琴欧洲の初優勝は、草葉の陰から見守る先代の佐渡ヶ嶽親方も感無量でしょうね。大関本人も恩義を忘れず仏壇に毎日手を合わせていたといいますが、娘婿の現親方もひとまずホッとしていることでしょう。一方、間垣親方は例の騒動が発覚した直後の発言に非難轟々、再発防止委員会から「理事としての責任」を問う声が続出し、29日の理事会では降格も含む厳しい処分が下される見込みとなったようです。
間垣親方は当初「いけないことをしたからヤキを入れるのは当たり前。やり過ぎた思いはない。立ち直れよ、というのが“かわいがり”。どこの部屋でもやっている。それがなくなったら相撲界じゃない」(スポーツ報知)と語っていたそうですが、その後に元大鵬親方の納谷幸喜氏から「時代が違う!」と強くたしなめられたことで、翌日の会見で「悪いことをした子を良くしてやろうとしたが、やりすぎた。本人にも謝った。今後は違う指導法をしていかないといけない」「反省した。おれが現役の頃は毎日、部屋で誰かがやられているのを見たが、今はそれは通用しない。竹刀はもう使いたくない」(朝日新聞)と、今度は一転して非を認めました。
ここで、陳謝する前に間垣親方が訪れた先が元大鵬親方だったというのが、ちょっと切ない。もちろん納谷幸喜氏は著名な大横綱にして、定年退職したとはいえ二所ヶ関一門の有力OBですから、相談したって別に構わないのですが、普通親を叱れるのは、その親であるジジババだけです。あの傲岸不遜な海原雄山が唯一頭が上がらないのが唐山陶人であり、星野監督だってもし島岡御大が存命であれば、ピンチや重大な局面では真っ先にアドバイスを乞いに師を訪ねることでしょう。師匠というのは、自分がその道で食べていけるように導いてくれた存在であり、人によっては親以上の関係です。
間垣親方の師匠は先代の二子山親方です。相撲取りは若い頃からの暴飲暴食でほとんど例外なく短命なんですが、現役時代のライバルだった春日野理事長はもう18年前に鬼籍に入り、ご存知のように実弟の二子山親方(元大関・貴ノ花)もガンに冒され3年前に55歳の若さでこの世を去りました。間垣親方も2年前に脳内出血で手術してからは車椅子生活を余儀なくされています。それとは対照的に、花田勝治翁の方は今年80歳を迎えようとしていますが、「健康法は毎日2時間半歩くことと少量の酒」と語り元気一杯です。若い頃の鍛え方が違うといわれればそれまでですが、人を食って生きてきた人だけに、きっと生命力が半端じゃないんでしょう。それにしても、一連の若貴騒動から今回の間垣親方の弟子殴打事件まで、全てこの花田勝治氏のDNAに起因するところ大だと思うので、この妖怪のような爺さんがどんな人物だったのか振り返ってみる必要があります。
“土俵の鬼”初代若乃花幹士は栃錦とともに戦後初の黄金期の立役者であり相撲史に残る名横綱だったのは万人が認めるところです。さらに彼が引退後に興した二子山部屋は、2代目若乃花(間垣親方)と隆の里(鳴戸親方)という青森から同時に夜行列車で連れてきた同期二人の横綱、弟の貴ノ花と若島津(松ヶ根親方)という大関、他にも大寿山や若獅子など印象的な多くの関取を輩出し、昭和50年代の同部屋は若貴時代以上に大変な隆盛ぶりで、二子山親方は角界屈指の名伯楽の名もほしいままにしました。しかし「人間辛抱だ」という彼の有名なセリフは、実は「周囲の人間に辛抱を強いる」という意味だったのかと思わせるほど、私生活はトンデモないものだったのです。
四股名と親方名が重複するので、ここで登場人物を整理します。
初代若乃花(花田勝治氏)→ 先代
初代貴ノ花(故花田満氏、藤島親方)→ 二子山親方
二代目若乃花→ 間垣親方
三代目若乃花→ 花田勝氏
二代目貴乃花(花田光司)→ 貴乃花親方
と以下は呼ぶことにします。
