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秋田史まとめ4

2013年07月26日 | 暇人の無駄知識
秋田の語源

7世紀の中ごろ阿部比羅夫(あべの ひらぶ)が180そうの水軍を率いてやってきた
ころの日本で初めて書かれた歴史の本「日本書紀」に、秋田の地名が
「齶田(あぎた)」と出ている。
齶田浦(現秋田港)は湾として入り江になっており、「齶」という字は本来「がく」と
読み「あご」のことであることから、入り江が顔のあごのようになっていたからでは
ないだろうか。
その後、まもなくアギタは「飽田」に書きかえられた。
説として「た」は場所を意味する接尾語で、「あい」という湧き水を意味する言葉から
「あいた」と呼ばれたという説や、湿地帯を意味する「飽く田」、アイヌ語の葦が生い
茂る場所の「あき・たい」、稲作に向かない土地としての「悪田」などがある。
やがて天平時代には、「秋田」と書かれるようになり、明治4年の廃藩置県により
藩の名をとって「秋田県」(1871年)8月29日とされた。

日本海に突き出た部分が土の岬「土崎」だったのではないだろうか。



「天保国絵図」

出羽国(秋田領)

江戸幕府の命で、慶長・正保・元禄・天保の4回、全国規模で国ごとの地図が作成された。
天保6年(1835)に作成が命じられ、同9年(1838年) に完成した。



拡大してみると、江戸時代には「秋田」は千秋に移転しており、入り江は「土崎湊」と
され、現在の土崎という町は「湊町」という名前になっている。
秋田湊だった地域が佐竹移転で秋田の名前をはずされ、湊町だけ残ったと言える。

現在は日本海に突き出た「土の岬」が存在しない。
小牧近江の父、近江谷栄次の土崎港湾開発で削り取られたのではないだろうかと思っている。

「土崎」の名前を誇りに思ってる住民も多いだろうが、本来「秋田湊」だった場所。
「秋田」を取られて残されたのは「湊町」そこに「土崎」をつけて「土崎湊」とした。
室町時代「三津七湊」として日本の重要港に指定されていた港町。
単純に「土崎」ではなく、「土崎港」として正式フルネームで呼ぶのが正解だろう。
もめごとの多かった新屋地区との対立で。新屋から「ザキ衆」とバカにされて
呼ばれた土崎港住民は「港衆」として反発。
自ら自分の愛する地を「ザキ」と呼ぶことに反感を持つ者も多い。
日本人が自分達を「イエロー」だの「ジャップ」だのと呼ぶのと同じことだな。


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1 コメント

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アフォに見えるよ (雲板)
2013-07-26 12:13:46
「ザキ」だの、「ザキ祭り」なんて言葉を使ってる連中は
エーフリこいてるみたいでも、自分で自分をバカにしてるようなもんだからね

ところで、この「土の岬」
画像を回転し、現在の地図と重ねてみると「北港」付近のような
「土の岬」が、「北防波堤」に姿を変えたか? なんて・・・
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