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教師の主体性が問われている(映画「かすかな光へ」と「“私”を生きる」に寄せて)

2012年01月22日 | 「学び」を考える

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8日の日曜日、仲間を誘って待望の映画「かすかな光へ」(監督・森康行)を見た。研究者として実践者として学びの原点を問い続けてこられた大田尭さんの戦中戦後の歩みと93歳の現在も続けておられる活動を追ったドキュメンタリー映画である。

大田尭さんの著書は何冊か読んでいたが、実際に映画をみて強く印象付けられたのは、学びを生まれながらにして有する権利(基本的人権)ととらえて、学びのありようを生命体がもっている特徴のなかに見出そうとされたことである。その基本は生物の多様性にある。人はそれぞれ違って生まれてきて、他の生命体や自然との関わり合いのなかで、自らの意志によって選びながら変わっていく。そうした人間が生まれながらに備えている「自己創出力」を存分に発揮して、子どもたちが主体的に学び成長できる環境・条件を整えることが家庭、学校、地域社会における親、教師、大人の役割ということになる。

映画は、これまで大田さんのことを知らなかった人たちにも新鮮な感動を呼び起こしたようだ。あらためて、神戸での自主上映を実現してくださった実行委員会の皆さんに感謝し、その労をねぎらいたい。

 

いま、学校では教師自身の主体性と生き方が問われている。大阪では君が代条例や教育基本条例が取りざたされ、この16日には、入学式や卒業式で日の丸に向かって立ち君が代を斉唱するという校長命令に従わなかった東京都の公立学校教職員の懲戒処分をめぐる訴訟の上告審で最高裁の判決がでた。一般的にいえば、職務命令に従わなければ何らかの処分を受けるのは当然である。だが、その職務命令そのものが教師個人の思想信条に反するものだった場合、自らの良心にもとづいて、あえて職務を遂行しないという選択をした人たちは、はたして教職員として不適格といえるだろうか? 指導力がないわけでも教師の専門性が欠落しているわけでもない、まして暴力など反社会的な行為をしたわけでもない。そんな教師たちを行政は、どうして処分しなくてはならないのか? 東京都で職務命令に従わずに処分を受けた3人の教師の実像を追ったドキュメンタリー映画「“私”を生きる」(監督・土井敏邦)が、今、渋谷のオーディトリウム渋谷で上映されている。大阪では、28日から十三のシアターセブンで上映される。映画に登場するのは、元都立三鷹高校校長の土肥信雄さん、元中学校教諭の根津公子さん、小学校教諭の佐藤美和子さん。16日の最高裁判決は、行き過ぎた処分にたいして一定の歯止めをかけるものだったが、根津さんは繰り返し処分を受けたとして敗訴となった。処分取り消しを求めている土肥さんの裁判は、30日に東京地裁で判決が言い渡される。

国旗と国歌が果たす役割を私自身は全面的に否定するものではない。だが、かつて「日の丸」と「君が代」が軍国主義日本の象徴として使われ、多くの日本人を戦争に駆り立て、近隣諸国の人々にも多くの犠牲を強いてきたことを想うと、私のように多少とも戦争の経験を記憶にとどめている者には、簡単に割り切れない複雑な心情が残る。戦争を知らない若い人たちにとっても、自分たちの祖父母が経験した歴史的事実にたいする想像力をもっておくことは、自分たちの国の未来を選択するためにも必要だろう。

一つの立場、価値観を「教え込む」ことが教育ではない。子どもたちが、他者とかかわり、多様な考え方や価値観に触れて自ら考える。そうして自分の生き方を選択し、これからの社会を担う大人として成長するのを促すのが学校の使命である。そのために権威や大勢に流されず自らの思想信条にしたがって主体的な生き方を選んでいる教師の存在は不可欠である。

 

映画「“私”を生きる」

 

東京:2012114日(土)~23() オーディトリウム渋谷

大阪:2012128()217日(金)シアターセブン

 

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