先代は「英雄色を好む」とか「艶福家」という生易しいレベルではない、病的な女好きでした。西武グループの創始者である堤康次郎も女中、社員、部下の妻、乗っ取った会社の娘、華族の娘など片っ端から手篭めにして、死後に実子の数が把握できないほどだったことは有名ですが、先代も若い頃から裸一貫で大家族を稼ぎで養ってきたゴッドファザーだったこともあって、愛人との間に子どもが出来ては金を渡して親族に引き取らせるという、まさにやりたい放題でした。
『花田家の隠し子―アボジと呼ばせて…』は先代と韓国人の愛人との間に生まれた子の半生の手記です。この本には、先代の女性への執着と吝嗇ぶり、冷たさなどが生々しく書かれているのですが、この花田河成氏は中学生の頃に来日したものの、父の不実や民族差別によってグレてしまいます。そこで彼は己の体一つで勝負できる相撲界に身を投じる決意をしたのですが、さすがに自分の部屋で隠し子を引きとるわけにはいかなかった先代は、弟の藤島親方(当時)に息子を預けることになりました。そして河成氏は、入門が決まって最初に藤島親方(元・貴ノ花)にかけてもらった温かい言葉が忘れられないと述懐しています。「おう、お前が河成か、随分苦労したんだろう?」
これは、「実弟」として「弟子」として、兄をつぶさに見てきた二子山親方(当時・藤島親方)の万感の思いが詰まっている一言です。ほかならぬ親方自身が先代に翻弄された人生を送ってきたからです。その女癖と子どもが出来た際の処理方法、22歳差という年齢差から、二子山も先代の「弟」ではなく「息子」ではないかと疑う噂もあります。でもこれは、貴乃花親方が輪島と藤田憲子との間に産まれた子(あの体格と天才的な相撲センスには共通点がありますが・・・)だという説と同様に、イマイチ信憑性が足りず2ch伝説の域を出ていません。しかし、もう一つのお話―花田勝氏が先代の子だというのは凄いリアリティーを感じます。
名前:花田勝治≒花田勝
顔:イノシシのような顔
体格:小兵でカモシカのような鍛え上げられたふくらはぎ
先代はことのほか「甥っ子」の花田勝氏を可愛がり、オールドファンに言わせると相撲スタイルも両者は酷似していたそうです。貴乃花親方は、例の遺産相続問題の際、この花田勝治・勝連合軍に嫌悪感を隠そうとせず、先代の説教に対して「あんたには言われたくないよ」とエキサイトしていたのが印象的です。雑誌のインタビューでも、兄が本当は先代の子であるのでは? と問われて、「深~い事情があるんじゃないですか」と半ば噂を肯定していたものでした。
先のエントリーでも書いたように、お子様だった私は、2代目若乃花(間垣親方)がなぜ先代の娘と離婚して、愛人のクラブママと再婚したのか理解できませんでした。幸子夫人は決してブスではなかったし、相撲をとるか女をとるかの選択で迷わず女をとったことに驚いたのです。でも今になって考えると、間垣親方は、幸子さんのことはともかく、先代と親子になることに抵抗があったのではないかと思うのです。(実際、いやいやながら娘と結婚した)自分を横綱まで育ててくれた師匠へのリスペクトや感謝はあっても、このドロドロファミリーの中に入って、長く親戚付き合いするのはまっぴらご免だったんでしょう。そりゃあ、情の濃い銀座のママと一緒に独立した方がいいに決まってます。こうして間垣親方は、育ての親と断絶するに至りました。
今でこそ、朝青龍などが結婚式のご祝儀を親方がピンはねする角界の封建的な因習に対して「ざけんじゃねえ!」と暴れていますが、昔は師匠の命令は絶対でした。あの大横綱の北の湖でさえ、強欲で息子の増位山に財産を残すことしか考えていなかった三保ヶ関親方に相当搾取されたようで、自分の個人後援会もなかなか持たせてもらえなかったというのはよく知られた話です。それでも当時は皆が唯々諾々と従っていたんですね。
