ヨーロッパに広がっていった。
イエスの復活がなければ今のキリスト教はなかったといえる。

イエスの復活は、予言の成就とキリスト教普及の原動力の2つの意味があったという。

ユダの裏切りと人間の弱さ

2006-12-13 16:36:07 | Weblog
イエスの弟子でありながらイエスを裏切り、銀貨30枚でローマ軍に売ったと言われるユダは、2000年経った今も世界中のキリスト教徒から憎まれているようである。
先日ユダの福音書が発見され、今までと違ったユダの解釈が研究されているが、それが正しいのかどうかはわからない。だが僕のブログではスピリチュアリズム的観点からユダの裏切りについてコメントしてみたい。

なぜユダはイエスを裏切ったのか。ユダはお金目当てでイエスを売ったように考えられているが、必ずしもそうではない。ユダの裏切りの本当の理由を探るには、彼の内面を理解する必要がある。

ユダは比較的初期の頃からイエスの弟子だった。しかしユダはあまり心が清くなかったため、イエスは次第にペテロをはじめとする後から弟子になった者たちを可愛がるようになっていった。そのためユダは嫉妬心を抱いていたらしい。

またイエスがあまりにも多くの人々からすがられ、愛されるのに、弟子である自分には誰も寄ってこない状況にも不満を募らせていた。

またユダは貴族趣味的で、高貴な身分に対する憧れがあった。イエスが貧しい人や娼婦や病人に接するのを見て、そういう身分の低い人達と関わると政府や律法学者等から白い目で見られるから止めてくださいと、イエスに何度も進言していたという。
しかしイエスは止めなかった。人間は自分にとって利益になるような人だと寄っていき、そうでなければ離れていくものだが、イエスは自分の利益云々で付き合うのではない、無償の愛が大事だということを身をもって示したかったのである。

イエスはこうしたユダの内面を見抜き、もっと心を入れ替えて神への信仰を持つよう、他の弟子たちの前でユダを叱責したこともあったという。

こうした状況の中、ユダはイエスに対する嫉妬心が芽生えていった。人間は自分の愛する人が自分を愛してくれないと、愛情が憎しみに変わることがある。ユダもイエスを愛するが故に憎しみに変わっていったという。

またユダはイエスが本当に救世主であるのか試したいと考えていたらしい。イエスが本当に救世主なら、また今まであれほどの奇蹟を起こしてきたイエスであれば、ローマ軍に捕らえられても奇蹟を起こして逃げることができるだろう、それを確かめてみたいと考えていた。

ユダの裏切りにはこうした背景があったとスピリチュアリズムでは説明している。

しかし奇蹟は起こらなかった。イエスが十字架にかかって死んだ翌日、ユダは救世主を試そうとした自分の愚かさに気付き、銀貨を投げ捨て、首を吊って死んだ。

昔も今も奇跡など自分の目で見なければ信じられない、証明されなければ信じられないという人は多い。証明されなくても教えの内容で信じられる人は精神的にかなり進化しているが、そうした人は少ない。
ユダは信仰心の弱い、唯物的な人間だったのだろう。

ユダは自らの嫉妬心やプライドが信仰を崩壊させ、救世主を試そうとしてイエスを裏切った。前述した映画アマデウスのサリエリのパターンとよく似ている。

キリスト教社会では極悪人のように見られているユダであるが、必ずしもそうとは言えない。ユダが本当に極悪人であったら、自殺はしないはずだ。イエスが死んでも悠々としていただろう。ユダは悪人というよりも唯物的で弱い人間だったと言える。

ユダを非難するのは簡単だが、こうした人間の弱さは誰の心にも潜んでいて、ユダの裏切りのような行為は誰にでも起こり得ることだと思う。

ユダの裏切りは人間の心の弱さを象徴しているようである。


イエスの思想と行い

2006-12-12 17:28:36 | Weblog
イエスは持ち前の霊能力を使って人々の関心を集め、愛の教えを説いていった。イエスは知識人ではなく、猟師、農民、社会的に貧しい人々に対して教えを説いた。イエス自身はエジプトやインドで様々な宗教を学び、より高度な悟りを開いていたが、それを当時の無学の人々に説いたところで誰も理解できない。そこでイエスは誰でもわかるよう、譬え話を多用し、真理を極めて単純に説いていった。

