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秋田史まとめ3

2013年07月25日 | 暇人の無駄知識
秋田城介

奈良時代末の780年、秋田城に専当の国司を置くという決定に基づき鎮秋田城国
司として出羽介がその役にあてられた。
後、平安時代中期までに出羽城介は令外官(りょうげのかん)として出羽介の兼任
職としてみられるようになった。
令外官(りょうげのかん)とは、律令の令制に規定のない新設の官職で、既存の
律令制・官制にとらわれず、柔軟かつ即応的な対応を行うために置かれた。
出羽城介は秋田城に赴任して出羽国北部を統治する要職であったが、前九年の
役のとき廃止された。
鎌倉時代に秋田城介と名を変えて復活し、有力御家人の安達氏が任命された。
安達氏は秋田城に赴任しなかったが、周辺を支配した。
室町時代以降は名誉職になった。

9世紀後半から10世紀にかけては、元慶の乱(878年)をはじめとして蝦夷の反乱、
衝突など軍事的危機が出羽国方面で頻繁に起こり、秋田城を拠点にした軍勢が
対応に追われた。
出羽城介は鎮守府将軍と並ぶ北方防衛の担任者として重責を担った。
また秋田城介を経て鎮守府将軍に任命されるという武官のルートも出来た。
鎌倉時代の建保6年(1218年)に、鎌倉幕府の有力な御家人である安達景盛が
出羽城介に任じられ、約150年絶えていた出羽城介が復活した。
これより前、出羽城介廃止の頃から、出羽城介は「出羽秋田城介」「秋田城介」な
どと書かれるようになり、この頃より後には秋田城介の名で通用するようになった。
鎌倉時代には、霜月騒動の後しばらくを除き、代々の安達氏が秋田城介に任命
された。
安達氏は秋田城に赴任しなかったので、この時代の秋田城介は名誉職と説かれ
ることが多い。が、宝治合戦に安達氏一味の輩として参加した橘公義が秋田に
所領を持つことなどから、秋田城周辺を実際に支配していたとする説もある
室町期には秋田周辺に勢力をはった安東氏が秋田城介を名乗った。
1575年(天正3年)、織田信長の嫡男、織田信忠が秋田城介に補任された。
信長の全国統一に向けた戦略の一環だろうと見られている。
豊臣秀吉の治世下の1589年(天正17年)、安東氏の後裔(こうえい)、安東実季
(さねすえ)は秋田城介を称するとともに秋田城介に由来し、秋田氏を名乗った。
秋田氏は、関ヶ原の戦い後に常陸へ転封されたため秋田から生駒へ改氏したが、
その後、秋田へ復氏し陸奥三春へ移されて明治維新に至った。

出羽城介・秋田城介に任官した人物

出羽城介
不明 - 780年~938年
源嘉生 - 天慶2年(939年)免
某保利 - 天慶2年(939年)任 -
平斉章? - 天暦元年(947年)任
実忠 - 康保4年(967年)
平兼忠 - 天元3年(980年)任
平群利方 - 永観3年(985年)任
某信親 - 長徳元年(995年)
某奉好(平奉良?) - 長和4年(1015年)
源頼範 - 11世紀
平重成(繁成) - 永承6年(1051年)

秋田城介
安達景盛 - 建保6年(1218年)3月6日任
安達義景 - 嘉禄3年(1227年)11月29日任
安達泰盛 - 建長6年(1254年)12月任 - 弘安5年(1282年)
安達宗景 - 弘安5年(1282年)10月16日任
安達時顕 - 嘉元元年(1303年)頃
安達高景 - 嘉暦元年(1326年)頃
織田信忠 - 天正3年(1575年)任
秋田実季(安東) - 慶長16年1月15日(1611年2月27日)任


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