芸能人(高田みずえ)と結婚した松ヶ根親方(若島津)、今をときめく稀勢の里の師匠で、ちゃんこの本も出して日経のスポーツ欄にもコラム連載経験がある「おしん横綱」鳴戸親方(隆の里)、そして間垣親方と、マスコミ受けする二子山部屋OBが揃っているのに、一連の若貴骨肉争いの狂騒の中、どのメディアにも一切のコメントを見ることはありませんでした。一族の事情を相当詳しく知っているインサイダーなのにもかかわらず・・です。もちろん彼らは現役の協会幹部であり、龍虎あたりのお気楽なタレントとは違ってペラペラ喋れません。プライベートな問題に口を挟まないのは、彼らの品性だったともいえますが、私は先代が存命中は、その強い呪縛からは自由になれないのだろうと感じていました。
弟子への暴力についてですが、先代の二子山親方自身が猛烈なスパルタ指導で鳴らした人です。起床時間に稽古場に降りて来なかった弟子に、布団が朱く染まるほど竹箒でめった打ちにしたという逸話が残っているし、そもそも先代の兄弟子はあの力道山です。力道山のシゴキは壮絶を極めたといわれます。初代若乃花やプロレス時代の弟子だったアントニオ猪木のように、入門前の過酷な労働の経験と強烈なハングリー精神でもなければ、とても耐えられるようなものではなかったでしょう。
先代も厳しく寡黙で口下手な人でした。間垣親方も好むと好まざると、師匠のビヘイビアをしっかり受け継いでいるように見えます。元大鵬親方ではなく、本当の師匠である先代から「時代が違うんだよ」と諭されたなら、納得感が違ったのかなと思うのです。
間垣親方は当初「いけないことをしたからヤキを入れるのは当たり前。やり過ぎた思いはない。立ち直れよ、というのが“かわいがり”。どこの部屋でもやっている。それがなくなったら相撲界じゃない」(スポーツ報知)と語っていたそうですが、その後に元大鵬親方の納谷幸喜氏から「時代が違う!」と強くたしなめられたことで、翌日の会見で「悪いことをした子を良くしてやろうとしたが、やりすぎた。本人にも謝った。今後は違う指導法をしていかないといけない」「反省した。おれが現役の頃は毎日、部屋で誰かがやられているのを見たが、今はそれは通用しない。竹刀はもう使いたくない」(朝日新聞)と、今度は一転して非を認めました。
ここで、陳謝する前に間垣親方が訪れた先が元大鵬親方だったというのが、ちょっと切ない。もちろん納谷幸喜氏は著名な大横綱にして、定年退職したとはいえ二所ヶ関一門の有力OBですから、相談したって別に構わないのですが、普通親を叱れるのは、その親であるジジババだけです。あの傲岸不遜な海原雄山が唯一頭が上がらないのが唐山陶人であり、星野監督だってもし島岡御大が存命であれば、ピンチや重大な局面では真っ先にアドバイスを乞いに師を訪ねることでしょう。師匠というのは、自分がその道で食べていけるように導いてくれた存在であり、人によっては親以上の関係です。
間垣親方の師匠は先代の二子山親方です。相撲取りは若い頃からの暴飲暴食でほとんど例外なく短命なんですが、現役時代のライバルだった春日野理事長はもう18年前に鬼籍に入り、ご存知のように実弟の二子山親方(元大関・貴ノ花)もガンに冒され3年前に55歳の若さでこの世を去りました。間垣親方も2年前に脳内出血で手術してからは車椅子生活を余儀なくされています。それとは対照的に、花田勝治翁の方は今年80歳を迎えようとしていますが、「健康法は毎日2時間半歩くことと少量の酒」と語り元気一杯です。若い頃の鍛え方が違うといわれればそれまでですが、人を食って生きてきた人だけに、きっと生命力が半端じゃないんでしょう。それにしても、一連の若貴騒動から今回の間垣親方の弟子殴打事件まで、全てこの花田勝治氏のDNAに起因するところ大だと思うので、この妖怪のような爺さんがどんな人物だったのか振り返ってみる必要があります。