「汝の隣人を愛せよ」「汝の敵を愛し、汝を迫害する者のために祈れ」「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」
クリスチャンならずとも、誰でも知っている言葉だろう。

今でこそキリスト教の普及で人を愛するということが当たり前になっているが、当時は画期的な思想だったとされる。
それは当時のイスラエルの社会情勢が今と全く違うことを考慮しなければならない。ローマ帝国の圧制の中、風紀は乱れ、強盗や殺人が後をたたなかった。千数百年続いたモーゼの律法が形骸化し、人々はモーゼの律法だけ守ればいい、後は自分の事だけを考えて生きればいいと考えていた時代である。

そんな社会情勢の中、イエスは単純素朴で常に変わらない真理を説いていった。イエスには十数年間、真理を学んだ蓄積があったため、その教えの内容は目を見張るものがあった。互いに愛し合うことの重要性、人は誰でも神の前で平等であり、神は自分自身の中にあると説いた。

イエスはその行いにおいても既存の宗教者とは全く違っていた。社会的に下とみなされた病人や娼婦とも分け隔てなく接した。

姦淫の罪で捕らえられた娼婦を前に、民衆が「モーゼの律法では姦淫の罪を犯したものは石を打って殺せとあります」と言うと、イエスは「あなた方の中で今までに一度も罪を犯したことがない者だけが、この女に石を投げるがよい」と答えた。
それを聞いた民衆が自らの愚かさに気付き、みなそこから立ち去っていったというのは実に感慨深い逸話だと思う。

イエスは民衆からは絶大な支持を得ていった。しかし既得権を持ち、形式や儀式ばかりを重んじる律法学者やパリサイ派の人々と対立する。

安息日に病を治したイエスに対し、律法学者は「モーゼの律法には安息日に仕事をするなとあるのにお前は仕事をした」と攻め寄る。イエスは「自分のヤギが安息日に穴に落ちたからといってあなたはそれを助けないのか、安息日になぜ良いことをしてはいけないのか」と律法学者を非難する。
この話で既存の宗教がかなり形骸化していることがわかる。

またパリサイ派がイエスを罠にはめようとしてローマに税金を納めることをどう思うか問う。イエスが「その金貨には誰の絵が描いてあるのか」と問うと、「シーザーの絵が描いてあります」と答える。
「ではシーザーの物はシーザーに、神のものは神に返しなさい」と答えたのは有名だ。
これはこの世とあの世の価値観は別だということを意味している。

イスラエルを支配するローマ帝国からは、こんなやつをほうっておいたら暴動が起きると敵視されるようになっていった。今で言う政治犯的な扱いを受けたわけである。

そしてイエスは3年間の布教の後、ユダの裏切りでローマ帝国に捕らえられ、十字架にかかって死んだのは歴史的事実である。

だがその3日後にイエスは復活して弟子たちの前にその姿を再び現す。次回はユダの裏切りとイエスの復活の意味について書いてみたい。


イエスの奇跡の真相

2006-12-08 19:01:49 | Weblog
聖書にあるようにイエスは12弟子を連れて伝道中、様々な奇跡を行ったとされる。
病気を治す奇跡、水上を歩く奇跡、水をワインに変える奇跡、パンを5千人に与える奇跡などが有名だ。一見これは後世の人々がイエスを神格化させるために書いた作り話のように思える。しかしスピリチュアリズムではこれは歴史的事実だとしている。
だが奇蹟とは少し意味合いが違う。イエスが行ったのは奇蹟ではなく、霊能力だったとスピリチュアリズムでは説明している。確かにイエスが行ったような霊能力は現代でも見られる現象である。

