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まさおレポート

「カラマーゾフの兄弟」奇跡、神秘、権威の難問

追記
ホモサピエンス全史でネアンデルタール人に打ち勝ったのはこの三つである奇跡、神秘、権威をホモサピエンスが獲得したからだとわたしなりに理解した。
 
時を離れた書物が語り合うとはこのことかな。
 
初稿2017年11月
奇跡、神秘、権威のうち、奇跡と神秘の差がよくわからなかった、 Wikipediaで調べても下記のように差がよくわからない。

神秘とは、人間の知恵では計り知れない不思議、普通の認識や理論を超えたこと、奇跡は、神など超自然のものとされるできごと。人間の力や自然法則を超えたできごととされること。

なのに「カラマーゾフの兄弟」では奇跡、神秘、権威が人をコントロールする三種の神器になっている。同じ意味のものを並べるはずがないので面食らってしまっていた。

「この地上には三つの力がある。ひとえにこの三つの力だけが、こういう非力な反逆者たちの良心を、彼らの幸せのために打ち負かし、虜にすることができるのだ。そしてこれら三つの力とは、奇跡、神秘、権威なのだ。・・・おまえはしらなかった。人間が奇跡を退けるや、ただちに神をも退けてしまう事をな。・・・そもそも人間は奇跡なしには生きることができないから、自分で勝手に新しい奇跡をこしらえ、まじない師の奇跡や、女の魔法にもすぐにひれ伏してしまう。例え、自分がどれほど反逆者であり、異端者であり、無神論者であっても。・・・おまえが降りなかったのは、あらためて人間を奇跡の奴隷にしたくなかったからだし、奇跡による信仰ではなく、自由な信仰を望んでいたからだ。・・・誓ってもいいが、人間というのは、お前が考えているよりもかよわく、卑しく創られているのだ!・・・人間をあれほど敬わなければ、人間にあれほど要求しなかっただろうし、そうすれば人間はもっと愛に近づけたはずだからな」 亀山訳p277

戦術と戦略、文化と文明も一応の説明はわかっても画然と分かち得ないものもあるので、わかったようでわからない主観に依存する分類にも見える。おなじように奇跡と神秘も主観に依存する分類かもしれない。

だがあえてドストエフスキーは別のものとして併記する。奇跡はリアル(少なくとも見た人には)な出来事であり、神秘はリアルではないが人々に漠然と奇跡がおこりそうな期待を抱かせる気配、そんなところではないか。奇跡は特定のものしかお目にかかれ無いが、それを伝え聞いた人は神秘を感じる、本人は目の前で奇跡を起こさないがなんだか奇跡を今にもおこしそうな雰囲気を持っている、そんな分類ではないか。

あるひとが奇跡を起こす人と認められるとそのひとは神秘的な空気をまとう。だから上述の引用で「人間が奇跡を退けるや、ただちに神をも退けてしまう事をな。」となる。なるほど少しはわかった気がする。

ところがでは悪魔が奇跡を起こしたのなら悪魔も神秘的になりその見分けがつかなくなる。「自分で勝手に新しい奇跡をこしらえ、まじない師の奇跡や、女の魔法にもすぐにひれ伏してしまう。」ということになる。奇跡による信仰は悪魔も神も同一視してしまう危険をはらむ。だから「おまえが降りなかったのは、あらためて人間を奇跡の奴隷にしたくなかったからだし、奇跡による信仰ではなく、自由な信仰を望んでいたからだ。」となる。

大審問官のセリフである「人間をあれほど敬わなければ、人間にあれほど要求しなかっただろうし、そうすれば人間はもっと愛に近づけたはずだからな」は一応最もであるが、何故かキリストは沈黙とキスで答える。この小説で最も難解な部分とされているところだが、さてどう考えて沈黙のキスで答えたのか。

奇跡は確かに有効だが同時に悪魔をも崇拝するという副作用をも持つことになる。だから奇跡、神秘、それによってもたらされる権力をあえて使わなかったのだ。しかしそれがかえって悪魔の奇跡でさえ求めるようになってしまった。最善を尽くしたが人に完璧ということはないのだ。それが回答ではなかったか。

(権威だが、これはあるいは共産党一党独裁のような権威を指しているのではにかとふと頭をかすめた。大審問官はドストエフスキーの予感、つまり来るべきソビエト共産党支配の予兆ではないかと。2021・4・23追記)

カラマーゾフの兄弟に関心のある方はどうぞ

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