MY LIFE,MY SPIRIT by Masato

今までの人生で感じたこと、自分の考え方を率直に語ります

憂鬱だった横浜行き

2006-08-22 18:36:07 | Weblog
全損事故のショックも覚めやらぬ1988年1月、突然横浜関内支店のチームリーダーとして赴任するよう異動命令があった。

最初は池袋支店に行く予定だったらしいが、いろいろあって関内支店に変更になったらしい。池袋支店なら大宮支店と同支社グループなので交流も多いが、横浜関内支店では全く別支社だからもう会うこともほとんどない。大宮支店では僕は人気者だったから、アシスタントの人達はみんな寂しそうだった。僕もいろいろと良くしてくれたアシスタントの人達と別れるのは辛かった。その時はせっかく盛り上がっていた支店もしんみりした雰囲気になってしまった。

それに僕はそれまで横浜にはあまり馴染みがなかった。サークルの飲み会で一度中華街に行った程度だった。横浜の人達は横浜にプライドを持っていて、閉鎖的で僕のような地方出身者には冷たいというイメージがあって、正直あまり行きたくはなかった。地方出身者の集まりの東京の方が気楽で良かった。
そうはいってもこのまま小さな大宮支店にいるよりも、規模の大きい関内支店に行った方が仕事も大きくて勉強になるだろうし、また新しい環境で新しい人と出会えるだろうと、気を取り直して行くことにした。

それにしても最初は横浜に行くのが憂鬱だった僕が、今では横浜大好き人間になり、12年以上も住み続け、仕事をしているのは不思議な気がする。僕が横浜にこだわるのは僕に最も大きな影響を及ぼした女性が横浜出身だからかもしれない。

新松戸から会社の独身寮のある元住吉に引越し、東横線で関内支店に通勤した。関内支店のトップはYさんという初老の支店長で、社内でもその仕事ぶりとワンマンは超有名で、ゴッドファーザーと呼ばれていた。人事からは支店長の下で勉強してきなさいと言われていた。

実際に関内支店に配属になると、支店長は一番奥のデスクにどっぷりと腰を下ろしていて、社内では禁止されているはずのタバコを堂々と吸っていて異様な雰囲気をかもし出していた。
タバコを吸い終わると今度は慌しく顧客リストに眼を通し、ドスの効いた関西弁で、このスタッフはいつ契約が終了するから次を探せとか、この会社のスタッフとの打ち合わせはわしが行くとか、細かい指示を出していた。普通支店長クラスになるとあまり実務には口を出さないものだが、支店長は違った。

会議の席でも支店長の独壇場で、他のチームリーダーの意見を求めず、ほとんど自分の意見を言って終わってしまう。すべて自分の思うとおりに事が進まないと気がすまない人で、まるでヤクザのような振る舞いに誰も逆らえなかった。こりゃ大変な支店長のいる支店に来ちゃったなと、最初はびくびくものだった。

ただ仕事では超熱心だし、言っている事は正論だし、親分肌で男らしく、面倒見が良くて決断力があった。まあこれも勉強だと思ってここでやるしかないなと思った。

関内支店は4つのチームがあり、それぞれのチームがエリアを分けて担当する。僕のチームは横浜の山下町や鎌倉・三浦半島を担当し、アシスタントには僕よりずっと年上の30代と40代の女性2人がついた。当時僕は24歳だったが、ずっと年上の彼女達をどううまくまとめるかがチーム運営の鍵となる。

配属になった初日、他のチームの中にFさんという明るくて華やかな感じの女性がいて僕の眼を引いた。なんだか彼女の周りだけが光っているような感じで、さすが横浜に来るといい女がいるなーと期待に胸を膨らませた。

後で聞いたら大手保険会社に勤めた後、イベントのキャンペーンガールや司会をやっていた人で、歳は僕より1歳上、逗子に住む一流企業の重役の娘だった。社内でもイベントがあると司会をよくやっていて、明るくて華があって人前に出るのが大好きな人だった。華やかな女性に憧れていた僕は、なんとかFさんと仲良くなれないかなと思っていたが、彼女も僕に関心があったらしく、僕がどんな人物なのか、他のチームリーダーにいろいろ聞いていたという。

当初横浜や湘南エリアの地理に疎かった僕は、Fさんに湘南エリアの地理の質問をするような形で話をしていき、すぐに仲良くなっていった。関内支店に配属になって1ヶ月、Fさんに一度デートを申し込もうかなと考えていた矢先、僕を大きく変える最大の女性と出会うことになる。

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