水をワインに変える奇跡、パンを5千人に与える奇跡は、西インド遊学時代に師から物質化霊能力をマスターしたことは前述した通りだ。現代ではインドでサイババが同じことをやっている。

心霊治療による病気治しは昔から世界中でいくらでもある。
心霊治療は霊能者がほとんど患者の身体に触れることもなく治療してしまう。心霊治療は霊的エネルギーを体内に注入することで、身体を正常に戻すという。
先日のディスカバリーチャンネルでは、ブラジルで小学校しか出ていない人が心霊治療を行って次々と患者を治す様子が放映されていた。彼は治療前に瞑想に入ると彼の中に医者の霊人が入り、次々と治療を行っていく。その間何をしているのか彼は全く記憶がないという。

水上を歩く奇跡も、19世紀のイギリスで同じようなことが出来た霊能者がいる。彼はアパートの窓の上から出て空中を歩き、同じ窓から戻って来ることができたという。
おそらくエクトプラズムで身体を覆い、空中に浮かせていたのではないかと推測される。

キリスト教会では奇跡はイエスだけができたことで、奇跡はイエスの時代で終わったと説いているようだが、それは誤りである。
イエスが行ったのは奇跡ではなく、霊能力だった。そして現代でも世界中で多くの霊能者が人々のためにその力を発揮している。心霊治療や物質化現象は霊能力の一部に過ぎない。

テレビで見たことのある人もいるだろう。霊視能力を使って未解決の犯罪捜査のため警察に協力する霊能者、人の前世やカルマをリーディングして人生の指針を教える霊能者、亡くなった愛する人の言葉を伝えて遺族の悲しみを和らげる霊能者、高級霊からのメッセージを伝える霊能者。現代でも様々な霊能者が世界中で人々のために貢献している。
もちろんすべての霊能者が本物だというわけではない。世の中にはお金儲けが目当てのインチキ霊能者も多いという。だがすべてインチキだとは言い切れない。本物の霊能者は霊能力を決して自分の利益には使わず、人々の幸せのために使っている。

仏陀もイエスと同じように高級霊と対話する霊能力を持っていたという。しかし仏陀は心霊治療や物質化現象の霊能力は使わなかった。その代わり仏陀が多用したのが読心霊能力である。相手の心を読み、「あなたは今こう考えていますね」とズバリ指摘することで、相手を納得させたと言われている。
ちょうど今テレビで江原さんがやっているようなものだろう。「オーラの泉」の芸能人のカウンセリングでは、本人しか知らないことをズバリ言い当てて芸能人が驚く様子がお茶の間に放映されている。

しかし宗教家は本来教えの内容で人々を導くのが仕事であって、霊能力を見せることではない。
ではイエスが霊能力を人々に見せた理由は何か。

それはあの時代のイスラエルはまだ民衆の意識が低く、そうした奇跡的な現象を見せなければ人々は救世主として信じられなかったためである。人々は救世主なら奇蹟が起こせるはずだと信じていて、教えの内容だけでは納得できない時代だった。
イエスは奇跡を見せることで人々の気持ちを引きつけ、予言にある救世主であることを納得させ、それから教えを広める必要があった。イエスも時代的背景に合わせざるを得なかったのである。
だが科学の発達した現代になると、こうした現象は古代の人の作り話で胡散臭いように思われてしまうのは残念に思う。


こうした霊能力はごく一部の人しかできないのはなぜだろうか。
それは霊能者が全くいなくなってしまうと、この世がすべてだという唯物的な人ばかりになってしまう。一部の霊能者がこうした現象を見せることで、この世を超えた霊的な世界があるのだということを、神の配慮で例外措置として人々に示していると言われている。

だからイエスが霊能力を使ったのは布教のための方便に過ぎない。イエスの本当の目的は愛の教えを人々に説くことだった。次回はイエスの説いた教えについて書いてみたい。