~認識論的プロフィール(意味論的スペクトル)の勧め~
フランスの哲学者ガストン・バシュラール(『否定の哲学』中村雄二郎、遠山博雄訳、白水社、1978)によれば、西欧文化は何段階かの認識モデルの飛躍を経て発展してきた。この飛躍は個人の成長過程においても繰り返され、世界への適応能力を増していく。しかし、新しい認識モデルを獲得しても、人は古いモデルを捨ててしまうわけではない。私たちは、21世紀に生きていても、心理的には中世かそれ以前と変わらなかったり、学問においては現代の知的素養を身につけていても、日常の私的な生活においては原始人の反応を示すこともありうる。バシュラールは、各段階の認識モデルが日常生活で適用される頻度を観察して分布を調べ、どの段階が優位を占めているか、その偏りや粗密を「認識論的プロフィール」によって表わすことを提案した。ここでは、バシュラールの考え方を受け継いだサミュエル・ボワ(Samuel Bois “The Art of Awareness”1966)を参考にしながら、各段階の特徴を概観しておく。
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The Art of Awareness: A Textbook on General Semantics and Epistemics William C Brown Pub このアイテムの詳細を見る |
1 実感の段階 世界は自分が感じたままのものであると信じ込んでいる素朴な原始的アニミズムの段階。世界は気まぐれな神々や精霊たちによって支配されていて、人間の力ではどうにもならない。宗教的な儀式や呪術的慣習を重んじ、迷信を信じ、お守りを持ち歩き、占いによって自分の行動を決める。あらゆる事象は擬人化され、世界は自分と自分の欲しいものによって成り立っている。このような心性を持った人々にとっては、自分の身に降りかかるすべてのことは他者や環境や運命のせいであり、反省されない生の感情をぶつけることが、ありのままに生きることである。
2 分類の段階 世界は言語が表わすままに存在すると信じている段階。分類や統計的数値によって対象を客観的に把握しようとする。単純で明快な思考や論理を尊び、イエスかノーかの意思決定を短時間に行うことが有能とされる。ことばの「正確な」定義や、ある事象にたいして「真の」原因を求める。世界への適応力を増すには、多くの知識と緻密な分類が必要だと考える。
3 関係の段階 世界は自分の外にあって客観的に観察し制御できると信じて、そのための方法や道具を開発する。観察にもとづいて理論を立て、その理論から新たな発見が導かれる。「科学的態度をとること」が至高の価値であると信じている。世界は相互に関連する部分や要素の複合体であって、ある事態が生じると、それに先立つ多くの出来事の総合的な結果であると考える。状況の変化に応じて習慣や態度を修正し、臨機応変に対応できるしなやかさを備えている。
4 仮説と創造の段階 世界の構造は仮説の体系から成り立っていると信じている段階。客観性よりも世界と私たち自身とのかかわりを重視する。何の固定観念もなく、既成の思考モデルで問題が解決できないと分かれば、容易に別のモデルに移ることができる。100パーセント正しいものはなく、予測はたんなる可能性にすぎない。ひとつの事象にたいして、いくつかの説明が可能である。光はエネルギーの波ともいえるし、粒子のシャワーともいえる。人間の行動は、厳密な決定論の立場からも自由選択の観点からも説明できる。以前に否定していた価値はさらに大きい価値体系に組み込まれ、相互に排除しあってきた関係は、さらに高いレベルにおいて包含され、相補的関係として認識される。自分の経験について、経験の仕方に気づく。仮説の段階で、既成のものの絶対的な力が弱まり、知識体系、制度、存在において私たちを支配しているものの影響力が崩れることになれば、創造の可能性が開かれることになるだろう。20世紀は物理学など科学の分野では大きな革新をとげたが、人間の生き方の革新は、まだ始まったばかりである。身近な夫婦関係から国際政治にいたるまで人間の活動のあらゆる局面において人々がもっと頻繁にこの仮説の段階で機能できるように手助けすることであるといってよい。
では、ここで第1段階から第4段階までを、具体的な事例で考えてみよう。たとえば「うちの子は問題だ」といった場合の、「問題」という言葉に対する反応を調べてみると、問題という言葉や状況に対して、第1段階では、心配で、困惑し、不安で、我慢の限界だといった無批判で無条件の反応が支配している。問題について考えるという段階には至っていない。これが第2段階になると、問題と子どもを分類しようとする。問題の「真の」原因を探し求める。その理由とその背後に解決法があると考えて、次のように問いかける。「あの子は怠け者なのか」「悪い友達と付き合っていないか」「昨日、先生に言われたことに腹を立てたのか」「ノイローゼなのか」その子どもについてすでに結論を持っているなら、自分がその子について以前から考えていることの証拠として、問題を解釈するかもしれない。 第3段階になると、事態はそう単純ではない、この状況にはたくさんの要因が絡んでいそうだ、と分りはじめる。「現在の状況とのかかわりの中で、家庭や学校、その他のところで、どんなことが起こっているのか」「本人自身はどうありたいと思っているのか」「過去にどんなことがあっただろうか」など、さまざまな要因との関係という視点に立って考え、自分の手が届き、事態の改善に影響するとみられる要因を見つけて問題解決をはかる。