“土俵の鬼”初代若乃花幹士は栃錦とともに戦後初の黄金期の立役者であり相撲史に残る名横綱だったのは万人が認めるところです。さらに彼が引退後に興した二子山部屋は、2代目若乃花(間垣親方)と隆の里(鳴戸親方)という青森から同時に夜行列車で連れてきた同期二人の横綱、弟の貴ノ花と若島津(松ヶ根親方)という大関、他にも大寿山や若獅子など印象的な多くの関取を輩出し、昭和50年代の同部屋は若貴時代以上に大変な隆盛ぶりで、二子山親方は角界屈指の名伯楽の名もほしいままにしました。しかし「人間辛抱だ」という彼の有名なセリフは、実は「周囲の人間に辛抱を強いる」という意味だったのかと思わせるほど、私生活はトンデモないものだったのです。
四股名と親方名が重複するので、ここで登場人物を整理します。
初代若乃花(花田勝治氏)→ 先代
初代貴ノ花(故花田満氏、藤島親方)→ 二子山親方
二代目若乃花→ 間垣親方
三代目若乃花→ 花田勝氏
二代目貴乃花(花田光司)→ 貴乃花親方
と以下は呼ぶことにします。
先代は「英雄色を好む」とか「艶福家」という生易しいレベルではない、病的な女好きでした。西武グループの創始者である堤康次郎も女中、社員、部下の妻、乗っ取った会社の娘、華族の娘など片っ端から手篭めにして、死後に実子の数が把握できないほどだったことは有名ですが、先代も若い頃から裸一貫で大家族を稼ぎで養ってきたゴッドファザーだったこともあって、愛人との間に子どもが出来ては金を渡して親族に引き取らせるという、まさにやりたい放題でした。
『花田家の隠し子―アボジと呼ばせて…』は先代と韓国人の愛人との間に生まれた子の半生の手記です。この本には、先代の女性への執着と吝嗇ぶり、冷たさなどが生々しく書かれているのですが、この花田河成氏は中学生の頃に来日したものの、父の不実や民族差別によってグレてしまいます。そこで彼は己の体一つで勝負できる相撲界に身を投じる決意をしたのですが、さすがに自分の部屋で隠し子を引きとるわけにはいかなかった先代は、弟の藤島親方(当時)に息子を預けることになりました。そして河成氏は、入門が決まって最初に藤島親方(元・貴ノ花)にかけてもらった温かい言葉が忘れられないと述懐しています。「おう、お前が河成か、随分苦労したんだろう?」
これは、「実弟」として「弟子」として、兄をつぶさに見てきた二子山親方(当時・藤島親方)の万感の思いが詰まっている一言です。ほかならぬ親方自身が先代に翻弄された人生を送ってきたからです。その女癖と子どもが出来た際の処理方法、22歳差という年齢差から、二子山も先代の「弟」ではなく「息子」ではないかと疑う噂もあります。でもこれは、貴乃花親方が輪島と藤田憲子との間に産まれた子(あの体格と天才的な相撲センスには共通点がありますが・・・)だという説と同様に、イマイチ信憑性が足りず2ch伝説の域を出ていません。しかし、もう一つのお話―花田勝氏が先代の子だというのは凄いリアリティーを感じます。
名前:花田勝治≒花田勝
顔:イノシシのような顔
体格:小兵でカモシカのような鍛え上げられたふくらはぎ
先代はことのほか「甥っ子」の花田勝氏を可愛がり、オールドファンに言わせると相撲スタイルも両者は酷似していたそうです。貴乃花親方は、例の遺産相続問題の際、この花田勝治・勝連合軍に嫌悪感を隠そうとせず、先代の説教に対して「あんたには言われたくないよ」とエキサイトしていたのが印象的です。雑誌のインタビューでも、兄が本当は先代の子であるのでは? と問われて、「深~い事情があるんじゃないですか」と半ば噂を肯定していたものでした。
