ことばと学びと学校図書館etc.をめぐる足立正治の気まぐれなブログ

社会を正気に保つ学びとは? powered by masaharu's own brand of life style!

学校図書館と一般意味論:年頭に去来する想い

2016年01月05日 | 知のアフォーダンス

 

「この国はどこへ向かっていくのか? 不安な気持ちにかられる戦後70年の年を越しました」

 1970年代に共に一般意味論への道を歩みはじめた友人から届いた年賀状の書き出しである。昨今の政治的情況ばかりでなく社会のあまりにも性急な変わりように、自分もまったく同じ気持ちで新年を迎えた。それは国際社会に目を転じても変わらない。この世界は、そして人類は、いったいどこへ向かっていくのだろう?
 彼女はつづける。「そのような時を経つつも、いのちの大いなるうねりは、人間の思惑をはるかに越えたところで継続していきます。虚しさに呑み込まれず、ささやかな日々の営みに思いを込め、いとおしみながら今年も過ごすことができるよう、祈るばかりです」
 そう、「虚しさに呑み込まれず、ささやかな日々の営みに思いを込め」て生きることが、狂気への暴走を抑制し、世の中を正気に保つ力となって「いのちの大いなるうねり」に合流することを信じたい。


 あらためまして

みなさん、明けまして、おめでとうございます。

冒頭に紹介した友人の年賀状に触発されて、今日は、2016年を迎えて去来する私の想いを綴ることにします。

 定年退職して早や10年がすぎようとしている。大学を卒業すると同時に高校の教員となり、昨年7月に大学の授業を終えるまで、50年以上も教職をつづけてきた。仕事を辞めた当初は寂しさもあったが、ひとつ肩の荷を下ろせたことが爽快でもあった。そして、多少なりともゆとりをもって日々の営みのひとつにとつに思いを込めることができるようになった。好きな本を読み、自分で三度の食事の支度をし、気ままに出歩き、音楽や美術、落語などを楽しむ機会も多くなった。人と会うことも少なくない。若い友人たちと勉強会や読書会もつづけている。だが、最近、一抹の不安がつのりはじめた。このままの生活をつづけていていいのだろうか。何か肝心のものが足りない。
 ふと思いついて、5年前に中村百合子さんたちが、ぼくのライフヒストリーを聞いて、つくってくださった一冊の本を取り出してきた。『Here Comes Everybody-足立正治の個人史を通して考える教育的人間関係と学校図書館の可能性』(自費出版)。長ったらしいが、私の人生の節目となった2010年のトークセッションに込めた想いをタイトルにした。あのとき、自分の歩んできた道を振り返って考えたことは、その後の生き方をどのように方向づけたのか。それを再確認することで、いま感じている「もの足りなさ」を払拭する手がかりがつかめるかもしれない。そんな想いでページをめくっていると、土居陽子さんが寄稿してくださった「図書館~ひろば~コミュニケーション~一般意味論」という文章が目にとまった。確固たる信念や目的があるわけでもなく、その時々を気まぐれに生きてきた私の人生を象徴するような中途半端でとりとめのないエピソードのなかから、土居さんは4つのキーワードを抽出して、つなげてくださった。以下、その文章の一部を引用させていただく。(以下、ページ数はすべて上掲書)

-甲南の図書館自体が、学習の場であると同時に学校の中の「ひろば」として、心にゆとりを持って自分を取り戻す場、「何かいいことがありそうだ」と期待できる場になっているということはもちろん、あの会も、足立氏を中心にした様々な繋がりの人が集う「ひろば」であった。学校図書館にかかわっていても普段は違った研究の場を持っている人との交流、学校図書館とは直接関係のない人たちとの出会い、それらをとおして新しい刺激を受け、世界が広がった-(p.131)

 「ひろば」は、子どものために大人が用意してあげるものであるよりも、むしろ、わたしたち大人こそが必要としているのではないか。ゲストとして一般意味論のトークとワークをしてくださった片桐ユズルさんも、あの日のセッションをこう評してくださった。

-ひろばでよかったですよ。最近はひろばというものが減ってきました。特殊化、専門のコミュニティになってきています-(p.80)

 土居さんは、図書館が「ひろば」として機能した事例をいくつか挙げた上で・・・

-どの事例にもその陰に多くのコミュニケーションと資料や情報の提供があったことは想像に難くない。一人ひとりの一言を、その要求は言うまでもなく、言葉にならない思いまでをすくい上げる「人」が図書館にいたからこそ、図書館が「ひろば」になりえた-(p.133)

 そして、ご自身の経験を振り返って・・・

-コミュニケーションは大切だけれど、難しい。私自身、単に言葉と言葉のやり取りで終わったり、同じ言葉を用いながらお互いにイメージするものが違っていたり、本音で話し合えなかった苦い経験がある-(p.133)

 土居さんは、片桐ユズルさんのトークとワークをとおして、この日、はじめて触れた一般意味論を次のようにとらえておられる。

-私たちが認識できることは現実のごく一部であり、ことばで表現できることには限界がある。条件によって、立場によって、認識の違いがあり、それもまた全てをことばで表現することはできない。そしてことばで表現された認識をもとに新たな認識が生まれるという繰り返しが行われているわけで、常に表現されない現実が隠れていることを意識しなければならない-(p.133)

 科学認識論(エピステモロジー)を日々の営みに活かして正気で生きる道を探るために開発された一般意味論の体系を身につけることによってコミュニケーションとクリティカルシンキング(批判的思考)の力を育むことは、あらゆる人間活動の基盤となるだろう。

 土居さんの文章は、つぎのように結ばれる。

-一般意味論を意識することがコミュニケーションを円滑にし、図書館を「ひろば」として発展させる大きな力になると思う‐(p.133)

 「図書館」を軸にして学校教育を支えてこられた土居さんと、「一般意味論」をよりどころにさまざまな活動をおこなってきた私は、「ひろば」と「コミュニケーション」というキーワードを介してつながっている。そう考えると、学校図書館の人たちとともに学校教育の在り方を問い直していくことと、一般意味論のさらなる可能性を拓いていくことは、現職を退いたこれからも私に課せられたライフワークあるいは使命といえるかもしれない。それは、老いてもなお自分を拡張し、人として成長をつづけるいのちの営みでもある。
 まずは土居さんのメッセージに励まされて、目前の学校図書館自主講座とジョン・デューイの読書会に仲間とともに力を注ぐことにしよう。そして、一般意味論については、2007年のブログに「近いうちに論じる」と書いたままになっている、サミュエル・ボア(Samuel Bois “The Art of Awareness”)の認識論的プロフィール(p.180)の第5段階「参加」について、そろそろ自分の考えをまとめる時期にきている。
 個人主義的な生活サイクルに埋没しかけていた私の前に、世代を超えた協同探究への参加の道が開かれている。

つながりを活かす学校図書館

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 中村百合子編『学校経営と学... | トップ | 探究学習における省察(reflec... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

知のアフォーダンス」カテゴリの最新記事