まさおレポート

村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」と価値の序列

村上春樹にとって音楽、小説、セックス、料理、映画、服装はペシミズムを受け入れた後のささやかな幸せの象徴であり、それは一見同列の価値を持ち、ささやかな幸せではあるがなくては生きていけないほどの切実なものでもある。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」に散りばめられたこれらの価値あるもの、ことの記述を羅列してみるとこのことがよく分かる。そしてささやかな幸せのうちでも序列があるのではないかと想定して見るのも楽しい。序列がなんで分かる?答えは「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」中の出現回数であり文字数である。(序列は真面目にとって反論しないでほしい、正確に調べたのでもないし、あくまで遊びです)

音楽はどうか。ぶっちぎりの一位だ。

ロジャー・ウィリアムズが『枯葉』を弾いていた。

フランク・チャックスフィールド・オーケストラの『ニューヨークの秋』に変った。

次の曲はウディー・ハーマンの『アーリー・オータム』だった。

ジム・モリソンが死んで十年以上になるが、ドアーズの音楽を流しながら走っているタクシーにめぐりあったことは一度もない。

デパートの拡声装置からはレーモン・ルフェーブル・オーケストラが流れ、ビヤホールではポルカがかかり、歳末の商店街ではヴェンチャーズのクリスマス・ソングが聴こえるものなのだ。

ラヴェルの「ボレロ」を聴きながら小便をするというのは何かしら不思議なものだった。永久に小便が出つづけるような気分になってしまうのだ。

ジョニー・マティスのベスト・セレクションとツビン・メータの指揮するシェーンベルクの『浄夜』とケニー・バレルの『ストーミー・サンデイ』とデューク・エリントンの『ポピュラー・エリントン』とトレヴァー・ピノックの『ブランデンブルク・コンチェルト』と『ライク・ア・ローリング・ストーン』の入ったボブ・ディラン

私はボブ・ディランのテープをデッキにつっこんで『ウォッチング・ザ・リヴァー・フロー』を聴きながら

ボブ・ディランは『激しい雨』を唄いつづけていた。

まるでフルトヴェングラーがベルリン・フィルを指揮するのに使う象牙のタクトのような威圧感があった。

三オクターブぶんしかキイがなくて、五年も調律をしていないピアノを弾いているような気分だった。

清潔で静かなバーと、ナッツの入ったボウルと、低い音で流れるMJQの『ヴァンドーム』

ボブ・ディランは『ポジティヴ・フォース・ストリート』を|唄《うた》っていた。

「ボブ・ディランって少し聴くとすぐにわかるんです」と彼女は言った。
「ハーモニカがスティーヴィー・ワンダーより下手だから?」
「古い音楽が好きなんです。ボブ・ディラン、ビートルズ、ドアーズ、バーズ、ジミ・ヘンドリックス——そんなの」

私が適当に選んだテープにはジャッキー・マクリーンとかマイルズ・デイヴィスとかウィントン・ケリーとか、その手の音楽が入っていた。私はピツァが焼けるまで、『バッグズ・クルーヴ』とか『飾りのついた四輪馬車』とかを聴きながら一人でウィスキーを飲んだ。

スピーカーからはパット・ブーンの『アイル・ビー・ホーム』が流れていた。

彼女がパンティー・ストッキングをくるくると丸めるように脱いでいるところで曲はレイ・チャールズの『ジョージア・オン・マイ・マインド』にかわった。

私はビング・クロスビーの|唄《うた》にあわせて『ダニー・ボーイ』を唄った。

ミラー・ハイライフの金色の缶は秋の太陽に染まったようにきらきらと光り輝いていた。デューク・エリントンの音楽もよく晴れた十月の朝にぴたりとあっていた。もっともデューク・エリントンの音楽なら大みそかの南極基地にだってぴたりとあうかもしれない。

『ドゥー・ナッシン・ティル・ユー・ヒア・フロム・ミー』のユニークなローレンス・ブラウンのトロンボーン・ソロにあわせて口笛を吹きながら車を運転した。それからジョニー・ホッジスが『ソフィスティケーティッド・レディー』のソロをとった。

ついで小説は二位。

ウィリアム・シェイクスピアが言っているように、今年死ねば来年はもう死なないのだ。

ベッドに寝転んでツルゲーネフの『ルージン』を読んだ。本当は『春の水』を読みたかったのだが

私は泳ぎながらオルフェウスが死の国に辿りつくために渡らねばならなかった冥土の川のことを思いだした。

「『僕のせいじゃない』というのは『異邦人』の主人公の口ぐせだったわね、たしか。あの人なんていう名前だったかしら、えーと」
「ムルソー」と私は言った。

「ツルゲーネフ」
「ツルゲーネフはそんなたいした作家じゃないわ。時代遅れだし」
「そうかもしれない」と私は言った。「でも好きなんだ。フローベールとトマス・ハーディーも良いけど」
「新しいものは読まないの?」
「サマセット・モームならときどき読むね」
「サマセット・モームを新しい作家だなんていう人今どきあまりいないわよ」と彼女はワインのグラスを傾けながら言った。「ジュークボックスにベニー・グッドマンのレコードが入ってないのと同じよ」『剃刀の刃』なんて三回も読んだ。

そういう匂いについての良い描写がジョン・アップダイクの小説の中に出てくる、と言った。

「どうして離婚したの?」と彼女が|訊《き》いた。
「旅行するとき電車の窓側の席に座れないから」と私は言った。
「冗談でしょ?」
「J・D・サリンジャーの小説にそういう|科《せり》|白《ふ》があったんだ。高校生のときに読んだ」