先のエントリーでも書いたように、お子様だった私は、2代目若乃花(間垣親方)がなぜ先代の娘と離婚して、愛人のクラブママと再婚したのか理解できませんでした。幸子夫人は決してブスではなかったし、相撲をとるか女をとるかの選択で迷わず女をとったことに驚いたのです。でも今になって考えると、間垣親方は、幸子さんのことはともかく、先代と親子になることに抵抗があったのではないかと思うのです。(実際、いやいやながら娘と結婚した)自分を横綱まで育ててくれた師匠へのリスペクトや感謝はあっても、このドロドロファミリーの中に入って、長く親戚付き合いするのはまっぴらご免だったんでしょう。そりゃあ、情の濃い銀座のママと一緒に独立した方がいいに決まってます。こうして間垣親方は、育ての親と断絶するに至りました。
今でこそ、朝青龍などが結婚式のご祝儀を親方がピンはねする角界の封建的な因習に対して「ざけんじゃねえ!」と暴れていますが、昔は師匠の命令は絶対でした。あの大横綱の北の湖でさえ、強欲で息子の増位山に財産を残すことしか考えていなかった三保ヶ関親方に相当搾取されたようで、自分の個人後援会もなかなか持たせてもらえなかったというのはよく知られた話です。それでも当時は皆が唯々諾々と従っていたんですね。
芸能人(高田みずえ)と結婚した松ヶ根親方(若島津)、今をときめく稀勢の里の師匠で、ちゃんこの本も出して日経のスポーツ欄にもコラム連載経験がある「おしん横綱」鳴戸親方(隆の里)、そして間垣親方と、マスコミ受けする二子山部屋OBが揃っているのに、一連の若貴骨肉争いの狂騒の中、どのメディアにも一切のコメントを見ることはありませんでした。一族の事情を相当詳しく知っているインサイダーなのにもかかわらず・・です。もちろん彼らは現役の協会幹部であり、龍虎あたりのお気楽なタレントとは違ってペラペラ喋れません。プライベートな問題に口を挟まないのは、彼らの品性だったともいえますが、私は先代が存命中は、その強い呪縛からは自由になれないのだろうと感じていました。
弟子への暴力についてですが、先代の二子山親方自身が猛烈なスパルタ指導で鳴らした人です。起床時間に稽古場に降りて来なかった弟子に、布団が朱く染まるほど竹箒でめった打ちにしたという逸話が残っているし、そもそも先代の兄弟子はあの力道山です。力道山のシゴキは壮絶を極めたといわれます。初代若乃花やプロレス時代の弟子だったアントニオ猪木のように、入門前の過酷な労働の経験と強烈なハングリー精神でもなければ、とても耐えられるようなものではなかったでしょう。
先代も厳しく寡黙で口下手な人でした。間垣親方も好むと好まざると、師匠のビヘイビアをしっかり受け継いでいるように見えます。元大鵬親方ではなく、本当の師匠である先代から「時代が違うんだよ」と諭されたなら、納得感が違ったのかなと思うのです。
なんか同年代か少し上の方に読んでいただいて嬉しいです。加えて、そのハンドルネームにじーんときました。「朝ノ花」は、若三杉になる前、本名の下山から初めて襲名した四股名ですもんね。
こちらにたどり着きました。
今日は北の湖前理事長の八百長疑惑裁判の件で
久しぶりに相撲のことを思い出したものですから。
私も若三杉が大好きで、私の中では未だに
間垣親方はわかみすぎなんですねぇ。
大関になった頃、私は小学校高学年でしたから
もう30年以上前なんですね。
なんだか懐かしくて懐かしくて…
素敵なブログでした。
最近の思い出は、15年くらい前、若貴騒動の頃の
9月場所を見に行った時に、まだ下位の取り組み
だったのでちゃっかり升席に座ったところ、
目の前の審判が間垣親方だったのですよね~♪
ああ、元気で頑張っているなあって。
最近は病気で大変そうですが、応援していきたいですね。