第4段階に入ると、進行中の事態に自分も関与しているのだと自覚するようになる。問題を解決するために「まず自分をどのように律すればよいか」を考える。ひとつの事態に対して、幾通りものストーリーが語られうるということも分かっている。これまでは「子どもの問題」というものがあって、客観的に観察することで解決できそうに思っていたが、自分も含めたさまざまな要因が複雑に絡み合っていることが分かる。問題状況の構図は、それに関与する者それぞれによって異なり、それぞれの立場によって関与の仕方も違ってくる。そもそも「問題」だと認識するに至った土台(常識、論理、前提など自分がよりどころとしてきた思考のモデル)をも疑わざるをえなくなる。 もうひとつ「コミュニケーション」ということばについても調べてみよう。第1段階では、コミュニケーションは思想とか情報を取り立てた形でやりとりする段階には達していない。この段階でのコミュニケーションは、儀式的で衝動的である。「おはようございます。ごきげんいかがですか」-「おかげさまで」といったやりとりは儀式的コミュニケーションの典型である。ここで意図されているのは一種の相互認識である。手紙における時候の挨拶や「拝啓」「敬具」といった決まり文句もそうである。敬語や敬称は相手との心理的距離を保ち礼儀を維持するのに一役買っている。社交的な付き合いの場における会話を持ってコミュニケーションとしている人たちもこの段階にあるといえる。
他人にがみがみ意見をしたり、怒鳴りつけたり、叱ったりするといった、言葉を通した感情のほとばしりもこの段階の衝動的なコミュニケーションの例である。話し手は自分の感情の抑圧から解放されることになるが、聞き手がそこから有益な内容を受け取ることができるかどうかは別問題である。自分の番が待ちきれずに発言したり、質問といいながら自分の言いたいことを主張する場合など、自己主張や自己顕示の欲求を満たすための行為などもこの段階に入る。
第2段階では、メッセージそのものが注目の焦点になる。自分の意図を正しく相手に伝えるのにピッタリの言葉、説得力のある言葉を探し求める。間の取り方、身振りの使い方なども含めて話術を身につけようと思う。書き言葉においては、文章のスタイル、レイアウト、図表やイラストにも気を配る。話し合いの場合には、一定の手順に従って交互に交わされる言葉がうまくかみ合って組み立てられていく。いずれの場合も、言葉が明快で、内容がしっかり組み立てられていることが大切である。それは、ともすれば、イキイキした体験を型にはまった表現にむりやり機械的に押し込めてしまうことにもなりかねない。
第3段階におけるコミュニケーションは、伝達の方法だけでなく、聞き手の要求をも考慮に入れる。聞き手の関心、目的、態度、知識などに合っていることが大切である。話し手が聞き手に問いかけたり、聞き手を動かしてテーマに巻き込み、聞き手の心を能動的にする。デパートでの試食、新車の試乗など、何らかの形で受け手が参加する。コミュニケーションにおける受け手の役割は、送り手の役割に劣らず重要である。
では、第4段階「仮説と創造の段階」におけるコミュニケーションはどのようなものになるだろう? 一般にコミュニケーションとは、言語や身振り、その他の記号に情報や思想や意見などを詰め込んだメッセージを送り手が受け手に対して伝達することであると理解されている。その場合、いかに誤解を最小限にして正確に伝えるかということが問題になることが多い。コミュニケーション能力を向上させようとして、受け手の側の心構え、関心、その他の心理状態といった諸条件も考慮に入れて伝達が効率よく行なわれるための技術や言葉などの記号の操作方法に磨きをかけることになる。これは、ボワによる西欧文化発展の諸段階に照らし合わせると、第二の「分類の段階」や第三の「関係性の段階」におけるコミュニケーションのとらえ方であるといえる。これにたいして第四の「仮説と創造の段階」におけるコミュニケーションは、大きく異なる様相を見せる。それは「地図は現地ではない」ことや「地図は現地のすべてを表すわけではない」ということをよく知っている者同士の交流である。言い残されたことや他にも違った世界の切り取り方があるということを双方が承知している場合、意見や情報は、いつでも修正可能な仮説として提出される。聞き手の側も、必要とあれば、いつでもそれを自己の一部として取り入れる用意ができている。コミュニケーションを通じて何かを学ぶ姿勢が双方にできているので、お互いに積極的に耳を傾ける。部分の変化は全体の変容に繋がるということも分かっているので、論理だけでなく感情、価値、目的など、伝達の過程で受けるすべての影響を考慮に入れることができる。その結果、この段階でのコミュニケーションは、情報の送り手と受け手の双方の変容をともなうダイナミックなプロセスとなる。このようなコミュニケーションを通して深く親密な関係が築かれ、その信頼関係を基盤として、さらに深いコミュニケーションが行なわれることになる。しかし、信頼関係に基づくコミュニケーションは、時としてリスクをともなうことがある。親密であればあるほどコミュニケーションが失敗に終わったときの心の痛手は大きい。そんな場合にも落ち込まずにお互いを許せるところまで信頼関係が深まっていなければならないだろう。
以上のような要領で、今度は自分で試していただきたい。たとえば、自分は「いじめ」をどのようにとらえているのだろう? 自分が「いじめ」にあったときばかりでなく、「いじめ」の場に居合わせたとき、あるいは自らが「いじめ」に加担しているとき、どのような態度をとるかを、この方法で分析したらどのようなことが分かるだろう? そのほか、いろいろな概念についても認識論的プロフィールを使って振り返ってみることをお勧めしたい。
5 参加の段階 ボワは、さらに進んだ創造的コミュニケーションのありようとして「参加の段階」を用意している。動物的な無条件反応の段階から発展してきた人類の文化は、第5段階においてきわめて知的で自由な反応を獲得し、完全に状況に適応した行動が取れる段階に到達すると考えられる。では、完全に状況に適応し、状況と一体になった行動とはいかなるもので、どうすれば到達できるのだろうか。それには、ホリスティックな視点や方法を導入することが必要だと思われる。しかし、この「参加の段階」を語ることには慎重でありたい。じゅうぶんな経験基盤を共有できない事柄について語ることは、ともすれば現実離れした空虚な議論になりかねないからである。そこで、この点について筆者なりの見解は、近いうちに稿を改めて論じることにする。
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