「『カラマーゾフの兄弟』を読んだことは?」と私は訊いた。
「あるわ。ずっと昔に一度だけだけど」
「もう一度読むといいよ。あの本にはいろんなことが書いてある。小説の終りの方でアリョーシャがコーリャ・クラソートキンという若い学生にこう言うんだ。ねえコーリャ、君は将来とても不幸な人間になるよ。しかしぜんたいとしては人生を祝福しなさい」
 私は二本めのビールを飲み干し、少し迷ってから三本めを開けた。
「アリョーシャにはいろんなことがわかるんだ」と私は言った。「しかしそれを読んだとき僕はかなり疑問に思った。とても不幸な人生を総体として祝福することは可能だろうかってね」 

まるでウィリアム・シェイクスピアの科白みたいだ。世界は台所だ。

セックスは三位

おそらく街は僕が彼女と寝ることを望んでいるのだろうという気がした。彼らにとってはその方がずっと僕の心を手に入れやすくなるのだ。

セックスというのはきわめて微妙な行為であって、日曜日にデパートにでかけて魔法瓶を買ってくるのとはわけが違うのだ。

「セックスってあなたはいつも前からやるの? 向いあったまま?」
「まあね。だいたいは」
「うしろからやるときもあるんでしょ?」
「うん。そうだね」
「それ以外にもいろいろと種類があるんでしょ? 下になるのとか、座ってやるのとか、椅子を使うのとか……」
「いろんな人がいるし、いろんな場合があるからね」
「セックスのことって、私よくわからないの」と彼女は言った。「見たこともないし、やったこともないし。そういうことって誰も教えてくれなかったの」
「そういうのは教わるもんじゃなくて、自分でみつけるものなんだよ」と私は言った。「君にも恋人ができて彼と寝るようになればいろいろと自然にわかるようになるさ」
「そういうのあまり好きじゃないのよ」と彼女は言った。「私はもっと……なんていうか、圧倒的なことが好きなの。圧倒的に犯されて、それを圧倒的に受け入れたいの。いろいろととか自然にじゃなくてね」 

このようにたくさんの数の女と寝れば寝るほど、人間はどうも学術的になっていく傾向があるみたいだ。性交自体の喜びはそれにつれて少しずつ減退していく。性欲そのものにはもちろん学術性はない。しかし性欲がしかるべき水路をたどるとそこに性交という滝が生じ、その結果としてある種の学術性をたたえた滝つぼへと辿りつくのだ。そしてそのうちに、ちょうどパブロフの犬みたいに、性欲から直接滝つぼへという意識回路が生まれることになる。

そして私の手からグラスをとり、シャツのボタンをいんげんの筋をとるときのようにひとつずつゆっくりと外していった。

料理は四位。

「向いに『サーティーワン・アイスクリーム』があるから、それを買ってきてくれる? コーンのベースのダブルで、下がピスタチオ、上がコーヒーラム。大丈夫、覚えた?」

「デニーズ」の看板だろうが、交通標識だろうが、私の顔だろうが、べつになんだってよかったのだ。

まずオードヴルに小海老のサラダ苺ソースかけと生ガキ、イタリア風レバームース、イカの墨煮、なすのチーズ揚げ、わかさぎのマリネをとり、パスタに私はタリアテルカサリンカを、彼女はバジリコ・スパゲティーを選んだ。

マカロニの魚ソースあえ

「アーモンドをあしらった蒸し焼き

「それにほうれん草のサラダとマッシュルーム・リゾット」
「私は温野菜とトマト・リゾット」
「デザートには葡萄のシャーベットとレモン・スフレとエスプレッソ・コーヒー」

「バター・ソースの作り方にコツがあるんだ」と私は言った。「エシャロットを細かく切って良いバターに混ぜて、丁寧に焼くんだ。焼くときに手を抜くと良い味がつかない」

「ベイリーフとオレガノがあればもっとうまくできたよ」

映画は五位。

生きることは決して容易なことではないけれど、それは私が私自身の裁量でやりくりしていることなのだ。だからそれはそれでかまわない。『ワーロック』のヘンリー・フォンダと同じだ。

そのあいだ私はずっとベン・ジョンソンのことを考えていた。馬に乗ったベン・ジョンソンの姿だ。『アパッチ砦』や『黄色いリボン』や『幌馬車』や『リオ・グランデの砦』に出てくるベン・ジョンソンの乗馬シーンを私はできる限り頭の中に思い浮かべた。

私は彼女が公園の中のまっすぐな道を歩き去っていくうしろ姿を『第三の男』のジョセフ・コットンみたいにじっと見ていた。

『眼下の敵』にこういうシーンがあったような気がした。私が耳を澄ませているその下で、彼女の巨大な胃がクルト・ユルゲンスの乗ったUボートみたいにひっそりと消化活動を行なっているのだ。

服装については 六位になる。

まるであらゆるものを貪欲に呑み込んでいくハーポ・マルクスのコートみたいだ。

バーに行く前にまず洋服を作る必要がある。ダーク・ブルーのツイードのスーツにしよう、と私は決めた。品の良いブルーだ。ボタンが三つで、ナチュラル・ショルダーで、脇のしぼりこまれていない昔ながらのスタイルのスーツ。一九六〇年代のはじめにジョージ・ペパードが着ていたようなやつだ。シャツはブルー。しっくりとした色あいの、少しさらしたようなかんじのブルー。生地は厚めのオックスフォード綿で、|襟《えり》はできるだけありきたりのレギュラー・カラー。ネクタイは二色のストライプがいい。赤と緑。赤は沈んだ赤で、緑は青なのか緑なのかよくわからない、嵐の海のような緑だ。

 その他車などもあるが省略します。

村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」と唯識

 

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今日の笑い 「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」村上春樹より

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